チベット ケサル大王伝 最後の語り部たちのレビュー・感想・評価
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「神授型」の“謎”に迫って欲しかったが・・・
“チベット人”は、チベット自治区だけでなく、青海省や四川省といった、自治区に近い辺境地域にも多く住んでいる。
言語圏は大別して、(1)ウ・ツァン、(2)アムド、(3)カムの3つあり、驚くべきことに、相互で言葉が通じないという。
「ケサル大王伝」という叙事詩の成立には、チベット仏教だけでなく、仏教以前の土着の文化や宗教(ボン教)なども関わっているという。
また、モンゴル・中央アジアや、カシミール地方など幅広い地域で、チベットとは異なる各地のバージョンがあるようだ。
文章や語りだけでなく、絵にも描かれ、また、舞踊団は祭りでパフォーマンスを披露している。
この映画は、そういう巨大な「ケサル大王伝」の全貌を語ろうとするのではない。
青海省の、標高3600~4400メートルの地域である、(a)ジドウ(治多)、(b)ジェクンド(玉樹)、(c)タルナ(達那)寺という「カム語」地域に限定して取材している。
そして、「神授型」の語り部を軸にインタビューし、実際に大王伝を語ってもらうのだ。
「神授型」とは、文盲であるにもかかわらず、ある日突然、夢のお告げなどで、熱に浮かされたようになって、大王伝を語り始めたタイプである。記憶力は抜群で、今では20数名しかいないという。
しかし当然ながら、大多数の語り部は、習い覚えた「学習型」タイプである。
本作の観客は、全部で7人の語りを、たっぷりと堪能できる。印象としては、朗々と詠唱するというより、早口に語り抜くという感じだ。
ただ、機関銃のように、矢継ぎ早に発せられる彼らの言葉に対して、字幕に出てくる台詞はシンプルなので、翻訳は少し不十分かもしれないと思われた。
オカルトの類いを全く信じない自分は、「神授型」であっても、必ず何かの機会に触れて、「学習」しているはずだと思う。
語り部本人が、全く覚えていなかったり、自覚していないだけだろう。(実際、「神授型」の語り部も、ローカル・バージョンしか知らないようだ。)
しかし、この映画は、「神授型」は「習いもしないのに説唱できる」というスタンスだ。
したがって、客観的に「神授型」の“謎”に迫っているとは言えず、そこが不満なところだ。
同じ話を、「神授型」と「学習型」の語りを比べたシーンがあったが、言葉や内容は、やはり全く異なっていた。
基本のストーリーを守れば、あとは具体的に何を語るかは、語り部自身の創作や即興であることが、明らかであった。それなら、一見、「神授型」でも、何の不思議もないのではないかと思った。
「学習型」の語りは、少し具体的で文学的だった。それに対し、「神授型」の語りは、(字幕を見る限り)素朴な“お話”風であり、それゆえ彼らが文盲であったということが信じられるのだ。
実は、こういう比較シーンを沢山観たかったのだが、残念ながら一場面だけだった。
「ケサル大王伝」の語り部は、世界的にみても数少ない、叙事詩の“口述”パフォーマンスを残している。
しかし今や、中国政府の観光化政策の一環として利用され始めており、今の若い人は中国語も話す。中国の中央統制的な“植民地支配”は、着実に進行しているが、うっかりと本当のことは話せない。聞く側よりも、答える側に危険が及ぶ。
また現在、この辺境地域において、ものすごい勢いで開発が進んでおり、ゴミも散乱している。関係者は、「きれいな環境がないと、神授型の語り部は生まれない」と心配する。
巨大な「ケサル大王伝」も、今やテキスト化されて“定本”が発刊された。
本当の意味での“口述”の伝統は失われようとしており、それゆえ映画の題名が「最後の語り部たち」なのだ。
古代ギリシャやインドを挙げるまでもなく、日本にもかつて、「古事記」や「平家物語」や説経節のような、口承文学の伝統があった。
いずれも初めから“定本”があったのではなく、複数の語り部が、ある期間をかけて、話を膨らませて、面白くブラッシュアップさせてきた、共同創作だったはず。どこまでが歴史的事実なのかということとは、別問題である。
自分は「神授型」を言葉通りに受け取ることはできなかったが、“口述される文学”の複雑で生き生きしたライブな姿を、この貴重な労作で堪能することができた。
神憑り…
夢のお告げで…突如 語り部となる。その中の一人が 「この草原の中で暮らしてると、そいうことが起きるんだ。」と言う
「だけど、最近は自然が汚れたりして 遊牧民も病気になったり、おかしくなったりしている。」と憂う。
昔話や神話はというものは 自然の中で暮らしていると、身近に本当に起きているのかも知れない。このチベットのように澄んだ青い空と…日本や世界も昔はそんな中で暮らしていれば、神とか不思議なことはよく起こるのかもとこの映画を観てると思えてくる。
もしかしたら、神話や昔話を何かに記録しているのは、それが失われていく時なのかもしれない。
こんな語り部が代々生まれてくるなら、その必要はないのだから…
アフリカにも文字よりもグリオという語り部が知識知恵者としているそうだが、
現代社会はAIやコンピューターがその役目 に取って代わったわけだが、どちらの方が幸せなのか…と神憑りの語りではなく、京劇風の芝居になっていくケサル王物語を観ながら思った。
その一方、一人の語り部の父が 「世の中とは関係なく 存在しているんだ」と言い
語り部の研究者はこれをアニメにしようとしている。
この語り部という形が消える事はあっても
また形を変えて、現れて来るのだとも思えた。
マイケル ジャクソンのスリラーがsoulやfunkをゾンビにたとえ、何度だって現れてくると歌ったみたいに
説明不能の「神授型」語り部たち。
ある時から突然、何かが憑依したかのように物語を語れるようになる語り部たち。それを「神授型」という。神秘性はイタコのようであり、人々の心をつかむのは平家物語を奏でる琵琶法師のようであり、流れような節回しは浪曲師のようでもある。
物語の主人公、ケサル大王は、東チベットの伝説の勇者。ヤマトタケルを思い起こさせる。
長く地域に残るこの語り芸は、いま、中国政府による地域振興の旗振りのもと、廃れようとしている。祭りは中国風に京劇化され、物語は書籍化が進んでいるのだ。それは、語り部たちの出番が減っていくことを意味する。共産党政権は、異質のものを排除したいのだ。
トークショーで玉川奈々福さんが憂う。語り部の存在は、いつかなくなってしまうんじゃないかと。トークの後ろのスクリーンには、かつてのチベット王国がまるまる中国の領土の色に染められていた。まさに、チベットを話さず中国語が共通語となっているチベットそのものだ。彼ら自身がそれを良しとするならば、早晩、語り部たちが絶滅するのも自然の理なのではないか、と悲しくなった。
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