家族を想うときのレビュー・感想・評価
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右?左?資本主義もまともに歩めない者達に共産主義が聞いて呆れる
彼等に起きた事は冷静に対処していれば、大した問題ではない。すべて作られたデフォルメな状況と理解すべきだと思う。
だから、現実は『カモン・カモン』のはずだ。
但し、冷静さは常に持っていないといけない。
日本には年功序列と言う概念があった。現在はその姿の欠片もない。理由は色々あるが、人々の欲望と資本主義の本来の目的が一致したからだと思う。
つまり、一言で言えば、狡猾で冷静な者以外は、前途多難になると言っている。
この映画では、バカ親父以外は気付いたので良いが、この映画を尻切れで終わらせたのは、それに警鐘を鳴らしているのだと思う。
『資本主義か共産主義か』かと大義名分で経済を捉えてしまうが、
経済とは『経世済民』と言う言葉から起こった言葉だともう一度認識するべきだ。そして、それに絶対的に不可欠なのは『教育』だと思う。勿論、今の学歴しか考えない『教育』ではない。叡智を育む事の出来る教育である。
つまり、前科者になろうと、中学しか卒業していなくとも『学ぼう』とする冷静な態度が必要と訴え続けたい。勿論、生きるために。
親の心子知らず…
マイホーム購入のために、両親共に朝から晩まで働く。家族で顔を合わせる時間も少なくなり、多感な時期を過ごす長男が次々と問題を起こす。。日本でも運送業者の労働問題が起きており、ネット通販隆盛の時代において社会課題である。受け手が指定しておきながら不在にし、ドライバーが何度も届けなければならない。玄関前に置くことができるようにはなったが。時間に追われ、路上駐車や、運転自体の安全性も問われる。そもそも送料無料など、通販会社が店舗側に送料を負担するように求めるなど、送料自体の価値を安くし過ぎている。大手通販会社のみが利益を搾取しており、末端まで行き渡らない。妻の介護士の仕事も然り。サービスを受ける側も個人によって事情が当然異なり、画一化などできず、ここでもまた介護士の安い労働賃金の課題がある。もはや日本人のなり手も居なくなり、外国の更に安い労働者に頼らざらるを得なくなる。強い者が勝つと言うのは資本主義の常であるが、どうしてこの様な社会になってしまうのか、ケン・ローチ監督はこの社会構造の闇を痛烈に突いている気がする。しかし、こうして一生懸命働いているのに、子供は親の背中を見ないのだろうか。学校へも行かず、社会を批判したいのか、スプレーで落書きし、警察沙汰、おまけにそのスプレーを万引きまでする。批判する前にまずは社会の一員としてすることをしろ、義務を果たせと言いたくなる。一体何のために働いているのか。。親の躾けのせいなのか、、その一緒に過ごせる時間もないのか、、こうなる前にしなければならなかった、何ともやるせない。借金は膨らむ一方で、家族の静止を振り切ってまた働きに出るのは致し方ないが悲しい。
労働者階級
イギリスはいつの時代も労働者階級には悲劇が伴う。イギリスに限らず、世界中の国で同じことが起きているのだと思うけど、医療制度だけはまだましな国。今日、日本では75歳以上の医療費2割負担が成立する見込みだというニュースが流れた。中抜き企業だけが儲かって、医療費までは予算が回らないというふざけた国だ。
あれこれ社会問題を考えさせられるケン・ローチ作品。このイギリスでもリーマンショックの影響で多くの倒産企業があったとほのめかし、損をするのは労働者ばかりだとわかる。失業し、宅配ドライバーの道を選んだ父リッキーだったが、休んだら罰金、何もかも自己負担という現実に直面しつつも、頑張って優等生と呼ばれるまでになった。しかし、14時間働くことにより家族と一緒に過ごす時間が削られて・・・
妻アビーの自家用車を売ってまでして持ち込みバンで働くことを選んだリッキー。個人営業の割には時間厳守・罰金制度など厳しいけど、マイホームのためならしょうがない。しかし、息子セブの不始末により休まざるを得なくなり、稼ぐはずが支払いのほうが大きくなっていくのだ。
優れモノの機械も壊したら弁償!あぁ、やばそうだな。もちろん事故を起こしてもすべて自腹。わかる、わかるよ、俺も一緒だ。ただ、借金はないし、いつでも休めるところは違うけど。これに今のコロナの騒動が加わったらもっと大変。宅配業は大丈夫だろうけど。
最後はどうなったの?と、観客に委ねられる手法だったけど、自殺とかの暗い方向には行かないと思う。いったん家族を離れるだけ。「半年」という言葉もあったから、死に物狂いで働いてから戻ってくるのだろうと楽観的に想像してしまった。
ケンローチ監督の作品だったので
