「もうひとつの『アラバマ物語』」黒い司法 0%からの奇跡 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
もうひとつの『アラバマ物語』
80年代の米国。
ハーバード大学を出た若き黒人弁護士ブライアン・スティーブンソン(マイケル・B・ジョーダン)。
インターン時に出逢った黒人囚人がきっかけで、弱き者の助けをすることを決意する。
選んだ仕事は、死刑囚たちの人権問題。
米国、特に南部では、証拠もなく、司法権力により冤罪で死刑宣告を受けた囚人たちがいる。
米国北部から南部アラバマ州に冤罪死刑囚たちのNPOを立ち上げたブライアンは、なかでも18歳の白人女性を殺した罪で収監されている黒人男性ウォルター・マクミリアン(ジェイミー・フォックス)の事件に関心を抱き、彼の再審請求に挑もうとする。
その土地は、『アラバマ物語』の舞台となった土地。
黒人への偏見は和らいだようにも思えるが・・・
というところからはじまる物語。
この映画、実話が基になっているのだけれど、この事件については知らなかった。
ですので、「ふーん、人権無視の地で立ち向かう黒人弁護士の物語、さぞや、丁々発止の法廷ものなのだろう」と思っていました。
ですから、観進めていくうちに、「ありゃりゃ、法廷での丁々発止、意外と少ない・・・」と落胆しました。
ま、こういうことは、何十年も映画を観ているとあるわけですが・・・
さて、映画は実際の事件を基にしており、物語も起伏に富み(なにせ、どう考えても、再審請求が通るだろうと思われる事態になる中盤で、却下されるときにはビックリしました)、決着の「0%からの奇跡」も感動的です。
が、個人的には、いまひとつ映画に乗り切れないところがありました。
丁々発止の法廷ものでない・・・
というのはその通りなのですが、法廷ものの醍醐味とは、いわゆる証拠主義。
事実の有効性を問うものです。
つまり論理のぶつかり合い。
この映画では、この事件の起きた地が、そんな論理から価値観が程遠いところにあるからかも知れませんが、論理など一顧だにされず一笑に付される有様です。
ですので、論理のぶつかり合いはありません。
いくらブライアン側が証拠・証言を提出しても、「そりゃ、嘘だろ。デマカセだぁ」なわけです。
ここのところが遣る瀬無い。
けれど、映画としては、そこんところの無茶ぶりがもう少し描いていてもよかったかもしれません。
無茶感は、ブライアンが携わる裁判の近くだけ起こってい、前半にあったような無名の住民からのいやがらせは後半描かれていません。
ここが少々不満。
けれど、もっと不満(というか違和感というか)は、音楽の選択で、全編にゴスペル調の音楽が流れます。
これは原題の「JUST MERCY」とも関連するのでしょうが、この逆転劇(というのでしょうが)は、ある種のMERCY(神の慈悲)だという印象が残ります。
つまり、そもそもの歪んだ価値観を正した結果を、神の慈悲としてとらまえてしまうことには、どうにも違和感を感じざるを得ないわけです。
もうひとつ踏み込むと、この逆転劇をもたらすのは、結果として(事実だからかもしれないが)、白人の改心による。
そして、その改心を促すあたりの描写が弱いと感じました。
で、わたしがいちばん感心し、驚いたのは、エンドクレジットが流れる直前。
米国での冤罪の多さ、映画のモデルになった人々の現在(特に、冤罪を生み出し続けている白人保安官が何期も連続で当選している)でした。
つまり、エンドクレジットが流れる前の映画の部分が、実際の数分足らずの画に負けている、と感じたわけです。
実録ものの事実は優れていますが、映画の力としては、少し物足りなく感じました。
なお、『アラバマ物語』は、この地での「われわれは、黒人を理解している」という、ひとつしかない免罪符ですね。
「ひとつしかない」とは「全然ない」よりマシではないということも感じました。