気狂いピエロのレビュー・感想・評価
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象徴的、印象的な画面
「勝手にしやがれ」とストーリーが少し似ているけれど、こちらは色も入ってきて、象徴的より印象的に画面がつくられていて、語りと相まって、ひとつひとつの場面が絵のようだった。見るという点では、楽しませてくれた。
たとえば、間が抜けた感じがするところは、それは間が抜けたものを意味する場面なのだと。
どこか下品で口紅ばかり気にしている女は、それはそういう女なのだと。
彼に最後に残されたものは、孤独と、何も無い海だけだった。
この人の作品の結末は全部こんなのばかりなのかしら。
つまり"感情"だ。
作中に出てくる映画の定義にこの映画が沿っているのなら、この映画は感情でできているのだろう。
その感情は男と女が、互いに抱き合う感情なんだと思った。
感情は言葉にならない。だから、態度や行動で示すのがマリアンヌ。
対して、言葉にしようと悪戦苦闘するのがフェルディナン。
男は女が理解しようとしないのに苛立つ。
女は男ができないことが明白なことに悪戦苦闘してる様子をピエロだという。
恋愛映画と言い切ってしまうのは浅はかに思われるのがこの映画の意地悪なところで、当時の時代の雰囲気、ベトナム戦争や、中東の戦争についての言及が政治に興味津々のゴダールらしい。
つまり、いろんな要素がとっ散らかっていて訳がわからない。まるで一人の人間の内面のように多面的な"ロマン"だ。
私事だが、僕はフェルディナンにとても共感した。好きな女の子にはどうしても甘く、そして、自分のありのままの正確な気持ちを伝えたくなる。しかし、女はそれに苛立ち、男はそれに気づかない。辛くなった。
女は女で、男のことが愛おしくなる時もあるが、それが伝わらないことを知っていて、諦め、絶望しているが、そんなもんだと腑に落ちている(のだと感じた)。男はそれが理解できない。女を抱きたいという言葉には相手の気持ちも理解したいと思っているという意味もあるはずだ。
でも、そんなことをずっと言ってるわけじゃない。人生だから、関係ないつまんないこともある。それが、ベトナム戦争の話だったり、追ってくる犯罪組織だったり、が、この映画を人生そのものに近づけている。
「あなたにとっての1番の映画は?」
と、聞かれた時、僕は「気狂いピエロ」と言った。その選択には格別の自信があった。その人は僕に問うた。「なぜ?」
答えられなくてとても悔しかったが改めて観た今は思う。言えないのは当然。これは僕が好きな女の子に伝えたくて、死ぬ思いした"感情"そのものだったから。
デカダンス・ピエロ
久しぶりに観たのでレビューします。
むかし1回だけ観て、ラストシーンしか覚えてなかったんですけど、あらためて観た感想です。
『俺たちに明日はない』をベースに、メチャクチャ退屈にした感じで、
まー退屈で、眠い眠い…
淡々としてて、眠い眠い…
詩的で、眠い眠い…
メチャクチャにウトウトしました(笑)
なんなのコレ(笑)
救いはオシャレな感じだけ(笑)
55点ぐらい。
フランス国旗な感じと、作品の中の主人公が作品の中と自覚してる現象と...
フランス国旗な感じと、作品の中の主人公が作品の中と自覚してる現象とか、
おらには計り知れないほど頭良いすぎるけど、なんか、これぞフランス映画って感じ、勉強になります!
芸術家は常に実験を繰り返す。現代美術として触れればしっくり来る。
筋書きのない今日
筋書きのない明日
筋書きが無いから難解に感じる。
ワンカットの中に物語があり
ワンシーンの中に物語がある。
この作品は現代美術に似ている。
色彩は台詞を語り
台詞は人生を語る。
主人公たちは制約の中で自由を生き
その自由が終わる時、制約も終わる。
この映画で表現されているのは現代美術と同じ、
当時の「表現のひとつ」なのだと思う。
※
金持ち妻と結婚し、娘をもうけ、有閑階級たちと退屈な日々を送るフェル...
