パラサイト 半地下の家族 : 特集
【閲覧注意の本編レビュー】
笑いに次ぐ笑い、驚がくに次ぐ驚がく…アカデミー賞有力の強烈すぎる一作
あのシーンの意味って何なの? ポン・ジュノ監督に直接聞いてきた
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第72回カンヌ国際映画祭で、韓国映画としては初となるパルムドールに輝いた「パラサイト 半地下の家族」が、2020年1月10日から全国公開される。全員が失業中のキム一家が身分を偽り、IT企業のCEOであるパク一家に寄生する。最初はキムの息子ギウがパクの娘ダヘの英語の家庭教師として、次にキムの娘ギジョンがパクの息子ダソンの美術の家庭教師として迎えられる。やがて寄生はエスカレートし、パク一家の人生はめちゃくちゃになっていく……。
ネタバレ部分は、こんなふうに塗りつぶしていく。本作を最大限に楽しむたったひとつの方法は、予備知識を一切入れずに鑑賞することだ。もしもあなたが未鑑賞であるならば、今すぐブラウザを閉じてチケットを買いに行ってほしい。そして本編を確認し、余韻に浸りながら再度このページを開いてもらえればと思う。
【珍事】試写室で巻き起こる爆笑の渦 富豪家族に寄生する“半地下”の家族
“カンヌ最高賞”の看板に偽りなし、あまりにも強烈な一作
「殺人の追憶」「グエムル 漢江の怪物」「スノーピアサー」の監督ポン・ジュノと主演ソン・ガンホが4度目のタッグを組んだ本作。シリアスで物々しい雰囲気のなかに、突然とぼけたコメディ要素がぶち込まれるため、観客は笑っていいものか、何を感じたら正解なのかわからず、当惑してしまう場面も実は多いのかもしれない。
劇中の掛け合いに大いに笑い、物語の急激な変調に衝撃を受け、結末にゾッとすることが“模範的な鑑賞態度”である。では、一足先に行われたマスコミ試写ではどのような反応が上がったのか、以下に紹介していこう。
[物語]笑いと驚きに満ちた壮絶な悲喜劇
本編が始まってすぐ、試写室では笑いが起き始めた。声量は段々と大きくなり、ものの5分ほどで爆笑の渦が巻き起こるようになった。子どもがお辞儀するだけでも、パク夫人の「時計回りに」というセリフだけでも、吠えるような笑い声が飛んだ。マスコミ試写では稀に見る光景が、眼前で繰り広げられていた。
ところが豪邸の地下に、家政婦ムングァンの夫が住み込んでいたことが判明するや、静寂が場内を支配した。笑いの波が一斉に引き、スクリーンからは雪崩を打って“戦慄”が押し寄せる。あとはもう、ただただその展開に圧倒されるばかり。口をあんぐりと開けながら、家政婦が階段から転げ落ちて後頭部を強打するさまや、パク社長がぶっ刺される場面や、照明がSOSのモールス信号を打つ様子を眺めることになる。
[アカデミー賞有力]国際長編映画賞は鉄板 さらに…?
ということで業界内の評判もすこぶる良く、賞レースにおける外国語映画賞を総なめにしている。第92回アカデミー賞の国際長編映画賞(旧外国語映画賞)でも、本作が“鉄板”とされるなど下馬評は高い。試写会後のロビーでは作品賞、監督賞など“主要部門”の受賞もあり得る、という声さえ聞こえてきた。カンヌ国際映画祭の“最高賞”パルムドール、その看板に偽りなし。
さらに本作が、日本における韓国映画の興行収入記録を塗り替えるかもしれない。リピーターの存在が鍵になるが、2度、3度と鑑賞したくなる強烈な“なにか”が高純度で詰まりまくっている。“完地下の男”の狂いに狂った眼光や、パク社長があまりの臭さに鼻をつまんでしまう姿を、もう一度見たい。ちなみに現在の歴代1位は、「私の頭の中の消しゴム」(約30億円)だ。
【作品解説】あのシーンの意味は? なんでこうなった?
ポン・ジュノ監督本人に直接聞いてきた!
さまざまなモチーフが散りばめられ、暗喩が連続する本作。あのシーンの意味は、果たして何だったのか? 来日したポン・ジュノ監督に直接聞いてきた内容を交えながら、作品をつぶさに解説していく。
・なぜ、『雨』が降るのか?
