家族を想うときのレビュー・感想・評価
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警鐘、またひとつ
今年の観納めはこの作品だった。
「わたしはダニエル・ブレイク」より泣けた。
貧困にあえぐ家族の日常生活(とはいえ、アジアとか中南米とかに比べたらまだマシか?)が、「わたしは〜」同様、淡々と描かれながらストーリーは進む。
何か問題が起き、ホッとしたかと思うとまた問題が。その繰り返し。
優しい奥さんが電話で上司を罵倒(優しいけどね)するシーンはスカッとしたけど、この後家族は乗り越えたのか?
真面目な父親、母親は優しさに溢れ、息子(声が良い!)も何だかんだ優しいし、家族想いの健気な娘。
必ず乗り越えて幸せになって!
そう願わずにはいられないエンディングだった。
いろんなこと考えさせられ、利便性ばかり追求していると、あなたたち確実に破滅するよ!という警鐘を鳴らされたと思う。
流通業、老人介護などなど深刻な社会問題はこれからも山積みだから。
脚本、絶妙なキャスティング。 物語に希望はないのかもしれないが、 ...
脚本、絶妙なキャスティング。
物語に希望はないのかもしれないが、
登場人物はなによりも希望を求め、
家族を思い、必死に闘う。
この映画にはちゃんと希望がある。
最後、ここで終わるのか、
うわぁ終わって欲しくない…
と思っていると流れるエンディング。
でもこういうことなのか。
終わりなんてなくて、
これからもずっと闘うんだよなぁ。
現代社会で失われていく人間性
「ブレッドウィナー」「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」「再会の夏」。今月は、戦時下に於いて人間の尊厳が失われる作品をいくつも見てきた。が、平和に見える日常生活の中で、このような形で失われていく人間性もある。
コンピューターの普及、情報化の加速、レスポンスの即時化により、世界はすっかり変わってしまった。人々は時間に追われ、余裕を失い、置き去りにされまいと必死だ。
低価格競争、24時間サービス提供、顧客満足度偏重。舵を切ったのは政治や事業主かもしれないが、背景には、我々消費者個人の際限なき欲望がある。雇用主は言う。「ドライバーの寝不足なんて誰も気にしちゃいない。興味があるのは、いかに安く、速く、という事だけだ」
ケン・ローチ監督が容赦ない視線で投げつけてくる、疲れきった労働者、冷たい目の事業主、そのどちらもが我々自身の姿に重なる。このままで良いのか。利便性と効率化を突き詰めた先に何があるのか。我々はもう人としての姿を失いつつあるじゃないか。何処か知らない国のお伽噺ではない。怒りと焦燥と共に、淡々と見せつけられる現実に身がすくむ。
ちっぽけな機械端末に押し込められた人間。置き去りにされた老人達。利益を生まなければ無駄として切り捨てられる社会。何かが少しずつ歪み、噛み合わなくなっていく。蟻地獄に足を取られ、ズブズブと沈んでいくのを止められない。
けれども、バス停に居合わせた乗客は「大丈夫?」と声を掛け、息子は傷付き反発しながらも歩み寄ろうとしている。携帯画面から顔を上げ、目の前や隣にいる人の顔を見て、「こんにちは。お元気ですか?」と問い掛ける。そんな些細な行動に、心に、破滅から救われる蜘蛛の糸が、まだ残っていはしないか。
「Sorry We Missed You.」
歯車の向こう側に存在する筈の人間の姿を、私達は見失っている。
こんな世界を望んだんじゃない。人間に戻りたい。あなたも私も共に。
ボトラーになって叶えたい夢
不況の世に揉まれながらも金銭的な潤いを求めて過酷な労働環境の職に身を移し、日々の暮らしにズレが生じてほころび始める家族を追い込む(どこかの国の厳しい現実社会で今この瞬間にも実際に起きてそうな故にいちいちが身につまされる)エピソードの数々が、観る者の身を削り、腹にのし掛かり、話を飲み込んだ胃をもたれさす。だがそのリアリティの高さが良い、それだけ腹にこたえるところが良い。
最初の印象とは異なり案外頑張るお父さん、反対に落ち着いた野太い声のわりに案外年相応に未熟な粗も見せる息子君、かつての家族の温もりを求めて自分なりに葛藤する幼き娘ちゃん、理不尽な態度の老人たちにも普段から甲斐甲斐しく尽くし培われたお母さんの忍耐力をも一気に吹き飛ばす1,000ポンド(14万円強)という破壊された携帯端末の賠償金に、その命運を左右されそうな一家と、そんな格差の下層で悶える諸事情を抱えた労働者家族らと対峙するために常にバリアで結界を張る能力者 自称聖人マロニーちゃん(これ書きたかっただけだろ!👋🏼)。
嗚呼、皆が幸せに回る社会なんて この世には決して実現させられないんだな‥そういう資本主義の現実を再確認されられますし、幸せな気分にもなれないし観る時も選びますけど、愉快でない実情を描いた硬く厳しいドキュメンタルな内容は〜嫌いではないです‥ と他人事みたいに終わらせずにお前も頑張れよ‼️🤨👋🏼と。
何の為の映画?
