「産み堕とされたもの」ジョーカー じぐべーたさんの映画レビュー(感想・評価)
産み堕とされたもの
“温室”でぬくぬくと育ってきたような自分には語る資格はないかもしれないけれど、少しだけ感想を。
今作への批判の中で一番多いのが、
「ヒース・レジャー演じるあのジョーカーのような、知性やカリスマ性が足りない」
というものだと思う。
混迷の時代に、我々はカリスマの登場を期待する。
今では独裁者として悪名を馳せているような支配者のほとんども、
最初は、その時代の、その社会の、その群衆の要請に応じて、カリスマとして熱狂的に歓迎されながら登場したのだ。
この時代にも我々はカリスマの登場を期待する。
それがフィクションの中であったとしても。
それが「悪」の側のカリスマであったとしても。
しかし、今回のジョーカーは、悪のカリスマとして、“上”から颯爽と登場することはなかった。
むしろ、世界の最底辺から産み出された。
他の方がレビューで指摘しているように、彼は下へ下へと階段を“昇って”いった結果、
ジョーカーとして産声をあげる結果になったのだ。
ジョーカーを生み出したのは、我々だ。この世界だ。この世界の醜さと哀しみだ。
彼は世界の、我々の身体の一部だ。
我々は、神格化されたカリスマとして彼を仰ぎ見ることは許されない。
自分たちとは別の世界の、別の存在として、切り離して見ることはできない。
彼は自分たちの世界と地続きの、すぐそこで、ここで、誕生したのだ。
確かに、彼はみんなが期待した“あの”ジョーカーではないだろう。
しかし彼は、今の時代に、それでもどうしようもないくらいの切実さと狂気に満ちて、必然的に産み堕とされたジョーカーだ。
“ジョーカー”成らざる者が“ジョーカー”に成りえる、今の時代の我々のジョーカーだ。
今ここに、“ジョーカー”が生まれようとしている、いや既に生まれている、そんな時代に、我々は何を思うのか。
重く、しかし軽やかに踊りながら問いかける、残酷で優雅な物語だ。