ポン・ジュノ作品において、『雨』は“不吉”を強調するモチーフだ。「殺人の追憶」では雨天限定で起こる連続殺人、「グエムル 漢江の怪物」では主人公一家の家長が雨中で非業の死を遂げ、「母なる証明」では母の願いを無に帰すような出会いを雨粒が彩る。「過去作に比べて『雨』の要素は、視覚的、テーマとしても一番大事だった」というポン監督。キム一家の自宅を水没させ、パク社長の一家団らんのひと時(=キャンプ)を阻む――本作では予兆に留まらず、直接的な“暴力”を振るう存在だ。この点について「同じ『雨』でも、貧しき者、富める者では影響が違う」という意図があった。そもそも『雨』は、天から地へ落ちていくもの。「あらゆる事が、金持ちの人々から貧しい者たちの方へ“流れていく”という部分にも紐づいています」。高台(=天)に建つパク社長の豪邸。彼らが本来被るべき“雨の影響”が、半地下のキム一家(=地)へと流れていき、悲劇性を増す機能を果たしている。
・なぜ、『半地下』なのか?
韓国独特の住居形態『半地下』に暮らすキム一家は、冒頭から中盤にかけて、パク社長の一家と対比させられ“下層”に位置づけられているように思い込まされる。しかし、地下に暮らす家政婦ムングァンの夫の登場により、その意味合いは変容していく。ポン監督は「『半地下』ということは『半地上』でもある」と説明。『半地上』という言葉には、比較的ポジティブな印象を抱けるが、「キム一家は、まだ地上に上がれる可能性を秘めているのです。日差しも浴びられるし、希望も見出せるしかし、真逆の考え方をするのであれば、少しでも失敗してしまったら、彼らは日の当たらない地下に墜落する。つまり“完地下”となるのです。その意味合いを込めて『半地下の家族』という設定へと至りました」と明かすポン監督。パク社長宅への侵入を“計画”するキム一家。『半地下という要素が、中立の立場となっていく彼らに“成功”と“失敗”を突き付けるものとなっていた。
・なぜ、『パク社長は殺された』のか?
地下で暮らしていたムングァンの夫に、家族を殺傷されたキムだが、怒りの矛先はパク社長へと向かい、彼を刺殺してしまう。この展開のキーとなるのは、パク社長の人間性だ。それぞれの領域を遵守し“度を越した行為”を忌避する一方で、彼はキムの体臭を「度を越した臭いだ。“地下室”の臭いとも言える」と陰口を叩いていた。キムの刃が届く前、パク社長はムングァンの夫が放つ“地下の臭い”に顔を歪め、人目をはばからず鼻をつまんでいた。「あの時だけはパク社長が度を越してしまったんです。(クライマックスでは)“人に対する礼儀”が崩壊した瞬間をとらえています」というポン監督。正体を隠した状態ではあるが、パク社長と良好な関係を築いていたキム。しかし“ライン”を踏み越えた恩人の姿勢に、自らも半歩足を踏み入れた“地下”への敬意は皆無――その虚しさが“暴力の爆発”を引き起こしてしまった。
・なぜ、『交換』は行われるのか?
「まるで運命であるかのように(立場が)交換されました」とポン監督が語るのは、パク社長を殺害したキムが、自らを罰するように“完地下”へ赴くラストの光景だ。そもそも本作は、キム一家がパク社長宅に勤務していた人々に代わって侵入を果たす物語――この『交換(=チェンジ)』は、ポン・ジュノ作品では必然とも言える要素なのだ。「ほえる犬は噛まない」では犬を誘拐した者が飼い犬を奪われる立場となり、「スノーピアサー」は虐げられた後方車両の人々が、満ち足りた前方車両との立場の逆転を目指す物語、「オクジャ okja」は代替食品(=遺伝子操作した豚)が題材となり、その他の作品でも必ず行われる。そして、これらが実行された瞬間、決して“等価交換”とはならず、哀愁漂う展開へと導かれていく。ポン監督いわく、ソン・ガンホはこんなことを言っていたそうだ。「(本作は)階段を上がろうとしていた男が、階段を下りて終わる話だ」と。階段とは、進むべき方向が決まっていないものだ。しかし、本作では、“上がる”が”下がる”に『交換』された瞬間、言いようもない悲しみをとらえることに成功している。