「ゴダールも「永遠」を見つけられたのかな? フィルム・ノワールへの愛と訣別を込めた伝説の代表作。」気狂いピエロ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ゴダールも「永遠」を見つけられたのかな? フィルム・ノワールへの愛と訣別を込めた伝説の代表作。
ジャン=リュック・ゴダールが死んだ。
なんとなく、いつまでも生きている気がしていたから、なんだか不思議な気がする。
それも、安楽死だという。
自分の始末は、自分でつけたわけだ。
いかにもゴダールらしい、とは思う。
彼は、1970年代以降の映画を、明らかに変えた。
彼の登場以降、映画は、物語から解放された。
彼の登場以降、映画は、娯楽から解放された。
彼の登場以降、映画は映画であるだけで、映画としての意味を持つようになった。
強烈な自負心と自己顕示欲をもったシネフィルが、圧倒的なセンスと知性を担保として、常人の理解の及ばない映画を作る。それは、それで別にかまわない。
でも、そのことが自らを知識階級だと「思いたい」スノッブの「劣等感」と「焦り」を喚起して、ある種の新たな映画文化を形づくった、というのがゴダール映画の面白いところだ。
「わからない」ことには、反撥が生まれる。
同時に、「わからない」ことには、憧憬も生まれる。
「わからないことをわかったかのように語る自分」。マウンティングの基本だ。
「わからないことをわかろうとする自分への陶酔」。これも、優越感の源泉だ。
ゴダール映画は、そういう「わからないことへの惧れ」を抱えている、頭のよい映画ファンでありたいと願う人々の「劣情」を悪魔のようにくすぐり、さまざまな感情を引き起こす恐ろしい「装置」であり、「試金石」だ。
わからないことへの怒り。わからないことへの不安。
それを、自意識的に自作の「武器」として持ち込んだという意味で、彼は同じように難解な映画を撮った監督群――たとえばベルイマンやタルコフスキー――とは、一線を画する。彼は、ありていにいえば確信犯的に観客を「弄んでみせた」のであり、難解さを意識的に「目的化」してみせた監督だった。彼の本性はあくまで「底意地の悪い映画小僧」であった、というのが僕の印象だ。彼は、「難解さ」をも観客の感情を操る「ギミック」として利用し、その方策を常に模索していたのだ。
ゴダール映画の本質は、「搾取」である。「映画を観て考える」というスノビッシュで気恥ずかしい観客の自慰的行為を見透かし、食い物にするという――。
かつては、そんなふうに考え、ゴダールを(正確にはゴダールのシンパを)憎んだものだった。
だが、今はもう、そうは思っていない。
それはゴダールの難解さと搾取の構図について、意見が変わったからではない。
あの「背伸びして」「あがいて」、「人の眼を気にしていた」感覚もまた、人間(とくに若者)にとっては「大切なもの」だったと、齢を経た今、痛感されるようになったからだ。
むしろ、ネットやSNSの「手軽さ」に慣れて、「難解さ」への憧憬を喪いつつあるユースカルチャーへの危機感は募るいっぽうであり、だからこそ、ゴダールはいま、観られるべき時が来ていると僕は思っている。
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ゴダールの長編第一作『勝手にしやがれ』と、『気狂いピエロ』のあいだには、作風において大きな懸隔がある。
どちらも、典型的なノワール・プロットを採用し、アメリカン・フィルム・ノワールおよび、セリ・ノワール叢書の形で紹介された英米の犯罪小説からの影響が顕著であること自体は同じなのだが、両作では端的にいって、ノワールの「扱い」とゴダールの「立ち位置」が異なるのだ。
『勝手にしやがれ』は、「我流のフィルム・ノワール」ともいうべき作品だ。
ヌーヴェル・ヴァーグの代表作と言われながらも、あの映画はじつのところ、アメリカのフィルム・ノワールの文法、骨法に沿って実に忠実に撮られている。傾倒するフィルム・ノワールに、ゴダールが自らの思考と個性を注ぎ込んで新生させた一作といってもよい。