俳優の演技も撮影もそつなくこなし
細かな演出もきちんとできている完成度の高い作品だが
ワーキングプア―懇談会で15分程度の凝縮版を見せて
みんなで話し合うのなら、この映画の使い道としての価値はあるが
映画が言いたいことは理解できるが、それは今に始まった事ではなく
シナリオを創った段階で、単なるフェクションになってしまう。
なぜ、俳優を使い、シナリオを書き、演出をして映画を創っているか、この監督は理解できていない。
社会派映画を作りたいのなら、取材を沢山してのドキュメントを作りなさい。
さもなくば、創作物として自分なりの結びを創るべし
この映画を観るなら、「万引き家族」を観るべし
自分なりの言いたいことは是枝監督なりに、示している。
家族の真の幸せとは?
人を人とも思わない
このシステマティックな社会
負のスパイラルに飲み込まれ
もがいても悪くなるばかりの状況を
父は諦め家族は静かに怒る。
ラストシーンが頭にこびりつく。
従順という命がけの反抗にはらはら涙。
子供たちもこのスパイラルに
巻き込まれなければよいのだが。
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2019.12.22 新宿武蔵野館にて1回目
おいらにはパートナーがいる。
おいらとはまるで異なるアプローチで
幸せを語るところが鼻につくのだが
家族一人ひとりが想い描く
家族の幸せのかたちは違うのだと
この映画は諭してくれる。
自分の考える家族の幸福が
絶対ではないのだという揺らぎに
反省させられることしきり。
「自営」という自由で明るい陽射しを
かき曇らせるフランチャイズシステム
実は世のコンビニ店長の多くが
こんな苦労を背負わされてるのかと
想像を飛ばしたが実際は如何に。
娘と一緒に配達に廻るシーンが
際立った輝きをもって心に残るが
この輝きをも否定する社会の不寛容さに
腹立たしいやら嘆かわしいやら。
重い。悔しい。やるせない。
そんなやり場ない錘を胸に残す
強烈な一本だった。
貧困に喘ぐ家族を見つめる重厚なドラマ
ニューキャッスル在住の非正規ワーカー、リッキーは長年建設業に携わってきたがどの職場も長続きせず、一念発起してマイホームを購入する夢を求めて漸くありついた仕事が宅配ドライバー。配送会社の雇用だと思っていたが実はフランチャイズの自営業。配送用車両はレンタルもあるがレンタル料が高すぎるし、自前で購入しようにもローンの頭金もまた高すぎる。介護福祉士として働きに出ている妻アビーの通勤用車両を売ってなんとか頭金を捻出したものの宅配ドライバーの仕事は想像以上に過酷で、先輩ドライバーから「これが大事だ」とアドバイスとともに渡されたのは尿瓶代わりのペットボトル。介護福祉士の仕事もやはり過酷で、訪問先のドアベルを鳴らしながら汚臭に備えて鼻にクリームを塗りたくる。来る日も来る日も家族の為に身を粉にして働く二人だったが、成績優秀だった長男セブは夜な夜な町に繰り出してスプレー缶で落書きをぶち撒ける問題児になり、聡明な長女ライザは不眠と夜尿に悩まされる。誰かに何かが起これば途端に破綻してしまうギリギリの生活を送っていたリッキー達はそれでも助け合い暮らしていたが、過酷な労働条件はいとも簡単にそのバランスにヒビを入れる。
邦題は全く嘘をついていませんが、ポスタービジュアルが醸す暖かい雰囲気はほぼ皆無。ワーキングプアからどう足掻いても抜け出せない善良な市民がとことん搾取され蹂躙されていく様を傍で見つめ続ける重厚なドラマ。曇天の空の下至る所に転がる貧困に押し潰されたような人々が俯いたまま順番を待つ病院の待合室でアビーが思わずぶち撒ける罵声が虚空に飲み込まれるのを見つめているのは胸が痛いです。