金持ち妻と結婚し、娘をもうけ、有閑階級たちと退屈な日々を送るフェルディナン(ジャン・ポール・ベルモンド)。
ある夜の退屈極まりないパーティを切り上げてひとり自邸へ戻ったところ、昔の女マリアンヌ(アンナ・カリーナ)と再会した。
彼女はベビーシッターとして妻の兄に連れて来られたのだ。
退屈な日々から刺激的な日々へ・・・そう思っていたフェルディナンはマリアンヌと自邸を出てホテルで一夜を共にし、翌朝、彼女が暮らしているという政治結社の部屋へ向かうとそこには死体が転がっていた。
マリアンヌの兄がいるという南仏へ、フェルディナンとマリアンヌの逃避行がはじまる・・・
といったところからはじまる物語で、物語的には『勝手にしやがれ』と大差がない。
ファム・ファタル(運命の女)によって事件に巻き込まれるノワール映画だが、ノワール(黒)といいながらも、明るくカラフルでめちゃくちゃペラい。
ペラいなんて言っちゃいけないのかもしれないけど、このペラさは狙いだろう。
ペラい画面の隙間を埋めるのが、哲学的(にみえるが、単なる言葉遊びにしか見えないこともない)なモノローグと短文。
フェルディナンがしたためるメモの言葉、それに絵画のショット。
フランス語がわからない日本人なのが残念に思えて仕方がないのは「言葉遊び」の方で、「愛」「死」「戦い」など思わせぶりな単語の羅列と組み換え・変化は、落語でいうところの「地口」のようなものなんでしょう。
高尚なようで高尚でない。
そこがミソ。
『気狂いピエロ』なんて思わせぶりな日本語タイトルが実はあまりよろしくなく、マリアンヌが何度も何度もフェルディナンをそう呼ぶのだけれど、ニュアンス的には「おバカなピエロ、馬鹿ピエロ」といった愛嬌を込めての呼び方。
ジャン・ポール・ベルモンド演じるフェルディナンは、『勝手にしやがれ』のミシェルの延長線上にあるように思えるが、決定的に異なるのは、フェルディナンがインテリ志向で軟弱、根性なしのヘタレ、だということ。
タフガイにあこがれるインテリヘタレ。
だから「馬鹿ピエロ」。
「兄が助けてくれる」というマリアンヌの言葉を信じてしまう「お間抜けピエロ」でもある。
(兄ではなく情夫だった)
最後は自暴自棄でダイナマイトを頭に巻き付け自殺を図るが、火のついた導火線から爆発へと瞬時にカットは変わるが、あそこは火を消そうとして焦ったんだよね、実は。
ということで、「まぬけな馬鹿ピエロの最期」というのが相応しい。
30数年前にフィルムで観たときには(ニュープリントだったが)あまり発色が良くなかったが、今回のデジタル2Kレストア版では明るくカラフルで画面の魅力が増大。
特筆はラストシーンで、「海と空が溶け合って・・・」というのが、フィルムではカメラがパンし始めたときから海と空の境界線がはっきりしない感じだったのが、パン当初は境界線がくっきりと浮かび、太陽をとらえた時点で「溶け合って」とひとつになる感じがよく出ていました。
笑うとときどき下品になるアンナ・カリーナは、ファム・ファタルにうってつけですね。
ピエロは退屈な社会から逃れ、アルジェリアの殺し屋に追われる少女マリアンヌとともにパリから地中海へ旅立つ。
1965年に公開されたフランス映画の最高傑作のひとつ。ジャン=リュック・ゴダールというフランスの「老人」が、はるか昔に作った映画が、なぜ私の網膜を鮮やかに刺激し続けるのだろう。それだけが疑問である。
ゴダールなら、国をあげて、国葬でもやれば好いのにと思ってしまう。故人を悼もう。
ヨーロッパの3大映画監督といえば、①ゴダール、②マカヴェイエフ、③ジャン・コクトー、と答えることになる。
R.I.P.
