「反キリスト教的要素に惹かれてしまう監督個人の超極私的映画」ハウス・ジャック・ビルト りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
反キリスト教的要素に惹かれてしまう監督個人の超極私的映画
暗い中、ふたりの男の会話が続く。
ひとりは事象建築家の連続殺人鬼ジャック(マット・ディロン)、もうひとりは正体不明の男ヴァージ(ブルーノ・ガンツ)。
ヴァージは「これは告解ではない。だたの話だ」という。
ジャックから語られるのは5つの出来事。
数ある殺人の中でのたった5つのこと・・・
といったところから始まる物語で、第1の出来事は、自動車が故障して立ち往生している高慢な女性(ユマ・サーマン)、親切心を出して手助けしたジャックだったが、衝動的にジャッキで殴り殺してしまう。
ジャックがジャッキで女を殺した・・・
英語でいうと「Jack killed her with her jack」だ。
ジャックもジャッキも同じjackなので、言葉あそび。
タイトルの「THE HOUSE THAT JACK BUILT」は、マザーグースの
This is the house that Jack built.
(これはジャックのたてた家)
This is the malt
That lay in the house that Jack built.
(これはジャックのたてた家に ころがってたモルト)
This is the rat
That ate the malt
That lay in the house that Jack built.
(これはジャックのたてた家に ころがってたモルトを 食べたネズミ)
・・・と、どんどんと続いていく言葉あそびから採られている。
根底には、ラース・フォン・トリアー監督のキリスト教的素養と反キリスト教的素養が寝っ転がり、全体としてはダンテの『神曲』をモチーフにしているようだ。
ただし、『神曲』に関わる部分は、こちらの素養がないので、あまりわからない。
映画は、陰々滅々した男同士の会話と、ショッキングだけれども淡々とした殺人描写が交互して繰り返され、その途中途中に、監督がイメージする藝術が挟み込まれていく。
このモンタージュ手法は途中までは面白いが、第3の事件あたりから飽きてくる。
「飽きてくる」というのは不謹慎か。
でも、緩急の変化がないので、感覚的に麻痺してくるのは確か。
そんな中、目を引かれるのは、ジャックの子供のころの思い出。
陽の光を浴びて黄金に輝く野っぱらを、村人たちが大鎌を振って、同じリズムで草刈りをするシーン。
幼いジャックは、それを川か池のそばでみている・・・
「草むらの中に逃げ込むのは、実は捕まりたいと思っているからだ」とヴァージがいう。
そして、このシーンは、第5の出来事後の地獄巡りのシーンでも再び登場し、ヴァージはその野っぱらを指して、「楽園」だもという。
このシーンで、ふと思った。
ジャックは、あの大鎌で首を刈られたかったのでは?と。
キリスト教的素養がありながらも、反キリスト教的要素(この映画では暴力・殺人)に惹かれてしまう監督みずからのアンビバレンツを、ジャックとして描いてる「超極私的映画」。
ジャックのように地獄に堕ちたいなぁ、堕ちるのが当然だぁ、と監督は思っているに違いない。
追記>
ヒトラーの映像、やはり出ました。
出たとき、「出たぁ! やっぱり」と思いました。
ゲーテが思索した樹が、強制収容所の一部になっている様子には、驚かされました。