観てみたいと思いました。私はダニエルブレイクも大変見応えがあったから。出だしからよく似ているなぁと思ったけど、両作品とも手に汗握るタイプ。この作品は胃まで痛くなりそうだった。病院で待たせられる時間が今のイギリスを表しているのか?病院へ行ってもなかなか診断されるまで忍耐がいる。因みにこの様な場合、日本なら救急扱いですぐ見てもらえそうな気がする。息子が問題ばかり起こし荒れているのか?この両親を見ながら育ってこの息子はないなと思った。家族を思えば、どんな苦労も厭わない、そんな素敵な両親。いつも声を荒げない母親に感心した。鍵が無くなる事件も真相に驚いた。娘はとても親想いだったから。父親が交通事故でも起こしたのではないかと不安にさせられる終わり方だった。そうでない事を祈りたい。
労働者の悲哀と家族の想いを届ける
見ていて自分と重ね合わせ、身につまされる点が多々あった。
主人公は、宅配ドライバーの男。
と言うのも私、某大手宅配会社で同様の仕事をしているからである。
宅配の仕事って、大変なんです。
その日自分が受け持つコースのほとんどは午前中指定。多ければ個数で言うと100個以上。それを確実に届けなければならないし、遅れは勿論ダメ。
午後は残りの荷物は配達しつつ、今度は顧客先から出す荷物のお預かり。こちらも確実にお預かりしなければならないし、預かり漏れは絶対ダメ。特に会社などから出す重要書類は預かり忘れたら、ドエラい事になる。
配達地域も隅々まで覚えなきゃいけないし、どう効率よく回るか自分でルートを組まなければならない。
劇中で出てきたああいう機器、本当に使ってる。一年ほど前に支給された今使ってる新機種はなかなか使い易いんだけど、その前の機種、メチャクチャ使い難かったんだよね~。会社の現場に対する嫌がらせか!?…と思ったくらい。
お客さんは十人十色。劇中での客はちとステレオタイプだと思った。勿論ムカつく客、面倒な客、ワガママな客は居るが、全員がそうではない。会社もほぼ毎日行く所が多く、個人宅も常連さんが多いので、「どうもです~」「いつもご苦労様~」…と、こんな感じ。お国柄の違いかな…?
さすがに劇中で主人公を“襲った”ような事は無いが…。これもお国柄の違い…?
お客さん以上に面倒なのは寧ろ、会社そのものの方かもしれない。会社は“数字”しか見てない。数字を上げ、数字さえ良ければそれで良し。数字が全て。実際の集配の現場は、数字なんかで表せないほど大変。劇中同様の機器で管理され、イライラするほどの細かいルールも。年に一回、監査も入る。って言うか、コイツら、何が偉いんだ!?
さすがに劇中ほど過酷ではない。劇中では、毎日14時間、週6日、中には14日も休みナシ…あれはブラック企業レベルだ。あの上司も心を鬼にした鋼の精神の持ち主である傍ら、パワハラレベルだ。
一応我が会社も働き方改革でより現場を改善しようとしている、その真っ只中。
去年の超大型台風列島縦断の時一度だけ営業中止になったが、豪雨の日も強風の日も雪の日も。毎夏毎夏炎天下でも。(よく熱中症にならないもんだと自分でも驚き)
会社やそのお偉いさんの言い分も分かる。会社の社会への信頼、社員やその家族、生活の為。
でも、まだまだ現場の声がしっかり届いているとは言い難い。
何も劇中の宅配業のみならず、会社と働く側、働き、家族を養う人皆に響く。
誰もが共感するだろう。
前置きが長くなってしまったが、別に本作は、宅配業の知られざる裏側を描いた作品ではない。
厳しい生活と労働のある家族の物語。
家長のリッキーはマイホーム購入の為、個人事業を始める。それが、フランチャイズの宅配ドライバー。
はたらけば働くほど稼げる理想的な契約に思えたが…、実際は厳しいノルマや罰金などで借金は膨らみ、ろくに休めない日も続く。
妻のアビーもマイカーを売り払い、訪問介護で夫を支える。が、こちらの仕事も過酷で、突然の呼び出しなど時間外労働は当たり前。
忙しい両親に子供たちは不満を募らせる。まだ子供の長女ライザは寂しく、特に問題なのが思春期の長男セブ。何かと父に反発。事ある事に問題を起こす…。
久し振りの家族4人揃っての夕食。
談笑弾むも束の間、アビーが呼び出し。
父も母も出勤が早かったり、帰宅が遅かったり。家族が集う時間は稀。
そうなると当然、家族にすれ違いが…。
思春期の長男はその鬱憤を晴らすかのように、近所に“広告”と自称する落書きをし、学校で喧嘩、さらには万引きで警察にご厄介…。
学校や警察から呼び出されるも、仕事してる身としてはなかなか抜け出せない。
何とか抜け出すも、それは仕事やその日の稼ぎを放り出して。
家で説教してもセブはスマホいじってばかりで反省の色ナシ。それ所か父親に楯突く。
つい、手が出てしまう…。
いや、別に殴ってもいい。生意気で反抗してばかりで口だけのガキは一発殴るのも教育の一つ。それでDVだの体罰だのあーだこーだ言う輩や社会こそヤワ。
だけどそれは、あくまで覚悟の上で。それで分かってくれるか、それとも…。
この家族の場合、後者だった。
仕事も家庭も、何もかも上手くいかない。
何が悪いのだろう…?
何処で間違った…?