初見でツマランもんは今もツマランね。
30年振りかの再見。
ま、初見当時同様に今見てもツマランもんはツマラン。
ヌーベルバーグでも何でも多感な青春期に同時代的に共有しないと、なのね。
北野の特に3-4Xの引用を今更発見したが、だから?と自問。
色彩の鮮烈は印象的だが、だから?と。
すみません。以上です。
やっぱりわからんよね。
AMAZON EXCLUSIVE「DOMMUNE RADIOPEDIA」【大百科66】町山智浩の「MOVIE WATCH CONFERENCE」Vol.15
Jean-Luc Godard 追悼プログラム「気狂いピエロ」で、久方ぶりに鑑賞。
要するに、複雑に考えてるのは昭和生まれ世代(大きなストーリーのもと大きくなってきたからこそなんだと解釈することで腹落ちした)で、それらにはわからないってことを理解した(知らんけど)。
けど、作品をやっぱり理解できなかった。もしかしたら、ブルースリー的な「考えるな、感じろ」なのかもしれんけど、わからんよって話。
町山さんと菊地さんの解説を聞きながら、いつバトルが始まるのか楽しみだったのに、町山さんが引いた感じに、あの時の引け目を感じた。
退屈から逃げて逃げて殺して死んだ
服も海も車も赤青黄とカラフルで、ピカソやマティスやモディリアーニやシャガールの複製に山ほどの文学引用と美術史と本。アートの中で愛しあって好きなものを言い合う二人の話は、女は具体で男は抽象、全然噛み合わない。
こんなバカンスがあってもいいかもしれない。ベトナム戦争といいアルジェリア戦争といい、若い人を使って殺戮しまくってる大人世界のど真ん中で死ぬ位なら腰の線が美しい恋人と逃げて逃げて殺して自分も自分で死んだ方がいいと思うのはありかもしれない。
最後のおだやかな海の映し方は日本的だった。ベルモンドの若くて美しくて細い指に心奪われた。
ゴダールも「永遠」を見つけられたのかな? フィルム・ノワールへの愛と訣別を込めた伝説の代表作。
ジャン=リュック・ゴダールが死んだ。
なんとなく、いつまでも生きている気がしていたから、なんだか不思議な気がする。
それも、安楽死だという。
自分の始末は、自分でつけたわけだ。
いかにもゴダールらしい、とは思う。
彼は、1970年代以降の映画を、明らかに変えた。
彼の登場以降、映画は、物語から解放された。
彼の登場以降、映画は、娯楽から解放された。
彼の登場以降、映画は映画であるだけで、映画としての意味を持つようになった。
強烈な自負心と自己顕示欲をもったシネフィルが、圧倒的なセンスと知性を担保として、常人の理解の及ばない映画を作る。それは、それで別にかまわない。
でも、そのことが自らを知識階級だと「思いたい」スノッブの「劣等感」と「焦り」を喚起して、ある種の新たな映画文化を形づくった、というのがゴダール映画の面白いところだ。
「わからない」ことには、反撥が生まれる。
同時に、「わからない」ことには、憧憬も生まれる。
「わからないことをわかったかのように語る自分」。マウンティングの基本だ。
「わからないことをわかろうとする自分への陶酔」。これも、優越感の源泉だ。
ゴダール映画は、そういう「わからないことへの惧れ」を抱えている、頭のよい映画ファンでありたいと願う人々の「劣情」を悪魔のようにくすぐり、さまざまな感情を引き起こす恐ろしい「装置」であり、「試金石」だ。
わからないことへの怒り。わからないことへの不安。
それを、自意識的に自作の「武器」として持ち込んだという意味で、彼は同じように難解な映画を撮った監督群――たとえばベルイマンやタルコフスキー――とは、一線を画する。彼は、ありていにいえば確信犯的に観客を「弄んでみせた」のであり、難解さを意識的に「目的化」してみせた監督だった。彼の本性はあくまで「底意地の悪い映画小僧」であった、というのが僕の印象だ。彼は、「難解さ」をも観客の感情を操る「ギミック」として利用し、その方策を常に模索していたのだ。
ゴダール映画の本質は、「搾取」である。「映画を観て考える」というスノビッシュで気恥ずかしい観客の自慰的行為を見透かし、食い物にするという――。
かつては、そんなふうに考え、ゴダールを(正確にはゴダールのシンパを)憎んだものだった。
だが、今はもう、そうは思っていない。
それはゴダールの難解さと搾取の構図について、意見が変わったからではない。
あの「背伸びして」「あがいて」、「人の眼を気にしていた」感覚もまた、人間(とくに若者)にとっては「大切なもの」だったと、齢を経た今、痛感されるようになったからだ。