昨今貧困、老々介護、各種ハラスメントといった社会現象を真正面から描く社会派作品が身近になってきた感がありますが、それは即ち我が祖国においてもそういった問題が全然リアルになっているということに他ならず、エンドロールが終わってもすぐに立ち上がる気になれませんでした。
"豊かな"現代社会
余裕のある暮らしがしたくて宅配業として独立するが、独立とはほど遠い業務委託だった。家族のためを思い、働けば働くほど、家族と過ごす時間はなくなり、家族はばらばらになっていく。救いようのない状況で始まり、救いようのない状況で終わる。映画としてのカタルシスも何もないけれど、これが先進社会のもたらした現実なのだ。
思えば、私が子どものころは、貧しかったけれども、父親は夜はいつも家にいた。母親ももちろん家にいた。職住近接で6時ごろには全員そろって夕食を食べていたと思う。今、そんな家庭がどこにあるだろうか。まだまだみんな職場にいる時間だ。確かに社会は便利になった。家の中は物で溢れている。ファストファッションのおかげで破れた服を着ている者などいない。携帯をもっていない人もいない。テレビの買えない人もいない。でも、どうなんだろう。おだやかな落ち着いた家庭をこどもたちに与えられているのだろうか。
宅配ドライバーと介護士という現代社会を代表するような仕事に就く夫婦の極限の物語だ。
「ダメおやじ」ではないが誰のせいにもできないからやはり「ダメおやじ」
最初は「ダメおやじ」な話しかなと勝手に想像したけど違った。酒や女やギャンブルとは無縁で、家族想いで真面目で、言行に関しても家族に非難されているほど感情に走ってはいない。過労死という言葉をニュースや新聞で見聞きするようになって久しいけど、本作はその過労死の近辺が描かれていた。最後、疾走していく親父だが、あのまま失踪しても、あるいは海へダイブしても仕方ないと思えるほど追い詰められていた感がある。
過労死は真面目でないとできない。真面目は通常誉め言葉だが、どこか視野の狭さを伴っている感じがある。一途なあまり融通が利かないというか。向上を希い時間を費やし努力しているのに一向に成果がでないなら、もっと根本的なところで改善を試みればよいのにそれができない。もっと強くもっと密に重ねれば上手くいくと信じているようで、そしてもっとマズくなっていくのである。
本作は映画の力でもって観る者を大局的見地に押し上げてくれて、ターナー家がにっちもさっちもいかず落ちていくさまを、岡目八目の見識でもってみせてくれたが、省みれば我が振りも随所で無能の行き詰まりなのである。
人は誰しも得手不得手があるから、些末なことや愛嬌的にいくつかのことが下手であっても構わないが、真摯に取り組むべきところでは上手くありたい。
本作を労働問題、ひいては諸悪の根源は社会問題や資本主義でみるのもひとつだが、まずもって「ダメおやじ」のダメの規準は上手くできない原因を「自分のせい」にするか「自分以外の何かのせい」にするか、ではなかろうか。
親父のドツボにはまっていくさまが、どうしようもないなと同情的に映るように、リアルに自然に描かれていただけに要注意だ。「家族のため」は愛情を感じさせるが、事態が悪化すると「誰かのせい」にすり替わっていた。「家族のため」と「誰かのせい」は表裏一体で「誰かのせい」も「社会のせい」も五十歩百歩。missingを厭うは、ジリ貧を脱せられる勇気と見識、そこである。
「ダメおやじ」ではないが誰のせいにもできないからやはり「ダメおやじ」。厳しいようだが現実はもっと厳しいからそう結論せざるをえない。少し前『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』という書籍が話題になったが、原作ではないようだがつながってそうである。読んで現実を覗いてみたい、いや、これ以上みたくないか……。
☆☆☆☆ 観終わって、日本題名の『家族を想うとき』に「なるほど!」...