父親としては家族の為、家族を犠牲にしてまで働いている。だが、その想いが届かない。
子供としては親に親らしく出でる欲しい。なのに…。その想いが届かない。
一番身近なのに、このもどかしさ。
父親と長男の亀裂は決定的なものに。
支え、間に入る母親も疲れて果て…。
長女は寂しさと哀しさを募らせ…。
この家族は、もう…。
家族が再び絆を取り戻すには、きっかけが必要。
それは、痛々しい事態で。
父が仕事中、暴漢に襲われ大怪我を負う。
病院で診察を待っている時に会社から電話があり、盗まれた荷物と壊された機器と仕事に穴を開けた分として更なる罰金。リッキーが家族の為に有給を取ろうとした時も一蹴し、あのクソ上司、マジでムカつく!
その時、妻が汚い言葉でクソ上司に言い返す。妻はすぐ後悔したが、いら~胸がスカッとした! この時待合室で皆が同じ表情を浮かべ、妻の言葉は労働者たちの心底からの代弁なのだろう。
父親が怪我をした事で、家出していた長男が戻り、父を心配。あれだけ大喧嘩した後なので何だかこっ恥ずかしいけど、これが父親と息子なのだ。
翌朝、父親は怪我をした痛々しい姿のままでこっそり仕事に行く。それを止めようとする長男。続いて妻も。
それでも父は仕事に向かう。
働けど働けど。
ラストシーンの涙は胸打った。
厳しい社会、仕事、生活。しかしそんな中でも、家族の想いは誤配する事無く届いていた。
父親は無事、仕事を終えて家族が待つ家に帰れたろうか。ただただ、そう願う。
名匠ケン・ローチが、前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』後の引退を撤回してまで撮った意欲作。
イギリスのみならず世界中の労働者の悲哀がある限り、社会へ問題や疑問を投げ掛け続ける。
ギグ経済で人間生活の歪みがより酷くなってる
この映画で伝えたいことは、今の現在社会で、無視され置き去りにされがちな人々を『miss』(英題は Sorry We Missed You )してはいけないと言ってると思う。うまく言えないけど、この新しいギグ経済の仕組みの中で動いているが、社会の歪みのなかで、もがきながら懸命に生きている市民を見(miss)逃さず直視しろ ということだと思う。そして、人々がまず気づかなければ(意識化しなければ)、または無視してしまえば、社会は良い方に変わらないよと、言ってると想う。
現在、ギグ経済(Gig Economy)の時代で独立採算のフランチャイズの傘下に入ったが、働き手のリッキーは会社(PDF)
から保証されるものははっきり言ってなにもない。会社はリッキーの雇用で発生する人件費、福利厚生、人材育成にかかる時間やコストの削減。でも、リッキーの負担は一日休んだだけで発生する。
リッキーの家族は怠けていないし、必死に生きていても負債が増える。この映画を観て、ジェフ ベゾスのアマゾンとオーバーラップしたのは私だけだろうか。アマゾンがファランチャイズかどうか全く知らない。それに、アマゾンは一軒、一軒、認めのサインを貰わず、荷物を入り口に置いていく。トラッキングシステムがあるから、オンラインで買った人のスマホにいつ何時に荷物がつくかわかるらしい。個人的にアマゾンをボイコットしているので、システムはよく知らない。これを契機にアマゾンのドライバー募集を読んでみたが、詳細は連絡して聞くか面接したときでないとわからないようだ。他にも、タクシーのような働きをするウーバーがギグ経済の旗頭かもしれないが、一度も利用したことがない。
フリーランスの仕事もそうだ。私は個人的にフリーランスで、先生をしたことがある。先生が必要なときには声をかけてくるが、他は一切何も言ってこない。そして、声をかけられても、教えにいく場所は80k離れていたりして、ガソリン代も車に関すること事故は一切払ってくれないし、一件につき70%が私の収入になり、そこから州税、国税を払うし、必要な経費はすべて私持ちで、割りの合わない仕事だった。私は、他の仕事を持って収入があったから、フランチャイズの仕事を選り好みした。しかし、先生業でも定職がなかったら、リッキーのように、全てを犠牲にして稼がなければならない。果たして、近代社会の落とし子ギグ経済は弱いものの(所得が少なかったり、安定した仕事を持っていない)見方ではない。
映画ではフランチャイズといいながら、自分の車に娘を乗せたら、批判される。全てが雇用者の都合のいいようにできている。特に労働者階級のフランチャイズは自分や家族を犠牲にしても、生活していくため、働き続けなければならない。ここが問題なんだ。この映画の最後の恐ろしいシーンがこれを証明している。
コロナ感染のなかで、選択肢がなく感染しても収入がなければ家族を養えないから働きにいく人たちがいる。それに、落雷後の山火事で、空気資質が165もあって、危険だからなるべく中にいるようにと通達があっても、外で働かなければならない人たちがいる。不正なことだが、こういう人たちを犠牲にして、社会は成り立っている。
ケン ローチ監督とポール ラヴァティ脚本家、レベッカ オブライアン製作.