むしろ、ネットやSNSの「手軽さ」に慣れて、「難解さ」への憧憬を喪いつつあるユースカルチャーへの危機感は募るいっぽうであり、だからこそ、ゴダールはいま、観られるべき時が来ていると僕は思っている。
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ゴダールの長編第一作『勝手にしやがれ』と、『気狂いピエロ』のあいだには、作風において大きな懸隔がある。
どちらも、典型的なノワール・プロットを採用し、アメリカン・フィルム・ノワールおよび、セリ・ノワール叢書の形で紹介された英米の犯罪小説からの影響が顕著であること自体は同じなのだが、両作では端的にいって、ノワールの「扱い」とゴダールの「立ち位置」が異なるのだ。
『勝手にしやがれ』は、「我流のフィルム・ノワール」ともいうべき作品だ。
ヌーヴェル・ヴァーグの代表作と言われながらも、あの映画はじつのところ、アメリカのフィルム・ノワールの文法、骨法に沿って実に忠実に撮られている。傾倒するフィルム・ノワールに、ゴダールが自らの思考と個性を注ぎ込んで新生させた一作といってもよい。
ところが、『気狂いピエロ』の場合は違う。
『気狂いピエロ』は、言ってみれば、フィルム・ノワールの「パスティーシュ」だ。
わざわざライオネル・ホワイトのノワール小説を原作に採りながら、徹底的に「ノワールらしさ」をあえて切り捨て、おちょくり、小馬鹿にしている。
「世間からはみ出した犯罪者」は、単なるちょっと頭のおかしいいきあたりばったりの快楽主義者にすげ変えられ、「運命の女(ファム・ファタル)」は神秘性皆無のヤンデレヒロインに、「切羽詰まった逃避行」は南仏でのバカンスに、そして「作品全体を覆う夜の暗さ(ノワール)」は、明るい陽光と三原色の氾濫に置き換えられる。
言い換えれば、『勝手にしやがれ』は、ゴダールによるノワールに対する信仰告白(コンフェッション)のような映画だった。だが、『気狂いピエロ』はノワールに対する愛着を振り払うかのような、反逆と訣別の一作となったのである。
これ以降、ゴダールはアメリカン・ノワールの影響下から一段と離れて、独自の新しい道へと突き進んでいくことになる。
今回、映画を再見するのに合わせて、ライオネル・ホワイトの原作も読んでみた。
大まかなプロット自体は、変わらない。
家庭での生活に飽き飽きしている男が、富裕層のパーティから抜け出して、出逢った若い女の家に行くことに。だが、そこに死体が転がっていたせいで、ふたりは追われるように逃避行に出る――。ヒロインのいう「兄貴」が実はヤクザの情夫で、ついに二人の所在を見つけた主人公が……というところも一緒。
だが、似ているのはそこまでで、あとはほぼ別物といっていい。
まず、舞台がアメリカからフランスに移されている。
だから、当然ながら登場人物名も異なる。ついでにいうとラストも異なる。
重要なのは、台詞がほぼ総とっかえになっていて、原作から採られたらしきダイアログが、ひとつとして見つからないことだ。すなわち、ゴダール神話の一環である「撮影にシナリオを用いない」「現場の即興で台詞を組み立ててゆく」というスタイルが、出来上がりから実地に確認できるわけだ。
アンナ・カリーナによれば、実際には「ジャン=リュックが台詞をその場でどんどん変えるなんてことはなかったし、その場の思いつきの演出をしたことなど一度もない」らしいが、少なくともあの映画の台詞はほぼすべて、ゴダールと出演者に由来するものだ。
もうひとつ重要なのは、原作とはキャラクター自体、かなり異なっているということだ。
ヒロインのほうは、まだ原作の気風を残している。
「初めて出逢った17歳のベビーシッター」という原作の設定(ゴダールは、これをナボコフの『ロリータ』のノワール版として捉え、当初はシルヴィ・バルタンとリチャード・バートンに出演を依頼しようとしていたが、シルヴィには断られた)から、「昔付き合っていた若い女」という設定に変わっているが(おそらく、主演をベルモンドとアンナ・カリーナにした結果としての改変)、なにかしら残る「いびつな幼さ」と、突拍子もない行動力、人の死や犯罪を屁とも思わないサイコ気質といった、彼女のファム・ファタルとしての特性自体は相応に引き継いでいる。
だが、主人公のキャラクターは、根本の部分から改変されているといっていい。
まず原作に出てくるコンラッド・マッデンのほうが、断然常識人である。死体を見かけたらまず警察に通報しようとするし、ヒロインのめちゃくちゃぶりに振り回されて、つねに右往左往している。それでも彼は彼女に対する「妄執(Obsession、原作の原題)から逃れられず、犯罪に加担し、いつしか破滅してゆく。実に典型的な「ノワール」的主人公像だ。
