「胸糞悪い、しかし煙草の使い方が素敵」窮鼠はチーズの夢を見る 古元素さんの映画レビュー(感想・評価)
胸糞悪い、しかし煙草の使い方が素敵
表題にした理由は、まるで自分を見ているようだったから。今ヶ瀬が恭一を想って寂しさを紛らすように煙草を吸っているのを観るたびに心が痛んだ。恭一が真の優しさ、つまり相手との関係を明確に示せず、反対に相手を傷つけてしまうのを観るたびに呆れた。
今ヶ瀬の「先輩は誰かに愛されることはあるけど、その愛を受け取れない。どこまでも嗅ぎ取ってしまう」の通りだ。恭一は誰かから恋愛的な好意を向けられるように仕向けることは得意だが、深く繋がれない。広く浅くといったところ。自分が他人にしていることが、表面上の優しさであることに気付いていない。別れ際に知佳子に言われた「私の言葉を待っているその瞳が気持ち悪い」が言い得て妙であろう。また、今ヶ瀬に最後「もういらない」と言った後も関係を続ける辺りは残念。本当に誰かを好きになって、学んでほしい。そう感じた。よって最後の間延びのような展開が何とも微妙。
そして今ヶ瀬。恭一の嫌いなところは山ほど思いつくけれど、自らが感じたひとつの好きという感情が大きい。恭一に生まれ年のワインをもらったこと、恭一に「苦しかっただろう」と言われたこと、そして恭一との行為。恭一と行為をする際の今ヶ瀬の表情は、他の相手(今ヶ瀬の恋人的存在)としているときのそれよりも幸せそうで、辛そうだった。差が激しいからこそ燃え上がる。嫌いや寂しいといった感情さえも、たった一瞬の好きという感情が消し去ってくれる。そしてまたやってくる負の感情。その繰り返しのように思えた。また、恭一を見つめる視線がとても熱いことが伝わってきた。名演技。
今作品を通して重要な役割だったのは何と言っても煙草。冒頭にも述べたように、今ヶ瀬の喫煙の場面は頻繁に登場した。煙草等何かを口に咥えるといった行為は、心理学用語でいう「口唇期障害」を満たす術のひとつだ。実際今ヶ瀬は、寂しさや嫉妬など恭一に対し負の感情を抱いている時には必ず煙草を吸う。恭一との行為中も恭一の唇や性器を貪る場面が見受けられる。恭一との関係を終わらせた際も、見せつけのように恭一の家に煙草を置いて出ていった。あの煙草が今ヶ瀬の寂しさの象徴という演出。『劇場』や『ナラタージュ』でも酔いしれた行定監督の素敵演出であるように感じられた。
二人はもちろん、恭一の周辺の女性陣も皆強か。たまきも恭一の暗い部分に染められそうになったが、恭一と離れることで免れたように思える。彼女の言った「好きすぎると自分を見失う」といった言葉は、彼女としては恭一の前の恋人を差しているのかもしれないが、恭一にとってそれは今ヶ瀬であると同時に恭一自身で、たまき本人気付いてはいないが、たまき自身であるようにも感じた。
全体的に後ろ向きで暗い。だからこそ他人を求める。一人になれない大人たちの行く末を見せつけられたように感じた。自分はこうならないようにしたい、そう思えてしまった。