ポールは弁護士だし、ケンも多分弁護士になる勉強をした監督だと思う。この3人の社会の草の根運動の社会正義感にはあっぱれと声をかけたくなる。この宅配の現実ををこれだけリアルに追えるポールの洞察力や脚本力はすごいし、素人の俳優たちの(リッキーはちがう)演技もうまい。この演技から家族一人一人の優しさが伝わってくる。お互いに欠けていてもなにか助けあって、家族をうまく繋げていこうとしている。
{8/20/20}
ケンローチの映画はかなり観ているし、社会派の監督は大好きだ。でも、この映画は怖くて観ていられない。だから一時中断している。なぜかというと、家族の父親が日本流のアマゾンの配達員をフランチャイズで始めるから、車がいるので伴侶を犠牲にして、仕事を始める。これが、もう問題に思えるので怖くなった。その次に配達の会社で、荷物をスキャンする小型機械はとても高いもので、なくしたら自腹で弁償だと言われた。これがまた私に恐怖を与える。絶対にこういうものを壊したり、なくしたりする問題がおきる。交通渋滞で、配達先も見つかり難かったりして、なにか起きそう。恐怖感が襲ってきて、一時中断している。(8/14/20)
懸命にもがけばもがくほど大きな穴の中に沈んでいく
映画「家族を想うとき」(ケン・ローチ監督)から。
原題「Sorry We Missed You」は、字幕では「不在連絡票」と訳され
邦題「家族を想うとき」となかなかうまくつながらなかったが、
日本「万引き家族」「韓国「パラサイト 半地下の家族」に近い感覚を
持ちながら、観終わった。
共通しているのは、どの国の家族も「ハッピーエンド」ではなく、
「辛い、切ない」想いが最後まで残った。
「どこかで思い切らなきゃ一生賃貸暮らしだ」と、家族のために
フランチャイズの宅配ドライバーとして独立したものの、
「こんなに苦労するとはな」「何もかもうまくいかない」と嘆く父。
息子の非行で学校に呼び出されたが、夫は仕事だとわかっていても、
「なぜ父親は来ない?と怒られた」とイライラし、
「面談にも来ないで今さら何言うのよ? もう、うんざり」と、
仲の良かったはずの夫へ、怒りをぶつけてしまう妻は、
「怖い夢を見るの。砂の中へ沈んでいって、子供たちが棒で引っ張る。
でも、懸命にもがけばもがくほど大きな穴の中に沈んでいく」と
夫に打ち明けるシーンは、胸が締め付けらてしまった。
家族が家族のことを想ってしたことが裏目に出てしまう時の気持ちは、
言葉に言い表せないくらい辛い。
それでも、我慢して家族の幸せのために・・と行動するが、
それでも結果が出ない・・答えが見つからないまま、作品が終わる。
どの作品も、その後の家族が気になってしまうなぁ。
格差社会は、なぜ成り立つのか?
主人公と同じ、フリーランスとして働いている人には、ぜひ見てもらいたい映画。
格差社会と聞くと、一部の富める人達が、まじめに働いている人達から搾取している、ピラミッド構造を思い浮かべる。
この映画を見ると、格差問題の本質は、ピラミッドのような構造ではないことが分かる。
問題の本質は、社会的無関心。
タイトルの原文は、宅配の不在票に掛けてあると、解説して下さった方のコメントを読むと、社会に対して、埋没してしまった人の声を代弁したタイトルに聞こえる。
「確かに私はここにいたんですが・・」と。
そんな映画にも希望を感じる。
息子のセブは、両親が大変な思いをして働いているのに、問題ばかり起こす。
落書きで捕まり、喧嘩で停学になり、万引きで捕まる。
全てわざと。
お父さん、大事なことを忘れているよ。と伝えるために。
やりきれないラストだけど、この家族なら大丈夫と思いたい。
この映画には描かれていないけど、今はYouTubeなどで、質の良い情報を誰でも手にすることができる。
情報を手にすることが、とても大事であり、希望でもあると思う。
質の良い情報をシェアすること、シェアしてくれる人を有料コンテンツなどに入会して、応援すること。
今はとても良い時代だと思う。
働けど働けど、我が暮らし、楽にならざり、じっと手を見るの心境。
ミニシアター系で話題となっていた作品をやっとこ鑑賞しました。
で、感想はと言うと、重い。
あと個人的にラストの締め方が物凄く後味が悪い感じがします。
文学系の作品なので、こうなるんだろうけど、重いテーマを突き付けられて、出口が見えずに彷徨い歩く感じ。
夢も希望もあった物ではない。生きる気力は家族だけ。
負のスパイラルに陥ったと言えば、もうその通りなんですが、そこに足掻き苦しむ。
もう切な過ぎます。
石川啄木の「働けど働けど、我が暮らし、楽にならざり、じっと手を見る」の言葉を思い出しました。
リッキーは仕事を転々とし、配達業務の仕事にありつくが、会社とは個人事業主として契約。
生活の為、家族を養う為に遮二無二働くが個人事業主でフランチャイズとしての様々な制約がリッキーを苦しめる。
妻のアビーも訪問介護の仕事をしていて、過酷な労働を強いられる。
マイホームを夢見て、一刻も早く借金を返済する事を意識する事で仲の良かった家族との間に不協が響いてくる。
と言うのが大まかな荒筋でブルーカラーの職業問題は決して他人事ではない。
日本でも様々な働き方改革が取りざたされてますが、正直何処か他人事の様な感じがして、浸透しているとは言い難い。
働き方改革は本来企業と個人が同じ歩みで考える物かと思いますが、企業側の事情からか、そこまで追い付いてない(考えてない)感じがしますし、職種にもよるかと思います。