一方、映画版の主人公フェルディナンは、もっと破天荒なぶっ壊れキャラだ。ファム・ファタルとしてのヒロインに「巻き込まれる」のではなく、自分から積極的に狂気に「シンクロ」して、一緒になってエスカレートしながら、現実からの逸脱と破壊行為を繰り返してゆく。より実存主義的で刹那的な主人公像ともいえる。
それから、原作に出てくるコンラッド・マッデンは、シナリオライターとして文筆業に従事しながらも、必ずしも文化的なスノッブではない。四六時中、美術書を読み、詩を引用し、アフォリズムを口にする高等遊民ワナビーのフェルディナンとはまさに正反対のような人間だ。
原作の冒頭に、パーティで奥さんのマータが詩人の若者といちゃいちゃしているのを見てコンラッドが考えにふけるシーンがある。
「なにが起こったのかは火を見るより明らかだった。マータは繊細な心の持ち主を見つけたのだ。
(中略)ほかの招待客たちは、ふたりの目から見れば俗悪で粗雑な人間ばかりだからだ。(中略)青年はマータに自分のすべてを打ち明けた。それから一冊の詩集を見つけると、彼女のために朗読しはじめた。この世界に、これ以上純粋無垢なものはない。しかしおれにとっては、これ以上吐き気を催させるものもなかった。」
どうだろう? 原作のコンラッドが全力で否定し、小馬鹿にしている「側」にフェルディナンがいるではないか。
ゴダールは、ノワールのなかの「文化的素養はあるのにハイカルチャーを忌避する庶民であり続けようとする主人公」を、「俗悪で粗雑な人間を見下して、楽園での審美的な生活を希求する高等遊民志願の主人公」へとすげ変えることで、アメリカ的なクライム・ノヴェルを、フランス的な実存主義的映画へと組み替えてみせたのだ。
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『気狂いピエロ』の「わかりにくさ」は、後年の「本当にわかりにくい」諸作品から比べれば、むしろ序の口というか、たいしてわかりにくいと喧伝するほどのものでもない。少なくとも筋は追えるし、破滅へと至る「愛の物語」として、きわめて簡素な構造を持っているからだ。
ただ、観た人の多くが「難解だった」と考えるのは、繰り返される美術作品や詩からの引用が、お話とどう絡んでいるのかぱっと捉えられないことに加えて、「語り口の難解さ」が必ずしも「内容の深度」につながっていない感じがしてしまうことに戸惑う部分があると思う。
たとえば、フェリーニやベルイマンやタルコフスキーの「難解さ」って、難解であることに理由があるというか、難解にしないと伝わらない内奥があることが体感的に「わかる」から、難解さ自体にはあまり違和感が生じないのだ。だが『気狂いピエロ』の場合、その「難解さ」が、何に由来するものかがよくわからない。そこまで深いテーマが呈示されているわけでもないように思えるのに、やたらめったら引用がコラージュされて、「読み解くことを強要されている気にさせられる」。
いわば、多くの観客の胸奥では「ファッション難解さ」への疑念がくすぶっている。だから、余計に難しく感じる、という構図だ。
その実、本作はそこまで「構えて」観る映画ではないのかもしれない。
暗誦される詩や美術書からの引用は、どうせなんのことかわかりようがないんだから、聞き流しておけばいい。もともとフランス語の韻律詩なのだ、字幕だけでわれわれに意味がとれるわけがない(笑)。
意味のよくわからない展開や、実験的なショットの数々も、雰囲気で観ていれば十分だ。あれらは、どちらかというと「隠された理由がある」というよりは、「映画的技法の実験」や「ノワールへの反逆性」自体を目的としたものだからだ。彼の絢爛たる「引用」と「コラージュ」は、創作の原理そのものであって、そのすべてに「意味」が見出せるわけではない。
だからわれわれはただ、一人の男が、魅力的だが壊れた女に恋をして、執着し、やがて破滅するラブ・ストーリーとして、『俺たちに明日はない』や『冒険者たち』のように、ふつうに楽しんで観ればいいのだ、と思う。
とか書いているうちに紙幅が尽きてしまった。
特に好きなシーンを2つだけあげて終わりとしたい。
まず、海に車で突っ込むヒキのショット。一瞬わからない程度に、ぱぁっと虹がかかるのが最高。(皆さんお気づきでした?)
それから、なんといってもやはり、あの鮮烈なラスト・シーン。
青いウォーペイント。黄色と赤のダイナマイト。
あのラストがあるだけで、他がどんなに内心退屈に思えたとしても、僕はこの映画をいつまでも愛せる気がする。
最後に。亡くなられたゴダールに、心からの追悼の念を捧げます。
彼もまた、水平線の先に自らの「永遠」を見つけることはできたのだろうか?