ところが、『気狂いピエロ』の場合は違う。
『気狂いピエロ』は、言ってみれば、フィルム・ノワールの「パスティーシュ」だ。
わざわざライオネル・ホワイトのノワール小説を原作に採りながら、徹底的に「ノワールらしさ」をあえて切り捨て、おちょくり、小馬鹿にしている。
「世間からはみ出した犯罪者」は、単なるちょっと頭のおかしいいきあたりばったりの快楽主義者にすげ変えられ、「運命の女(ファム・ファタル)」は神秘性皆無のヤンデレヒロインに、「切羽詰まった逃避行」は南仏でのバカンスに、そして「作品全体を覆う夜の暗さ(ノワール)」は、明るい陽光と三原色の氾濫に置き換えられる。
言い換えれば、『勝手にしやがれ』は、ゴダールによるノワールに対する信仰告白(コンフェッション)のような映画だった。だが、『気狂いピエロ』はノワールに対する愛着を振り払うかのような、反逆と訣別の一作となったのである。
これ以降、ゴダールはアメリカン・ノワールの影響下から一段と離れて、独自の新しい道へと突き進んでいくことになる。
今回、映画を再見するのに合わせて、ライオネル・ホワイトの原作も読んでみた。
大まかなプロット自体は、変わらない。
家庭での生活に飽き飽きしている男が、富裕層のパーティから抜け出して、出逢った若い女の家に行くことに。だが、そこに死体が転がっていたせいで、ふたりは追われるように逃避行に出る――。ヒロインのいう「兄貴」が実はヤクザの情夫で、ついに二人の所在を見つけた主人公が……というところも一緒。
だが、似ているのはそこまでで、あとはほぼ別物といっていい。
まず、舞台がアメリカからフランスに移されている。
だから、当然ながら登場人物名も異なる。ついでにいうとラストも異なる。
重要なのは、台詞がほぼ総とっかえになっていて、原作から採られたらしきダイアログが、ひとつとして見つからないことだ。すなわち、ゴダール神話の一環である「撮影にシナリオを用いない」「現場の即興で台詞を組み立ててゆく」というスタイルが、出来上がりから実地に確認できるわけだ。
アンナ・カリーナによれば、実際には「ジャン=リュックが台詞をその場でどんどん変えるなんてことはなかったし、その場の思いつきの演出をしたことなど一度もない」らしいが、少なくともあの映画の台詞はほぼすべて、ゴダールと出演者に由来するものだ。
もうひとつ重要なのは、原作とはキャラクター自体、かなり異なっているということだ。
ヒロインのほうは、まだ原作の気風を残している。
「初めて出逢った17歳のベビーシッター」という原作の設定(ゴダールは、これをナボコフの『ロリータ』のノワール版として捉え、当初はシルヴィ・バルタンとリチャード・バートンに出演を依頼しようとしていたが、シルヴィには断られた)から、「昔付き合っていた若い女」という設定に変わっているが(おそらく、主演をベルモンドとアンナ・カリーナにした結果としての改変)、なにかしら残る「いびつな幼さ」と、突拍子もない行動力、人の死や犯罪を屁とも思わないサイコ気質といった、彼女のファム・ファタルとしての特性自体は相応に引き継いでいる。
だが、主人公のキャラクターは、根本の部分から改変されているといっていい。
まず原作に出てくるコンラッド・マッデンのほうが、断然常識人である。死体を見かけたらまず警察に通報しようとするし、ヒロインのめちゃくちゃぶりに振り回されて、つねに右往左往している。それでも彼は彼女に対する「妄執(Obsession、原作の原題)から逃れられず、犯罪に加担し、いつしか破滅してゆく。実に典型的な「ノワール」的主人公像だ。
一方、映画版の主人公フェルディナンは、もっと破天荒なぶっ壊れキャラだ。ファム・ファタルとしてのヒロインに「巻き込まれる」のではなく、自分から積極的に狂気に「シンクロ」して、一緒になってエスカレートしながら、現実からの逸脱と破壊行為を繰り返してゆく。より実存主義的で刹那的な主人公像ともいえる。
それから、原作に出てくるコンラッド・マッデンは、シナリオライターとして文筆業に従事しながらも、必ずしも文化的なスノッブではない。四六時中、美術書を読み、詩を引用し、アフォリズムを口にする高等遊民ワナビーのフェルディナンとはまさに正反対のような人間だ。