劇中でキーワードとなる個人事業主と言う形態は本来は自営業者に当たる物であるけど、フランチャイズでの個人事業主はその言葉通りではなく、意味合いも変わるし、いろんな制約が付きまとう。
日本でもアルバイトを個人事業主として契約させて、問題になってた事例がありましたが、企業側が得をする契約は山程あって、その手の問題は尽きません。
仕事の選択肢が少ない者には選ぶ程の余裕もなく、身を削って働き、食い物にされていく。
こう書くと身も蓋もないぐらいに切なく暗い。
それでも生きていかなければならない。家族を養っていかなければならない。
リッキーの思いと行動が切な過ぎます。
息子のセブが反抗期でいろんな事件を巻き起こしますが、根は良い奴。ただ父親への暴言はちょっと戴けない。
演じるリス・ストーンは低音の効いた良い声w
娘のライザが健気で良い子。“この子がいるだけでお父さんは頑張れるんだ!”とばかりに良い娘さんなんですよね。
終盤で以前に宅配した客から暴行を受け、荷物を奪われる。
病院で検査を受けている間にも会社からは連絡があって、様々な違約金と賠償金を伝えられる。
唯一の救いは妻のマギーが会社に怒りをあらわにし、息子が帰ってくる。
重症の身であるが、リッキーはそれでも翌日会社に出社しようとする。家族の制止を振り切って。
“どないせいちゅうねん!”とばかりにもう観ていて切なくて、会社に怒りが込み上げてくる。
“そこまでして働かなくてはいけないのか?”この問いには様々な意見があるかと思いますが、家族を持つリッキーの覚悟とも言えますし、そこまでしなければならない現実を問い掛ける監督のメッセージでもあるかと思いますが、それでも辛いなぁ。
原題の「Sorry we missed you」には2つの意味があるとの事で、1つは宅配の不在票に書かれた「お届けに伺いましたがご不在でした」と言う意味と、もう1つは「貴方を見逃していてごめんなさい」と意味があるとの事で、作品の意図を表現した上手いダブルミーニングかと思います。
邦題も悪くないけど、原題で良かったのではないかな?と思います。
また作中で老人が後ろ足の欠損した犬を散歩をさせていたシーンがありましたが、個人的にこれが印象に残っているのと、ここにもケン・ローチ監督の意図が隠されているのではないか?と勝手に推測w
歩く事は出来るけど、やはり不自由で不具合を生じる。
後ろ足の不自由な飼い犬は社会や会社に飼われている市民であり、足の不自由さは社会の不自由さ。
何かが足りない中でも前に進む事のメッセージなのではないかなと考えたりしたのですが、ちょっと深読みかな?
働く事は生きる事。
生きる為に必要な事。いろんな物が絡み合うけど、本来生きる事はもっとシンプルなのかも知れない。でも、いろんな事を考える…
いろんなメッセージが隠されていて、ただ重いだけではない。
深いメッセージと社会の歪みを描いている「良薬口に苦し」な作品で見応えがありますが、…やっぱり重くて、「映画はハッピーエンドが良いなぁ」と思ってしまいます。
それでも、観て損は無いと思いますし、いろんな事を考えさせてくれる作品です。
たまにはこう言う作品も良いかなぁと思いますので未鑑の方は如何でしょうか?
救いはない、でも現実感がある。
良い兆しがないまま終わるのは、それだけ現実の残酷さを観客に突き刺したいから。
ケンローチの苦言をありがたくいただく。
奥さんね、偉いよね。わたし彼女の仕事を絶対できない。マスクせずに下の世話って絶対無理。介護される人に、あなたから学んでいるって優しく言えるアビーの爪の垢、飲ませてもらわなあかんなぁ…
つらい
奥さんに車を買ってあげて欲しいし、負担の少ないルートにしてもらってもうちょっと楽に生活した方がいいとしか思えない。家族と過ごす時間がなさすぎるので子どもを配達に連れて行くくらい多めに見て欲しい。
長男の声が低くてお父さんより貫禄のある声なのだけど、行動は幼くて、精いっぱい大人ぶって低い声を出している感じがまた幼くていい。
みんな不器用で切ない。リアルな貧困でギリギリの生活はしんどい。自分もいつ転落するか分かったものではなく、その場合に備えておくことの重要さを痛感させられる。
つらい、辛い、ツライ
前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』でひどい目(あまりのいたたまれなさに悶絶)にあったケン・ローチの新作ということで、期待と覚悟を持って観たわけだが…。
ちょっとずつ無理して、ちょっとずつすれ違って、ちょっとずつ間違えて、ちょっとずつ余裕がなくなって、ちょっとずつ悪い方へ進んでいく。のほほんとしていられたのもサッカーのくだりあたりまで。ジワジワ真綿で首を絞められるように…って表現はこういう時に使うんだねえ。
父ちゃん…気が短いが悪い人じゃないのは分かるが、余裕がなくなってからはいけない。ラストはいいとも悪いとも言えないが、それが彼の答えなのか。
母ちゃん…これまでこのおっとり母ちゃんの絶妙な舵取りがあってやってこれた家族なんだなというのがよくわかる。でもでもそれだって限度がある。感情労働つらい。
息子…不安定な時期なのはわかるけど…お前さあ、今それどころじゃないって自分でもわかってるだろうに。母ちゃんを泣かすなボケ! ただ終盤の成長は一つの希望でもある。
娘…もちろん悪気はないのはわかるが、考えが足りなかった。よかれと思ってしたことが悪い結果になることもあるって覚えたね。こうやっていっぱい間違えて大人になっていくんだよ。
と各人見てみたがそりゃあ聖人君子ではないが、生活や人生を破壊されなければならない人たちでは絶対にない。
