ファイティング・ファミリー : 映画評論・批評
2019年11月19日更新
2019年11月29日よりTOHOシネマズ日比谷ほかにてロードショー
イギリス階級社会の悲哀を豪快に吹き飛ばす痛快プロレスファミリー映画
「リトル・ダンサー」や「ブラス!」、巨匠ケン・ローチ監督の諸作品など、イギリスの階級社会の苦しさを描くのはイギリス映画の十八番だが、またしてもこの分野から見事な作品が登場した。この実話に基づくプロレス一家の娘のサクセスストーリーは、労働者階級の悲哀とともに家族の絆と自分らしく生きることの素晴らしさを見事に歌い上げている。
イギリス北部のノーウィッチでプロレス興行を営む4人家族は、放っておけばドラッグに手を出す悪ガキたちや盲目の少年にプロレスの指導を施しながら、小さな興行で糊口をしのぐ毎日。そんな一家は、娘のサラヤのWWEトライアウトの合格によって転機を迎える。しみったれたイギリスの田舎町から華やかなフロリダに渡ったサラヤは、家族のために孤軍奮闘する。しかし、人気を得るためにモデルやチアリーダー出身のゴージャスな同僚たちに近づこうと真っ黒な髪をブロンドに染めてしまったりと、自分を見失う。サラヤという名前も元々は母親のリングネーム。自分は両親の操り人形に過ぎないのか、自分が本当にやりたいことは何なのかと葛藤する。
プロレスとはフィクショナルなものだと、本人役で出演するドウェイン・ジョンソンが作中で語る。格闘技は本物、プロレスは偽物と思っている人は多いかもしれない、だが、リングの上で最高のパフォーマンスができるのは自分の本当の魅力を知っている奴だけ。自分で自分に嘘をついていては、だれも魅了することはできない、本当の自分に向き合った時、サラヤは初めて本物のレスラーとなり、リングの上で輝くのだ。プロレスはフィクショナルだが、偽物の魅力では決して輝くことはできないのだ。そんなプロレスの在り方とアイデンティティを巡る葛藤が見事にシンクロしている。
イギリス映画らしい悲哀とユーモア、そしてWWE的な米国流エンタテインメントが幸福な融合を果たした素晴らしい作品だ。格差社会で打ちのめされ、夢を見られなくなった人を勇気づける価値ある1本だ。
(杉本穂高)