「 「平成のレクイエム、令和の黙示録」」天気の子 ヤナイ総合研究所さんの映画レビュー(感想・評価)
「平成のレクイエム、令和の黙示録」
「平成のレクイエム、令和の黙示録」
これは「敗北の平成」へのレクイエムである。そして「昭和」へのノスタルジー、始まってしまった「令和」という時代の黙示録だ。つまり2019年の日本の気分がきわめて精緻に映し出されている作品である。
課題先進国の今を切り取った作品として、どの程度の普遍性が世界に認められるのか。アカデミー賞の評価を待ちたい。
「天気の子」は「景気の子」
全編にわたって東京に降り続く雨は「敗北の平成」失われた30年の日本の停滞そのものだ。「景気の気は気分の気」というが、好景気を「晴れ」、不景気を「雨」と置き換えればわかりやすい。
冷戦終結後のグローバル化に翻弄される日本。音を立てて変化する世界を前にすでに大人たちは当事者能力を失ってしまった。昭和の残照から平成に生きた人々は現実を直視せず現状維持で逃げ切りを図っている。彼らが使う「終活」という妙な言葉はこれまでのニッポンの店じまいを意味するのかもしれない。
「夢よもう一度」トーキョー2020は「陽菜」。
みんなに100%の晴れが続いた時代。東京タワー、新幹線、万博、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、マイカー、エアコン、電子レンジ、ビデオデッキ。記憶の中ではバブルまで甘い。
なかでも国民の集合的記憶として無条件のポジティブイメージが与えられているのが1964東京オリンピックだ。だからこの物語の舞台は代々木になる。陽菜がひとときの晴れ間をもたらすチカラを得るのもこの場所である。代々木は再びハレの舞台としての神通力を求められているのだ。
奇跡的に再開発を逃れて老朽化した姿を残すビル。存在そのものが昭和へのオマージュだ。時空を超えて今にもショーケンや水谷豊が飛び出してきそうに思える。帆高が陽菜を追いかけて階段を駆け上る。その姿はかつての日本の青春時代そのもののようでまぶしい。「君の名は」といい新海誠は記憶のダブルミーニングに長けている。
「夢よもう一度」2020東京オリンピックにはわかっていながら、期待をしてしまう自分がそこにいるだろう。
分厚い雨雲のすきまに一瞬の晴れ間がさす。トーキョー2020は「陽菜」である。「陽菜」は光であり、成長であり、再びの「太陽の塔」なのだ。
「帆高」は戦後日本人の集合意識である。
神津島から東京へ出てきた中学生「森嶋帆高」は、高度成長期以来、日本中から都会を目指した若者である。帆高が島で全力でつかもうとした「光」。フルスピードで追いかけるものの「光」は島から海の向こうへと逃げていく。帆高が追いかけた「光」は日本が、日本人が、戦後(もしかすると明治以来)追い求めてきた「経済的成長」そして、その果実としての「物質的豊かさ」なのだ。2019年の日本で「光」を求めるピュアさにリアリティを与えるには「島」から来るぐらいの設定が必要だったのだろう。
「須賀」という世代
フェリーで出会い、東京で帆高の面倒を見ることになる須賀という男。晴れを知りながら、自らは果実を手にすることができなかった間に合わなかった世代である。だからイマドキ自分と同じように「光」を追いかけ大都会に迷い込んだ少年をほっておくことができない。現実に「成長」はもはや幻とわかっていながらも、少年の姿にかつての自分を投影してしまう。フェリーではたかっておきながら二度見でもするように連絡先を教える。さらに天野陽菜の登場で、もう一度「自分」も「晴れ」を追い求めてみようかと思ってみたりする。だから、少年に対してとる態度は決して一貫していない。わずわらしい警察沙汰から免れようとドライに利己的に接する一方、発砲した少年を逃がす手助けまで行ってしまう。土砂降りの現実の中で、もがき葛藤する令和の大人の姿を垣間見ることができる。
戦後日本 アメリカはどこにある。
陽菜と帆高の出会う場所が「マクドナルド」である。アメリカは戦後日本の新たなアマテラスであり、ガーディアンであった。だから、陽菜はマクドナルドとともにあり、帆高にとってはセーフティーネットとなっていた。ビッグマックはそのシンボルなのだ!しかし、帆高も陽菜もマクドナルドから放り出されてしまう。
マクドナルドの外はむきだしの性や暴力が支配する弱肉強食の世界だ。少年はひょんなことから手にする暴力装置を陽菜を守るために使ってしまう。グローバル資本主義の下でわれわれはどのような選択をするのだろうか。何をどのように守るべきなのだろう。銃を手にした少年はさながら核を手にした日本に見える。
成長をみんなで追い求め続けた結果の荒野 2019年の日本
作品に登場する人物の背景は戦後日本のアンチテーゼの様だ。シングルファーザー、ネットカフェ難民、児相、風俗、ブラック就活。「標準世帯」や「終身雇用」などどこにもない。
1973年の「日本沈没」で小松左京は近未来の日本を描いた上で沈没させた。しかし「天気の子」では具体的な未来が描かれることはない。今あるものが沈んでいく。それでも東京タワーは残り、スカイツリーは沈む。すでにオリンピックよりも先にリメイクを終えたスカイツリーの存在はフェイクということだろうか。平成のチープさが浮かび上がるノアの洪水とバベルの塔を足して2で割ったような絵面である。田端は代々木の逆サイドにあるもう一つの聖地として「アララト山」になるのだろう。
「天気の子」は令和の黙示録である。
2020東京オリンピックや2025大阪万博は日本に一時的な活況をもたらすだろう。しかし、誰もが気づいている。ろうそくの火が消える寸前の炎ということに。老若男女が「晴れ女」にすがったように、一瞬痛みを忘れる延命治療のようなものだ。100%の晴れが続くことなどこれから先は無いし、これまでだって本当は強烈な光にはその分影があることに気が付かないふりをしていただけなのだ。
帆高は最後に代々木会館の階段を駆け上り、鳥居からダイブして陽菜を追う。
「もう二度と晴れなくたっていい! 俺は陽菜がいい!」2人は翼が溶けたイカロスのように2019年の東京にゆっくりと落ちていく。われわれはもう飛ぶことはできないのだろうか。
「愛にできることはまだあるかい 僕にできることはまだあるかい」
「愛にできることはまだあるよ 僕にできることはまだあるよ」
☆世界経済に占めるGDPの割合
平成元年 米国 28% 日本15%
平成31年 米国 25% 日本 6%
☆世界の時価総額上位50社
平成元年 日本企業32社
平成31年 1社 トヨタ 人口減少 増えているのは国債のみ
この先は個人的な幸福の追求しかないのだろうか。
かつての夢の焼き直しではない、新しい天と新しい地。まるっきり新しいシンニホンをわれわれは創ることができるのだろうか。「天気の子」は令和の黙示録である。