最後の父ちゃんの選択だが、これ持ち堪えられるのだろうか。仮に父ちゃんが持ち堪えられても家族は持ち堪えられるのだろうか。
「家族を想う」が故に…。
医療の無償化など福祉国家とも形容されるイギリスだけど、本作や前作『私はダニエル・ブレイク』が示すように、制度的には崩壊の危機に立たされています。
イギリスの社会制度の危機に深く関わっているのは、新自由主義的な経済構造の浸透です。劇中でその影は、主人公一家を苦境に追いやった米国発のサブプライムローン問題(作中では示唆されている程度だったけれども)、そして名ばかり個人事業主として奴隷的な労働に従事させられる状況として現れています。
新自由主義的経済は地球規模で進行しているため、日本でも同様の状況が生じています。結末の主人公の行動に胸塞がれる思いをしつつも、仕方ないことなんだ、と自分に言い聞かせた人も多いでしょう。
あの非情な上司も、もしかすると家に帰ると家族を思いやる一人の父親かも知れない、仕事を失わないため職務を懸命に果たしているだけなのかも知れない、と思うと、一層やるせなさが募ります。
まったく感情移入できない
あれだけ頻繁にfour letter word 言ってればそりゃああんな感じの生活になるわいなとしか思えない。
そしてラストが中途半端すぎて、結局何がメッセージなのかよくわからない。
社会の不条理に渾身の怒りを持て
83歳の労働者の味方、庶民の代弁者、ケン ローチが社会の不条理に怒りを込めて作った作品。フイルムの端々から彼の怒りが、ふつふつと煮えたぎっているのが見える。
題名は「不在通知」。配達先が不在だったときに、配達人が置いていく通知書のこと。
映画は、真面目に働いて、真面目に家庭を持ち、きちんと税金を払い公共料金の支払いも滞りなく、働き詰めてきた労働者が、なぜ家庭を維持してやっていけないのか。貧しいものはどうして働いても、働いても楽になれないのか。虐げられているものは、真面目に生きて正直でいるのに、どうして騙されるばかりなのか。なぜささやかな家さえも買うことができないのかを問う。
社会のシステムが、壊れている。公共サービスが、利権中心の企業に切り売りされて内実を失い、福祉政策が形だけ残して無くなってしまった。市場原理の資本主義の構造が、むきだしになって、人々の上に襲い掛かる。人々は働いても働いても、生活ができないようになっている。これで良いのか。と、引退したはずのケン ローチは問いかけている。
ストーリーは
労働者の街マンチェスターで生まれたリッキーは、家族をもって今はニューカッスルに住んでいる。妻のアビーは、訪問看護師を勤め、長男セブは16歳で高校生、長女ライザは12歳、ジュニアスクールのに通う。2008年のリーマンショックに端を発した金融不況のあおりを受けてリッキーは、建設業の定職を失い、ローンを組んで家を手にする夢を失った。少しでも良い収入を望んで、いまフランチャイズの宅配業者のもとで運転手として働くことになった。契約では個人事業主となったリッキーは、配達用のバンを自分で買わなければならない。そのために古い自分の車も、妻のアビーが訪問看護に使っている車まで売り飛ばさなければならなかった。おまけに1000ポンド(14万円ほど)会社にフランチャイズの登録のために預け金を置かなければならない。いざ、働き始めてみると配達には厳しいノルマが課せられており、休日も、病気の時の保険もなかった。日々ノルマをこなすために、いったん運転席に座るとトイレに行く時間もなく、ユーリンボトルを持たされるはめに。荷物を持って配達先に行くあいだ、車を離れられるのは、3分間に限られている。急いで相手先に荷物を手渡して、走って3分で車に戻って、また移動だ。それでも仕事に少しでも楽しみを見つけようと、12歳の娘が望むまま助手席に乗せて、一緒に配達をしてみると、どこから知ったのかすぐにボスから忠告を受けて、止めさせられる。
一方、妻のアビーは日に何軒もの訪問先を移動するのに、車を夫に売られてしまったので、バスで移動しなければならない。効率が悪いので家に帰るのも毎日遅くなる。二人の子供たちに夕食を作ってやることも出来ず、冷凍のマカロニを温めて食べるように指示したり、子供たちはシリアルで空腹を満たしたりしている。息子がスプレー缶を持って、仲間たちと公共建物に落書きをして、警察に連行されても、リッキーは、ノルマを果たすために、警察に息子を引き取りに行くことができない。学校から呼び出されても、リッキーは配達の手を休めることができない。すべてのしわ寄せがアビーの肩にかかってくる。リッキーは疲れ切って家に帰って来る。彼には問題を起こした息子の話をきいてやるだけの余裕がない。怒りに任せて、息子の携帯電話を取り上げてしまう。息子は、自分の命の様に大事にしている携帯電話を取られて、逆上して家を出て行ってしまう。
翌日家に帰ると家に飾ってあった家族写真のすべてに、スプレーで罰点が描かれてぬりつぶされている。おまけに朝リッキーが出勤しようとすると車のキーがない。セブの仕業に決まっている。父親は息子を殺しかねない勢いで探す。でもキーを隠したのは、息子ではなかった。12歳の娘が、その車が家に来てから父親の人が変わってしまった。車が亡くなったら、以前の様に家族みんなで仲良く暮らせるだろう、そう思ってキーを隠していたのだった。リッキーは涙にくれる。それでも働きに行かなければならない。