☆☆☆☆
観終わって、日本題名の『家族を想うとき』に「なるほど!」とは思うのだけれど…。
英語にはからっきしなので、ハッキリとは言えないのだが。(おそらく)原題は、主人公の父親が配達員だけあって《不在通知》で良いのでしょうね。
一見すると、なんの捻りもなさそうに思う。この《不在通知》とゆうキーワードが、後半に向かうに連れてジワジワと観客の心の奥に響いて来る凄い題名だと思った。
「家を買いたい」
「少しでも子供達と一緒に良い暮らしがしたい」
そんなささやかな願いを込めて、父親が始めた配達員のフランチャイズ事業。
だが現実には、頑張れば頑張るほどにアリ地獄の様に陥ってしまう悪循環の数々。
だからこそ父親は更に身を粉にして働き、母親もそれを最大限にサポートする。
だが…。
(個人的な考えとして)この《不在通知》の意味。
この家族間の中では。1人1人の心の底に《不在通知》が届き始め、父親が頑張れば頑張るほどに。その《不在通知》は数を増し、その家族間の空虚さすら深みに嵌って行ってしまっていたのだ。
それと、これも《不在通知》の持つ意味がもう1つあるとするならば。監督ケン・ローチの考えとして【弱者に対する社会の切り捨て】との考えがあるのではないだろうか?…とゆう事。
母親は介護人として多くの人に寄り添う仕事に就いている。
「もう少しだけ1人1人に対して親身になってあげたい!」のはやまやまなのだけども、より多くの人の介護をしなければ、家庭の足しにはならないし。〝 何よりも1人1人に対して親身になってはならない 〟とのルールが課せられていた。
現実に於いて、社会は弱者に決して寄り添っては居ないのが事実とゆう矛盾!
そんなルールは父親に対しても容赦はしない。
数々の縛りが彼を苦しめ。その結果として、家族の間には《不在通知》のやり取りがドンドンと増えて行く。
作品の中で。母親は介護の仕事をしている為に、何人かの障害を抱えた人が登場する。
(流石に、脚に障害を抱えた犬が登場する場面はやり過ぎな気もするけれど…)
それらの人には、支えになる人が居ないと日々の生活にも支障をきたす。
ひょっとしたら?それをケン・ローチは。終盤での病院の場面で、母親の放つ言葉で声を大にして訴えたかったのではないか?…と。
社会にとっては、〝 単に生活に困っている1人が苦しんでいるだけ 〟にしか過ぎないのかも知れないのだが。その人が倒れたなら、その人が支えていた人は当然の様に倒れる。もしもその人が、下から多くの人を支えていたとしたならば…更に多くの人が倒れてしまう。
ただ単に1人の人が倒れただけ…では事は済まされない結果になるのだ!
その様に。映画はラストに掛けて、社会の矛盾を投げ掛けて終わる。
あくまでも個人的な意見なのですが。最近ダルデンヌ兄弟作品を見直す機会がありました。
ダルデンヌ兄弟は、作品の対象となる人物に対して、これ以上の【絶望の淵に立つている状況】は無い場面から。〝 ほんの僅かな希望の光 〟を観客に仄めかして映画を終える。
それにより観客には《感動》とゆうプレゼントが与えられる。
それに対して(決して比べるモノでも無いのだが)ケン・ローチは、前作の『わたしは、ダニエル・プレイク』の時と同様に。この作品のラストには〝 希望 〟の欠片も見受けられない。
寧ろ、彼は骨折しているかも知れない手の痛みや。目が見えにくい事からしても、この後には最悪な結果になる可能性しか感じられない。
しかし、映画はそれを見せずに終わる。「その辺りは観客に委ねるラストだから!」とゆう意味なのは理解出来る。
…出来るのだけれど、観客に〝 希望 〟を匂わせるダルデンヌ兄弟に対し、「これ以上の事は知らないよ!」…と言っている様に感じてしまい。(あくまでも個人的な意見です)ケン・ローチに対して、ダルデンヌ兄弟程の信頼性をどうしても持てないのが正直なところ。
…とは言え! あの病院での母親の叫びに、思わず泣かされてしまったのも事実。
映画のラスト直前、彼は《不在通知》を使って家族にメッセージを残す。
その一言こそ、家族の間にあった【不在の心】を表していた溝を、埋めるに相応しい美しさに溢れていた。
年末に、年間ベストクラスの作品が公開されたと言わざるを得ないのは間違いないでしょうね。
2019年12月21日 ヒューマントラストシネマ有楽町/シアター1
考えさせられる作品です
イギリスのターナー家のお話。父は名ばかりの自営業者だが実は何の自由も保障も無い運送屋、母はハードな介護士、思春期でぐれ気味の高校生の兄と純粋な小学生の物語です。とにかく両親は生活の為に朝から夜遅くまで働くが、いつまで経っても生活は楽にならず家族の団欒の時間は少なく、本当は優しくて良い子の息子もグレて、純粋な娘まで両親や兄との争いでピュアな心が傷ついていく、、。もう少し希望は無いのかあとか、自分はまだ恵まれてるなあとか考えるました。お金はありすぎても子供はグレるしロクな友達出来ないし、夫は浮気したりして夫婦仲は悪くなるし、江戸時代とか昭和の貧しい時代でも貧しい中でも4畳半一間に家族全員でちゃぶ台を囲んで楽しく笑い声の絶えない食卓風景は古き良き時代の幻想なのか?今や食事中でも思春期の子供はスマホいじって会話も少ない家族も多い
これぞ新自由主義!