勝手にしすぎ
キューブリックの「現金に体を張れ」と同じライオネル・ホワイト原作というから、本来はフィルム・ノワールの系譜なんだろうけど、ゴダールにはまともに物語を紡ぐ気はさらさらないので、正体不明の連中が出没し、主人公らも無軌道の限りを尽して、辻褄がよくわからない。この時期のゴダールはやたらと引用が多いが、台詞そのものもどこか引用めいて聞こえる。
随分以前に見た時はまだヌーヴェルヴァーグの熱狂の残滓があって、ゴダールを嬉々として追いかけていたものだが、今見るとあらが目立つ。そういうものも含めて愛すべき要素として、若さが惹きつけられていたのだろう。
タイトルはどうやら放送業界の自主規制の対象らしく、いつぞや深夜にTVで放送した時は「ピエロ・ル・フー」と原題のままのカタカナ表記になっていた。
巻頭、アルファベット順に浮かび上がるタイトルはめっちゃオシャレ。
死が究極の否定ではなくなった時代の象徴としてゴダールは死んだ
1 映画作品について
本作を最近初めて見たのだが、実はちっとも面白いと思わなかったのである。
聞けば、本作はそれまでの映画と関係者(制作者、評論家、マニア)向けに既存映画のルールを破って見せたものだから、既存映画のルールに通じていない小生のようなド素人には面白くない、ということらしい。
仮にわからない人が面白がるとしたら、俳優たちの身に着けているファッションとか女優の魅力、文学作品の引用等、表面的なレベルで面白がってみせるしかない。そうした表面的な「魅力」の部分を取り上げる人ばかり見てきたせいで、小生の中ではゴダールは知的スノッブ向けの知的スノッブ監督という固定観念が出来てしまった。
そうした表面的な「魅力」は、時代が離れれば離れるほど陳腐化していくから、評価されにくくなってくる。他方、いわば楽屋裏を見せたり、壊したりということが、何故そんなにプロ受け、マニア受けしたのか、というわからなさはますます大きくなっていき、優れて情況的映画の「情況」を語る人もいないとするなら、ゴダールの作品は映画史の中に埋もれていくだけかもしれない。
2 ゴダールの死
そのゴダールが9月13日に死んだ。享年91歳。死因が自殺幇助というのは、それがさも当たり前のことででもあるかのように報じられたのは、何やら象徴的ではなかろうか。彼の好きだった文学的引用で言えば、エリオットの詩がすぐ頭に思い浮かんだ。
エリオットの代表作『荒地』のエピグラフはこうだ。
「クーマエというところで一人の巫女が甕の中にぶら下がって暮らしていたのを実際に私は目撃したからだ。街の少年たちはいうのだ『巫女さん、あんたは何がしたいのだ』巫女はいつも答えた『わしは死にたいよ』」(ペトロニウス『サテュリコン』)
この後すぐに、あの有名な「4月はもっとも残酷な月」というフレーズが始まるわけで、「死」が否定の極致であるという前提で、死の匂いに包まれた時代に生を模索するのが『荒地』だった。
この詩が書かれてちょうど百年後の今年、ゴダールは自ら死んでいった。不死の呪いをかけられたクーマエの巫女と同じように、医学により生命維持の呪いをかけられた現代社会の中で、呪縛をほどくようにして喜ばしい死を迎えたのだと思う。
死が究極の否定ではなくなった時代の象徴として、ゴダールは死出の旅路についた。小生は彼のファンではないが、儀礼だから弔いの言葉をかけよう。
ボン・ボヤージュ、ムッシュ・ゴダール
“ヌーヴェル・ヴァーグの傑作”はツマラナイ
『勝手にしやがれ』と連続で観たけれど、これまたつまらない映画だった。
スチールや予告編からは刺激的で惹かれるものを感じたのだが、本編はやっぱり退屈だった。
マリアンヌが「ピエロ」と呼ぶたびにフェルディナンが自分の名前をいちいち言い返すところと、終盤登場する頭のおかしな男に「具合でも悪いのか?」と訊くところは笑ったけれど、あとは楽しめるところはほとんどなかった。
本作にも『勝手にしやがれ』と同様、ピカソの作品が何度も登場するが、ゴダールはピカソのファンだったんだろうな。キュビスムにも刺激を受けたのかもしれない――って、そんなことはどうでもいいや。
とにかく“ヌーヴェル・ヴァーグの傑作”は、心躍るものも、胸に迫るものも僕に与えず、映画館の暗闇に消えていったのでありました。
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