「『僕はビートルズ』」イエスタデイ いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
『僕はビートルズ』
ビートルズ12作目のオリジナル・アルバム『アビイ・ロード』から今年が半世紀であり、この時期に合わせた公開であろう。
表題の通り、同じようなテーマの漫画が日本にもあり、多分世界中にこういう“歴史改編”モノは存在してると容易に想像できる。その中に於いて、今作の位置づけは自分なりに考察すると、それ程高いレベルではない。というのもファンタジーとしてはどうにも雑さが拭いきれず、飲み込みづらさをビートルズの楽曲という“オブラート”で喉を開けて流し込むという建付けで出来上がっているからである。そもそもの根本のプロットである、“ビートルズが存在していなかった世界”という前提がその後の社会にどれだけの影響力を及ぼしているのか、端的に言えば存在するモノと存在しないモノ、そして大事なのは無かったことで全く別の違う“何か”が代替として登場するのかという考察が緻密に積み上がっていないことに、ストーリー設定のグラグラ感を醸し出してしまっているのである。まぁ、その辺りは多分、どのレビューでも問われていることであろう。本筋である、幼馴染みの女性とのラブコメ要素も、インド人と白人という人種的な違和感が拭えない(人種差別を助長しているのではなく、寧ろ現在に於ける差別問題としてのテーマの折込の深度が足りないと感じる)キャスティングに、ピースの嵌っていないジグソーパズルの印象を持たせられてしまっている。
と、ここまで考察してみて、ハタと気付く。そうか、この違和感こそが、今作のテーマなのかと。それは、自分のように旧態然の思考であることこそに対するアンチテーゼなのであろうと、遅まきながら気付かされてしまったことに大変な恥ずかしさを感じてしまったのだ。
“ビートルズは白人だけのモノではない“、”インド人と白人だって恋愛し結婚もする“、そしてそのことに昔のように抑圧された葛藤を慇懃無礼に織込む必要もないんだということを。今作品に抵抗感を感じるとしたら、それはそのまま現在席巻している右傾化に繋がるベクトルなのだということを。登場人物の白人のおじさんとおばさんが、主人公に詰め寄るようなイメージを醸し出す。勿論主人公にとっては自分の悪行がバレ、追求されることへの恐れを感じる。しかし、二人は逆に感謝の辞を述べる。意外にもビートルズの代わりに世界に偉大な楽曲を披露してくれることが嬉しかったのだ。そして、クライマックスは世界同時停電後のパラレルワールドで船乗りとなっていたジョン・レノンとの邂逅。勿論、満載なツッコミどころの一部だ。しかし、曲こそ作らないジョンは、それでも幸せを感じている心の穏やかさ、そして幸福なことに78歳でも生きていることの有難みを強く感じてしまうのだ。荒唐無稽ではあっても、それは、『ワンスアポンアタイムインハリウッド』に於ける『シャロン・テート』以上のフィクションによるマジックなのだろう。出来れば、その他3人も出演させて欲しかったのが心残りである。その件も含めて、主人公がインド系ということにこそ存在の意味合いを演出させている制作陣の強いメッセージなのだろう。今作を作るに於いて相当楽曲使用料が嵩んだという噂だが、劇中にフリー音源として提供するという皮肉も相俟って、素晴らしい文化は世界の共有財産という訴えは強く心に響くものだ。なかなかの挑戦的な、手荒い洗礼である。ストレートに素直に共有されるこそ、これからの社会は次のステージにアップグレードする、試金石的作品なのであろう。
まぁ、ヒロインの女の子と付合っていた男があっさりと退いた件は、幾らビートルズでも飲み込めなかったのは、ご愛敬であるw
遅レス大変申し訳ありません。
丁寧なコメント下さりありがとうございます!
仰るようにオブラディでラストというアイディアは好感でした。
「他の男とくっつくことで想い人への自分の気持ちを確かめる」
という思考が女性にはあるようで(私には分かりません)、
ヒロインも大きな賭けをしたのかもしれません。
そんなことをしても相手が自分を選んでくれる可能性は低い、でももし選んでくれたら深い愛情で包もう。そんな小悪魔心理をリリーのような女性に演じさせたのは、監督&脚本GJですねw
レビュー拝見しました。
言いたいこと言って下さっています。ストーリーや主人公設定には私も軽さを感じてしまいました。表題曲までの流れとレノンに会うシーンはとても好きなので、原案と脚本のリチャードさんにもっと頑張ってほしかったです。
たくろ~さんの言われている二股の根拠は私も見つけられませんでしたが、ギャビンが軽い男の描写はありました。そもそも半分エリー目当てでレコーディングディレクターを志願し、エリーが本命を諦めきれない気持ちを知りながら彼氏になった。表情や視線の交わし合いから、「妥協相手としていいかな」→「利用されてもいいよ」という大学生的なノリは描かれていました。
>>たくろ~。さん
貴殿の本作のレビューが見当たらなかったので、僭越ですが私のレビューにご返事させて頂きます。もしお読み頂けたら幸いです。
ご指摘、ありがとうございます。私が見落としていて気付いていなかったのか、初めてのレコーディングディレクター・ギャヴィンが二股掛けていたシーンや、匂わすカットが思い出せませんでした。ラスト、エド・シーランのコンサート後のクライマックス後のバックステージにて、主人公とヒロインが逢った時、ギャヴィンが自ら退くその後ろ姿に熱い視線を贈っていた女性の存在は確認したので、所謂『捨てる神あれば拾う神あり』的な、誰にも不幸は訪れない”救い”的なエンディングに収めたかった意図は汲み取りましたが。
宜しければ、貴殿の仰る”二股”の根拠のシーンをお聞かせ願えますでしょうか?長々と失礼しました。