This is THE NEOLIBERAISM.これぞ、新自由主義。そういう映画だと思います。
職場と学校からの暴力的な力で、家族が崩れていく。
もう、苦しすぎて、ずっと最初から歯を噛みしめて見ちゃうので、眠くもならないというか、なれないというか。
これを見ながらずっとセブンイレブンのオーナーのことが頭から離れませんでした。世界中のあちこちで、苦しい苦しい生活が充満して、押し潰され死んでいく人たちがいる。ちょっと病気でもすれば、明日は我が身。(あ、それは前作I, Daniel Blakeの話でしたね。)
もう、どこかで爆発しようぜ!そう言うしかない、そんな映画でした。
ケン・ローチの視線が好きです。明確な階級意識があって、労働者を応援、鼓舞してくれる。是枝監督がローチを師とするとか言っているNHK番組がありましたけれど、何を師としてるんだか?是枝監督はまるで分かってないと思いますけどね、労働者階級の立場なるものは。ローチが描きこまざるをえない労働者への暖かい眼差しは、例えば、万引き家族のどこにも感じられない。下層にいる人たちを対象にして描いているから、距離がある。確かに安藤サクラが流した涙には、人としての矜持が感じられるとても優れたシーンだと思いますが、意識的に描いていると思えない。ローチとは似て非なるとしか言いようがないのです。
それに対して、この作品のお父さんも、お母さんも、息子も、娘も、みんな人間としての誇り、矜持、ディーセンシイというようなものがあるんですよね。(まさに安倍首相一味からは一切感じることのないものですわ)
こういう人の描き方がグッとくる。
お母さんが、介護現場で泣きたくなるような利用者の振る舞いに対して、自分の親と思って接することを原則にしてる、なんて言う。これは言うのはできても、現実は、実際到底簡単ではない。泣きたくなるようなことが起きる介護現場で、そこに対応してたら、次の訪問先にすごい遅刻するでしょう!そこはどうするんだ?でも映画ではそこは描かなくてすみますからね。だから、そこは甘いと言われても仕方ないけれど、それでも、やはりそういう風に描かずにはいられない。そこにローチの眼差しを感じるんです。
上映館が東京では新宿と有楽町だけで少ないせいか、ほぼ満員でした。なんでこんなに上映館が少ないの?これも日本の現実かしら。
現実を描き切る
息子は流石に甘えすぎなんだよね。気持ちは解るけど、両親だって、超シンドイ状況で頑張ってんだから、困らせんなよ。
そら親父、殴るよね。母親が「子供に手を上げないで!」って過去のトラウマから言うんだけど、それで甘やかして事態を悪化させてるところあると思うよ。
でもこの家族、コミュニケーションを止めないんだよね。息子もしれっと親父の近くに居て、口論続けたり。そこが、崩壊しないギリギリのポイントだと思ったね。
親父の会社の仕組みはおかしいの。雇用する側に圧倒的優位な条件で契約結ばれてるから。それでも、親父は、その仕事をやるしかない。
じゃあ、この家族はどうすればいいのさ。社会を変えればいいの? というと、そう簡単な話でもない。
創る側がテーマを叫べばなんとかなるという社会状況でもなく、現実を細部まで描き切って、観客にぶつけるしかないだろうな。そんな映画だよ。
ほぼすべての映像が、横からの光で、表情に陰影がついてきれいだよ。
これはわたしたちのいまの姿
前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』で監督引退を表明していたケン・ローチ監督だが、昨今の労働者階級の社会的立場に憤りを感じての新作です。
英国ニューカッスルで暮らすリッキー(クリス・ヒッチェン)。
介護福祉士の妻アビー(デビー・ハニーウッド)、16歳の息子セブ(リス・ストーン)、12歳の娘ライザ・ジェーン(ケイティ・プロクター)の4人暮らし。
