「ラテン・ミュージカルの台頭」イン・ザ・ハイツ dmiさんの映画レビュー(感想・評価)
ラテン・ミュージカルの台頭
「メリポピリターンズ」や「ハミルトン」で有名なリン=マニュエル・ミランダが大学在学時に書き上げ、彼自身も製作に携わった本作。監督はミランダから推薦を受けたジョン・M・チュウと、アメリカで差別を受ける立場であるラテン系とアジア系によるコラボ作品だ。
舞台はニューヨークの最北部、ハーレム地区の更に北に位置するワシントンハイツ地区である。
ニューヨークというのはいつも陰と陽にはっきりと分かれている。
1960年代、中南米のラテン系人種がワシントンハイツに移り住むようになるまでは、ワシントンハイツではなく少し南のハーレム地区に大量に移り住んだ黒人達が、アメリカにおいて本作以上に酷い扱いを受けていた。そんな彼らのリアルを描いた「ドゥザライトシング」も本作の参考にしたと、チュウ監督も言っている。現に似通っている描写も数多くあった。
しかし、本作はハーレム地区に住む黒人達の「ブラック・スピリッツ」とは明らかに違う、「ラテン・スピリッツ」を描き出す事に成功している。
一言で言えば、彼等はどんな状況でも夢を持ち、楽しみながら正しい選択をしようとしているのだ。
ワスプ・白人ミュージカルでは、バックボーンが薄い分、物語から社会性が排除され「物語の一部としての苦難と挑戦」が音楽や演劇の中で強く主張され、アフリカンミュージカルでは、「世の中へのヘイト」がスパイクリーによって強く主張されてきた。しかしこれまでハリウッドでは描かれてこなかった、「ラテン系人種のみによるミュージカル」である本作は、彼等の出自や身分によるアイデンティティの不安定さと、個人の人生における失敗や困難が出会うと、差別を受ける彼等にどれ程の負担がかかるかを描きながらも、そんな苦しい状況における彼らが楽しみながら正しい選択をしようとしている姿を描くことに成功している。
差別による苦痛と自身の出自的なアイデンティティの揺らぎを結び付けて考えてしまっていたニーナやウスナビのいとこのその後はその典型である。
国籍的アイデンティティが揺らぐからこそ、彼等は生まれた国の文化を主張し、自身の立ち位置を確認し合い、また他人のそれを認める事ができる。後半、ドミニカのバチャータ、プエルトリコのサルサ、キューバのマンボやルンバでそれぞれ民主的に音楽を表現しているシーンは圧巻だ。ラテン系がそれぞれ自分を表現し合うというのは、この先数年後主要人種がラテン系になると予測が出ているアメリカにとっての、正に次世代のミュージカルである。
このような形態は、やはり同じように差別を受けてきた黒人の文化の賜物であるジャズと共通している部分がある。ジャズも各パートが独立して自身を表現することがあるからだ。それは黒人達が虐げられた経験があるからこそ、民主制を重んじるようになった事も少なからず関係しているだろう。
この共通性に、私はミランダの民主的・ダイバーシティ的ユートピアとしてのラテンミュージカルを描く才能を見たし、見事に惚れこんでしまった。
プエルトリコ出身のミランダだからこそ、それぞれの国に表現させる必要性を理解し、またその演出を好んだのだろう。
また、その点で言うと、最後にバネッサが心惹かれたデザインも、色それぞれが個々を主張していることで成り立っている芸術という意味では、ユートピア的メタファーでもあるだろう。
ニーナの父親についても、200年前のフロンティアスピリッツを持った移民を彷彿とさせた。当時の彼等もまた、「子供には成功してほしい」と思い、先住民を駆逐しながらアメリカを開拓し、事業者になっていったからである。しかし、中南米の彼等が同じ志を持ってアメリカに来たところで、勝てる訳がない。敵は先住民ではなく、白人だからである。
だが、ウスナビがそうであったように、彼等ラティーヌは諦めない(そうであると私も願いたい)。状況を楽しみながら、前を向こうとしている。本作の音楽から、それがひしひしと伝わってくる。
ウスナビや彼等不法移民にとってワシントンハイツは、成功する可能性がない、「廃れた未来」の象徴である。
何故彼らにとってワシントンハイツが廃れた未来の象徴であるか。それは現在リアルワールドでも起きている、「高所得者層の流入」である。高所得者層が流入してくると、その地区に黒人や有色人種が住んでいようものなら、地価が下がってしまう為貸主が追い出そうとしてくるし、また流入してきた人間に事業を乗っ取られるので、最終的に彼等は追い出されてしまうのだ。高所得者層が流入する事で、家賃が上がり、彼等が払えなくなる事もある。その他にも理由はあるが、高所得者層の流入が彼等に良い影響を与える事はほぼ無い。その為彼等はあの地で事業を成し成功する事が厳しくなってきているのだ。
実際の所ラティーヌの人口が多いのはカルフォルニア等の南部で、ワシントンハイツのような北部は高所得者層の流入により減少しつつある。
彼は「一生懸命働くだけではだめなんだ」と言った。そして、「過去の栄光」であるドミニカの地へ帰ることこそが夢だ、とまで言った。彼は戻ることしか考えていなかった。
そんな中、最後のウスナビの選択はどうであったか。
インメディアスレスの形で映画が進行したことから、観客は見事に騙されたと思うが彼の最終的な選択はあの地で前を向き歩くという結果だった。
ワシントンハイツにいる彼等があれ程懸命に生きても報われない事が多いのに、それでも藻掻いているのに、懸命に生きれば報われる可能性が彼等より何十倍もある私達が頑張らない理由など、どこにあるのだろうか。
久しぶりにパワーをもらえる映画に出会えた。
次世代のラテン・ミュージカルの潮流を作るであろうミランダから、今後も目が離せない。
少しだけ気になったが、メリポピリターンズでも本作でもある、「ベレー帽を被った大量のメンズによる街頭を使ったポールダンス」のような演劇は、ミランダの好みなのだろうか。そっくりすぎて、メリポピリターンズから引用したようにしか見えなかった。笑