ある少年の告白 : 映画評論・批評
2019年4月9日更新
2019年4月19日よりTOHOシネマズシャンテほかにてロードショー
同性愛の矯正施設の真実とは。“アメリカ的”な家族が辿る分断と回復の物語
同性愛者の矯正施設。性的志向やジェンダー・アイデンティティを“治療”によって変えてしまおうとする、そんなところがいまだに存在することに驚く人もいるかもしれない。しかしアメリカでは未だに36州がその施設の存在を禁止しておらず、多くのLGBTQの若者たちが保護者によって無理やり入所させられている。「ある少年の告白」の原作者であるガラルド・コンリーもそうだった。
ただでさえ保守的な南部の出身の上に、父親は福音派の牧師。聖書の言葉を重んじるこの宗派に属する者が、同性愛者では許されない。ガラルドをモデルにした映画の主人公ジャレッドは、大学での出来事をきっかけに自分の性的な志向に目覚め、両親にカミングアウトする。演じるルーカス・ヘッジズはいかにもオール・アメリカン・ボーイで、小さな町のコミュニティに確固とした地位を築きそうな“いい子”がはまる。彼は両親が自分を助けてくれると信じて疑わない。しかし息子のことが理解できない彼らはジャレッドを矯正施設に送る。そこで彼は、魂を潰されるような経験をするのだ。
そもそも、矯正施設は何を根拠にして、若者たちのセクシャリティを決めようとしているのか。監督を務めたジョエル・エガートンが演じる所長のヴィクターの論理は非常に曖昧だ。息子の苦悩を目の当たりにしたジャレッドの母ナンシーが言うように、彼のやっていることには学術的な裏付けも、宗教的な背景もない。あるのは型通りの“男らしさ”“女らしさ”に基づく押し付けだけ。牧師である夫(ラッセル・クロウ)の言うことに従っていたナンシー(ニコール・キッドマン)は、自分が息子をホモフォビアの集団に追いやったことを知り、愕然とするのだ。
自分と違う文化や性質を持つ子供を受け入れない親は少なくない。「ある少年の告白」は、アメリカ的な家庭の中にある分断の物語でもある。映画の後半では互いの違いを乗り越えて、もう一度家族になっていくことがテーマになっている。家族の物語が帰結し、映画が終わったように見えたその時に明かされる事実は衝撃的なものだ。その瞬間、アメリカのホモフォビアの根底にあるものが浮かび上がってくる。
(山崎まどか)