「敗北の喜劇」パラサイト 半地下の家族 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
敗北の喜劇
一昨年の「万引き家族」に続いて、カンヌでパルムドールを受賞したのがこの作品。詳述すればきりがないのだが大雑把に論じれば、二つの作品に共通するものは、経済的に発展していると思われている国の貧困家庭を描いていることと、もう一つはその貧困が生み出す悲劇を、喜劇で表現しているということだろう。
こうした共通項を持つ作品が2回連続で最高賞を受賞したことは偶然ではあるまい。そして、どちらの作品も東アジアで加工製造業の輸出で経済発展を果たしてきた国で製作されたということも偶然ではない。経済がグローバル化と情報通信技術の発達により資本と技術の移動が容易くなった結果、20世紀に興隆した国の製造輸出産業はそのアドバンテージを失った。そのしわ寄せは当然のように、経済的に恵まれていない者たちへ向かう。
この作品に登場する一家の生活の底辺ぶりを、その住居の構造が端的に示している。彼らの家のトイレはその家の中で一番高い場所にある。しばらくはその位置関係を不思議に思う程度だったが、大雨によって浸水した半地下の家の中で、トイレだけがそれを免れている光景ではっとさせられるのだ。
噴水のように下水が吹き上げる便器。蓋をして、その上に腰を降ろして煙草を吸う娘。これほど人生の敗北感に満ちたカットを久しぶりに観た。この直後に一家の貧困から抜け出すための最後の戦いが始まる。そして、このカットはそのあがきが悪あがきに過ぎないものになることを予感させるのだ。
この観客の予感は、ラストの息子の父親への手紙の内容によって正しかったことが明かされるのだ。
事件の結末が凄惨なものであるにもかかわらず喜劇である。豪邸に住む社長一家も、ステレオタイプ化された嫌味な金持ちでもなく、貧しい人々をことさらに見下しているわけでもない、どちらかと言えば優しい人々である。その社長一家にとってはこの顛末は悲劇以外のなにものでもない。しかし、観客にとって喜劇に見えてしまうのは、一家の大黒柱を失うことになる直接の原因が、「匂い」であることだろう。社長と夫人は、この一家の父親の仕事ぶりは評価していた。だが、その「匂い」だけは頂けなかった。
この父親にとって、これが感情や理屈といった人間の諸問題ではなく、自分のことが生理的に受け入れられなかったのだという屈辱感を生み出すことになる。つまり、生物としての一番正直な部分で自分は拒否されたのだと。
結局、他人が何に対して屈辱を感じているのかについて我々は鈍感なのだ。自分に対する恨み、腹立ちという感情の部分に無頓着なのである。自分の感情が非合理であることに自覚的なのに、人の感情を合理性でしか想像しない。人間というものは、怒れる者のその怒りの理由に対する想像力が本源的に欠如しているのではないだろうか。
格差社会の何か問題なのか。格差があること自体が問題なのではない。(格差のない社会など存在しない。)一方が抱く憤りをもう一方が想像できないという断絶が、社会の存続を危うくしていることが問題なのである。そのことを示唆しているのが、ソン・ガンホに人を殺めさせたことではなかろうか。