その日、リッキーは、配達で車を離れた隙に二人の暴漢に襲われる。大事な配達物を奪われ、リッキーは、殴る蹴るの暴行を受け、病院に運ばれる。そこでボスに事情を説明すると、盗まれた荷物は保険でカバーされるが、配達できなくなった荷物のペナルテイーとして1000ポンド支払わなければならない、と通告される。病院に駆けつけて来た妻のアビーは、それを聞くと、夫の携帯を奪い取り、夫のボスに怒りをぶつけてるのを止められなかった。あなたのために今まで休日返上で家庭を犠牲にしてリッキーは働き続けてきた。いま仕事中に暴漢に襲われて大怪我をしているのに、どうしてペナルテイーを払わなければならないのか。夫のボスを怒鳴り散らしてしまったアビは、冷静になってみると、自分のしたことが、夫の失業を意味することを知って、あわてて夫に謝罪する。いや、いいんだ。いいんだよ。と妻を抱きしめるリッキーの折れた腕、痛む両足、切れた顔、満身創痍のリッキー。 翌朝、ごめん ぼくはもうここに居られない。SORRY WE MISSED YOU.不在通知を残してリッキーは家を出ていく。
というお話。
リッキーの話は、いま普通にどこにでも転がっている話だ。それほど社会は破綻している。フランチャイズ組織は、リッキーの配送会社に限らず、マクドナルドであり、ケンタッキーフライドチキンであり、スタバであり、セブンイレブンであり、ローソンであり、クロネコヤマトだ。それぞれの店長さんは、決められた本社のノルマを達成することに追われ、おおもとの江戸将軍のところに、多額の上納金を収めに参勤交代しなければならない。上部組織は肥え太るが、末端の労働者はたまらない。このようにして搾取に搾取を重ねて富に膨れ上がった大企業を、市場経済は作って来た。特に、サッシャ―首相以降の英国の新自由経済は、完全に福祉型の資本主義社会を破壊した。
仕事に追われるお父さんでなく、昔のような優しいお父さんに戻って欲しい、と願って父親の車のキーを隠した娘の泣き顔には泣かされる。家出したはずなのに、父親が暴漢に襲われたと知るや否や、病院から帰って横たわる父親のベッドに跪く息子の姿にも泣かされる。怪我をした夫が会社のボスから罰金を言い渡されて、妻がボスを怒鳴りつける姿も、自分だってそうするだろうと自分の姿に重ねて泣ける。この家族に降りかかっている事態は、明日の自分のことでもある。だれも他人の話だなどと言うことができない。骨折した腕で、もうどうにもなれ、と車に飛び乗って家を出ようとするリッキーに、自分の体を投げ出して、体を張って車を止めようとする息子、妻、娘。それでも振り切って出ていくリッキーの行く先には死しかないのか。それとも思い直して借金に借金を重ねながら家族ともども生きていくのか。
彼ら、ごく普通の家族を取り巻く環境は、酷い。公共サービスが民間企業に取って代わられて、公立病院は、貧しい移民と老人とこどもで溢れかえっている。大怪我をしていても緊急処置をしてもらえずに、長い待ち時間を待たなければならない。街には収集されないゴミがあふれて悪臭が漂っている。ゴミ収集が、利潤優先の会社に代わったために充分収集されずにいるからだ。さりげなくフイルムはこうした町の様子を映し出す。
仕事が終われば家で子供達と温かい食事をとり、親は子供達の学校の話を聞き、子供たちは親の話を聞いて、ゲームをしたりテレビを見て過ごす。朝は食卓でそろって家族で食事をとる、といった家庭の姿が、すでに昔話になってしまった。おかしいではないか。
これからさらに、私達には、IT企業が生み出すツールによって大量の失業が発生する時代を迎える。史上最大の大失業時代が来ることになる。それで良いのか。
トマ ピケテイが、「21世紀の資本」で言うように、こういった新自由主義的資本主義の行き詰まりには、国家が介入して「資本税」を徴収することでしか解決できない。GAFAといったグーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルなどの巨大企業が世界の富の半分を独占しているが、そのような独占による富を人々に、公平に配分しようとするならば、暴力装置を持った国家が強制的に「資本税」を直接課税して、税を奪取しない限り不可能だ。
ケン ローチは2017年に、「私はダニエル ブレイク」を製作して、英国の福祉政策が死に絶え、老人に年金はなく、母子家庭の母親に育児手当が配給中止になって、体を売らないと食べていけないような冷酷な現状を告発した。ダニエル ブレイクは生涯、良質な家具を手造りし、よく働き税金を納め、年を取って働けなくなって年金などの社会保障を求めたが、何一つ得られずに死んでいくしかなかった。ケン ローチは、渾身の怒りを込めてこの映画を作った。今回もケン ローチが怒っている。私たちは怒らなければならない。私達にはケン ローチが必要だ。おかしいことをおかしいという。間違っていることを間違っていると告発する人。83歳、まだ引退は早い。
相変わらずのローチ節
社会派監督ケンローチはまだまだ健在でした。
イギリスってこんなにハラスメントが横行している国なんだろうか?コンプライアンスは何処に?との疑問もあるが
徹底して、家族が社会の中でどう生き、もがいているか
に焦点が当てられている。
今回の批判対象は国や制度よりも、Amazonを含んだ
GAFAを盲目に受け入れている社会そのものなのかもしれない。
ドラマの構成として、ほんの少し陳腐な演出部分は
あったものの、鑑賞後に内容を反芻し咀嚼しないと
自分の中で消化しきれない。
どうしたって自分の家族、日本社会と比較してしまう
いつものケンローチ映画でした。
これからも、彼の新作を見せて欲しい!