10年前の金融危機で働いていた建設会社が倒産した後、職業を転々とするも暮らしは良くならない。
一念発起して個人事業主の宅配ドライヴァーとしてフランチャイズ契約するが、配送に使用する白いバンは妻が訪問介護で使用している自動車を売って購入、1日14時間の労働と過酷な状況がつづく・・・
といったところから始まる物語。
はじめに断っておくが、ここ数作のケン・ローチ監督作品では、厳しい環境の中で暮らす市井の人々にも映画の最後にはささやかな希望のようなものが描かれることが多かったが、本作ではそんなことはない。
働けど働けどわが暮らし楽にならず・・・というのがどこまでも続く。
ただし、家族の絆は映画が始まるときから比べると強くなっているが。
この最後まで明るい希望がみえない物語は、現在、ローチ監督が実感していることだろう。
初期~中期の作品では、このような救いのない、厳しい映画を撮っていたので、本家帰りともいえる。
映画的には、息子のエピソードが余計な印象。
反抗期であるとしても、家庭の状況を悪化させる方向にしか進まないような行動をとる姿は、観ていてイライラしました。
ま、セブのような若者にも未来が見えない閉塞感があって、自暴自棄になっているとも受け取れるのですが。
原題の「SORRY WE MISSED YOU」とは、宅配の不在通知票の定型句(知らなかった!)。
ですが、リッキーが妻に宛てた短いメッセージを書くのにこの用紙が使われ、言葉どおりに「あなたたちがいなくて、寂しく、恋しく思います」という意味に変化する映画の終盤は見事。
しかし、そのように想いながら、傷ついた身体のまま白いバンのハンドルを握らざるをえないリッキー・・・
その姿は、英国の市井のひとびとのみならず、我が国の多くのひとびとの姿に通じるでしょう。
そう、これはわたしたちのいまの姿なのです。
素晴らしい
現代の抱えている問題が超リアルに表されてて…
運送業の問題、介護士の問題、親子間の問題、経済の…
あげたらキリがない
反抗期の息子って、親に怒鳴られててもケータイ弄ってるのとか、母親は息子に甘く、父親は娘に甘く…(笑)
それぞれ表現下手なだけで、本当は嫌いなんかじゃない
最後、息子が必死に父親を引き止める
でも父ちゃんイジ張っちゃって……
だから父ちゃん何がしたいんだよ〜って思われるかもしれないけど、目標決めたらすぐには止められないんだよな男は
でもさ、そんな不器用で鈍臭いとこも自分は嫌いじゃないです
そんなとこを上手く描けてる映画だと思いました
安倍晋三にこの映画を無理矢理見せる方法はないものか
英国の巨匠ケン・ローチ監督渾身の一本なのに、単館系で細々としか公開されていないのは一体どういうことなのか。
当然ながら英国を舞台とした映画だが、ここで描かれていることと全く同じことが日本でも起こっている。というか日本の方がずっと酷いのではないか。
個人に大きな借金を負わせて事業を始めさせ、借金とフランチャイズ契約で逃げられなくして事実上の従業員とし、しかし個人事業主であるから労働基準法の保護は無いという、コンビニなどでお馴染みの手法だ。確かに成功すれば本部と加盟店で大きな利益を分け合えるが、そんなに儲かるなら参入が増えて過当競争になるし、今やコンビニのオーナーなんて青色吐息だ。
にもかかわわらず、安倍晋三はフリーランス化を促進する政策を進めるそうだ。狂っている。
安倍晋三は2012年の冬に我々支持者に対して約束したことは何一つ実行せず、我々に約束したこととは真逆の政策ばかりを狂気のように推進してきた。
簒奪者にこの映画を無理矢理見せる方法はないものだろうか。
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