原作の冒頭に、パーティで奥さんのマータが詩人の若者といちゃいちゃしているのを見てコンラッドが考えにふけるシーンがある。
「なにが起こったのかは火を見るより明らかだった。マータは繊細な心の持ち主を見つけたのだ。
(中略)ほかの招待客たちは、ふたりの目から見れば俗悪で粗雑な人間ばかりだからだ。(中略)青年はマータに自分のすべてを打ち明けた。それから一冊の詩集を見つけると、彼女のために朗読しはじめた。この世界に、これ以上純粋無垢なものはない。しかしおれにとっては、これ以上吐き気を催させるものもなかった。」
どうだろう? 原作のコンラッドが全力で否定し、小馬鹿にしている「側」にフェルディナンがいるではないか。
ゴダールは、ノワールのなかの「文化的素養はあるのにハイカルチャーを忌避する庶民であり続けようとする主人公」を、「俗悪で粗雑な人間を見下して、楽園での審美的な生活を希求する高等遊民志願の主人公」へとすげ変えることで、アメリカ的なクライム・ノヴェルを、フランス的な実存主義的映画へと組み替えてみせたのだ。
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『気狂いピエロ』の「わかりにくさ」は、後年の「本当にわかりにくい」諸作品から比べれば、むしろ序の口というか、たいしてわかりにくいと喧伝するほどのものでもない。少なくとも筋は追えるし、破滅へと至る「愛の物語」として、きわめて簡素な構造を持っているからだ。
ただ、観た人の多くが「難解だった」と考えるのは、繰り返される美術作品や詩からの引用が、お話とどう絡んでいるのかぱっと捉えられないことに加えて、「語り口の難解さ」が必ずしも「内容の深度」につながっていない感じがしてしまうことに戸惑う部分があると思う。
たとえば、フェリーニやベルイマンやタルコフスキーの「難解さ」って、難解であることに理由があるというか、難解にしないと伝わらない内奥があることが体感的に「わかる」から、難解さ自体にはあまり違和感が生じないのだ。だが『気狂いピエロ』の場合、その「難解さ」が、何に由来するものかがよくわからない。そこまで深いテーマが呈示されているわけでもないように思えるのに、やたらめったら引用がコラージュされて、「読み解くことを強要されている気にさせられる」。
いわば、多くの観客の胸奥では「ファッション難解さ」への疑念がくすぶっている。だから、余計に難しく感じる、という構図だ。
その実、本作はそこまで「構えて」観る映画ではないのかもしれない。
暗誦される詩や美術書からの引用は、どうせなんのことかわかりようがないんだから、聞き流しておけばいい。もともとフランス語の韻律詩なのだ、字幕だけでわれわれに意味がとれるわけがない(笑)。
意味のよくわからない展開や、実験的なショットの数々も、雰囲気で観ていれば十分だ。あれらは、どちらかというと「隠された理由がある」というよりは、「映画的技法の実験」や「ノワールへの反逆性」自体を目的としたものだからだ。彼の絢爛たる「引用」と「コラージュ」は、創作の原理そのものであって、そのすべてに「意味」が見出せるわけではない。
だからわれわれはただ、一人の男が、魅力的だが壊れた女に恋をして、執着し、やがて破滅するラブ・ストーリーとして、『俺たちに明日はない』や『冒険者たち』のように、ふつうに楽しんで観ればいいのだ、と思う。
とか書いているうちに紙幅が尽きてしまった。
特に好きなシーンを2つだけあげて終わりとしたい。
まず、海に車で突っ込むヒキのショット。一瞬わからない程度に、ぱぁっと虹がかかるのが最高。(皆さんお気づきでした?)
それから、なんといってもやはり、あの鮮烈なラスト・シーン。
青いウォーペイント。黄色と赤のダイナマイト。
あのラストがあるだけで、他がどんなに内心退屈に思えたとしても、僕はこの映画をいつまでも愛せる気がする。
最後に。亡くなられたゴダールに、心からの追悼の念を捧げます。
彼もまた、水平線の先に自らの「永遠」を見つけることはできたのだろうか?