邦題が今ひとつで
原題に込められている意図とのズレがちょっと残念。
今の社会によって、内面化させられるもの。
新自由主義が自由かつある種の自立的な労働モデルを成り立たせる一方、劣悪な生活や労働に対する怒りや悲しみの声に自己責任と言って終わらせられる社会をもたらしました。
エンディングはあえて、あの形にしたのではないでしょうか?現実の何かが解決したと、私たちが錯覚しないように。
ケン・ローチが一度吐き出した引退という言葉を飲み込んでまで作った「わたしは、ダニエル・ブレイク」と今回の「家族を想うとき」。この作品の観賞後、自分ももしかしたら日本で生きてきて無意識に自己責任論を内面化していないだろうか、加担していないだろうかと考えさせられました。
これが人生だなんて想いたくない。
今年最初の映画。
新年一発目がこんな憂鬱な気持ちにさせられる映画だなんて。
とにかく上手く行きません。
何もかも上手く行かない。
お父さんが藁をも掴む思いで始めた宅配ドライバーも
お母さんが限界を感じながら続けてる訪問介護も
お兄ちゃんの反抗期による親子関係も
唯一の救いは妹の純粋さですかね。
でも、その妹もストレスで大変なんです。
映画の流れが、
小さな希望の光が見えた!→やっぱりダメでした。
の繰り返しなので、どんどん憂鬱になっていきました。
社会情勢で持っていた家も、上手くいっていた仕事も失って家族との関係も悪くなってもう辛くて辛くて。
舞台はイギリスでしたけど、日本や世界のどこでもあり得る状況だと思います。
というより自分がこの映画のようになっても不思議じゃないと思わされたのがより見ていて辛かったです。
確かに、土俵際いっぱいになった時には家族が団結したり仲良くなったりしますけど、それだけじゃどうしようもない。世の中甘くないんだよって言われてる気がして凄く刺さりました。
ちょっとトラウマになりそうな映画だったので、おちゃらけハッピーな何にも考えなくていい映画見て回復したいと思います。
「冷蔵庫にパスタが…」
ケン・ローチ伯楽の渾身の作品といったものである。フェードインインフェードアウトの場面転換、ここぞのラストでの薄くしかし効果的に演出されるフィルムスコアもさることながら、オーバーな演出や過剰なシーンを排してもその厳しさをきちんと表現出来ている構築、心中に響く慟哭、この世の地獄を体現させる印象付け等々、その辛さの押し引きを見事に織込まれていて、フィクションだとはまるで感じない自然さを醸し出している。『ワーキングプア』等という、昔ならば小作人からの搾取が、この現代に於かれても以前として進化しない社会構造及び仕組みに対しての怒りと悲しみそして諦観を、鑑賞した者全てに深い爪痕として残すメッセージ性はとてつもなく崇高な内容である。劇中の家族に訪れる現代の悲劇を、唯こうして観ている以外なすすべもないもどかしさ、嘆きを一体何処にぶつければいいのか、これ程複雑な状況になぜ陥らなければならないのか、これはもはや砂漠で一人取り残された絵が浮かぶような心持ちなのである。子供達の頭の回転の良さや優しさや勇気のみが、この作品の救いなのである。大人達はもうこの爛れた世界を組立て直すことは出来ない。諦めのみが支配している現状を、ラストの父親の満身創痍での仕事へ向かう悲しい姿のカット一発で表現させてのエンドは、これ以上ない位の居たたまれない苦痛が充満した落とし方であった。普通の作品ならば、ここからが家族達の逆襲シークエンスとしてカタルシスをプレゼンスされるのだろうが、それ程甘くはないと、監督の厳しい叱咤が劇場内にこだまするようなそんな怒気を込めた叫びに、自分の人生のダメだしをされたような気持を抱いたのである。今作品は、“真剣”に時代を憂いているのだ。“不在票”なんていう概念がこの世を滅ぼすとつくづく感じる、心を掻き回された作品である。
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