Fukushima 50のレビュー・感想・評価
全64件中、41~60件目を表示
こんな白々しい姿勢であれば、物語を楽しむことは無理である。
政治的なことから「中立」で、
現場の人たちの苦闘を、エンターテイメントとして映像化した、
そう装おうとしていると感じる
現場の方々が頑張ってくれたのを称賛するのは良いだろう。
だが「自分たちは何を間違ったのか」としながら、
その答えが「自然を甘く見たことだ」などと語らせる。
そんな反省で現場の人たちは納得しているのか。
そんなわけないだろうと思う。
「甘く見た」のはなぜなのか。誰のせいなのか。
2号機の圧力容器の圧力がなぜ下がったのか、
つまり東日本壊滅がなぜ避けられたのか、
それは今でも謎のままであるという。
だが、なぜこの惨事が起こったかは、謎でもなんでもないのである。
なのにそれにはふれない。
そして物語の終盤では、自衛隊員たちは命をかけて「国を守る」し、
さらに米軍は「ともだち」として危険をおかして日本を助けてくれる。
エンディング前に2020オリンピックが「復興五輪」だと告げられ、
ロールで、協力「復興庁」と表示される。
あからさまに政府が支援した映画であるとしれる。
現場の人々の努力を、悪政と企業の強欲の免罪符などにするな。
見ていてこれほど不愉快になった映画ははじめてである。
すごくよかった
日本を守るつもりや命を懸けるつもりなどなく、単にいい就職先で東電に入っただろうに、図らずも命がけの重責を担うことになり、それでもその場から逃げずに奮闘しているようすには涙が30秒くらい出っぱなしだった。矢継ぎ早に事件が起こるので、ドキドキしっぱなし。
記憶に強く刻まれているつもりでいたのだけど、けっこう忘れていることや初めて知ることが多い。爆発は1回だったと思っていたら2回で、壁が取れたのを入れると3回。2号機が爆発しなかったのだけど、特にみんなが何かしたわけでもなくラッキーみたいな感じだったのかな。
かなり踏み込んだ内容で震災や原発事故を描いていて、日本人が作って本当によかった。今作っていなかったらイーストウッドが作ったかもしれない。イーストウッドが作っても今回のような形になっていたような気もする。
菅直人は間抜けに描かれていたのだけど、隠蔽したり逃げたりはせず、人柄は誠実そうだった。「ベントしろよ」と言っているのがよかった。
強い放射能を浴びると全身の細胞が溶けて死ぬのは怖い。
東電の視点だけ
実話に基づいて、当時の状況をよりリアルに、キャストの演技力でより迫力のある描写に、その中で生まれる人間ドラマ、葛藤とか苦悩を写すのはよくある映画の一つです。
映画自体にはこれといった特徴は見られませんでしたが、べつにつまらなくはなかったし、東電の中で起きたことに限定しすぎてるため、東日本大震災の大惨事が少し軽く見られるかも。
現場はもっと大混乱だったと思う。
YouTubeとかにあがってる当時の動画の方が恐怖を覚えます。。
ここの視点を求めるのは間違いかもしれないけど。
ドラマ「チェルノブイリ」も観て欲しい…
自分もこの映画結構よく出来ているように感じました。
(劇中、怒鳴っている人物ばかりだったけど…本当はもう少し淡々としていたのでは…とも思ってみたり。。)
「Fukushima50」を観た後、海外ドラマ「チェルノブイリ」を観たんですよ…。
これが…とても恐ろしいドラマで、よく出来てて…。
この映画を作った方が、「チェルノブイリ」観てない、こともないかな、といくつか類似点も感じられまして…。
その、バディものを主軸して話が展開する構成とか、タバコを吸って本音を吐くシーンとか、オマージュなのかな、と思うぐらい作り方が少し似ている気が、しなくもなかったというか…。
あんまりこういうこと書くのはよくない…とは思うのですが、まだ日本は原発事故の本当の真実まで描ききれていないようにも思いました。
変なレビューになってしまいますが「Fukushima50」と合わせて「チェルノブイリ」を観て頂きたくも思いました。
映画「Fukushima50」では「自然の力をあなどっていた」と、ある種誰のせいでもない、ただ「自然の脅威」…のように描かれてましたが、「チェルノブイリ」では事故の検証による科学的なミスと人為的ミスを指摘するところまで踏み込んでいることを思うと、(ドラマのネタバレみたいになってしまいましたが…)うーんここまで日本でも踏み切ったものを作れなかったのかな…と残念にも思いました…。(そうなったら大作として作れなかったかもしれませんが…)
ただ、現場の人も地元の人である、という意識を持つことは、この映画を通してとても切実に伝わってきました。
自分としては観て良かったと思います。
原発賛成音頭ではありません
2011年3月11日、東日本大震災に於ける津波によって発生した福島第一原子力発電所の事故の話。
メルトダウンや圧力破壊を避け様と尽力する職員達や指揮をとる吉田所長の奮闘を現場目線でみせるストーリー。
この手の作品はダチョウ倶楽部ばりに俺が俺がと順番に手を挙げていく演出とか、時代劇か舞台劇かの様な力み過ぎ演技とかが多いけど、今作では、ガヤや脇役では説明台詞の力んだ捲したてはあったものの、メインどころではそう言うのが余りなく比較的好印象。
TVや新聞やネットなどで、当時の状況は情報としては沢山入ってきたけど、生々しい現場での様子がだいぶ再現されているであろうドラマで、経過や結末は知っているのにスリリングだし、胸アツだし非常に面白かったし、勉強になった。
更には、現政権ではないにしろ当時の官邸や本社の無能っぷりをある程度の配慮はしながらもちゃんと見せていたのも良かったし、大きなシーンじゃないけどTEPCOジャンパーのシーンとかは良い意味でモヤッと引っ掛かった。
ただ、当時ニュースで沢山見たり聞いたりした知識や、実況の記憶があるからわかるけれど、圧力がどうとかベントがどうとか、爆発起こして何で?とか、余り説明がないから、当時子供だった世代や更に若い人たちには余程勉強していないと難しいだろうし、放射能に関して間違った見識が持たれてしまうかも。
脚色が中途半端で惜しい…
全世界が注目した空前の大事故。
描き方によっては、歴史的名作と呼ばれたかもしれない。
泣かすなら、とことん泣かす!シリアス路線なら、とことんリアリティの追求を!某政治家の無能シーンも沢山は必要ないし、女優さんへの気遣いシーンも多く要らない。
ベテラン俳優陣の演技が素晴らしいだけに、終わった後のモヤモヤに脚色の中途半端さを感じた。
最後は違うと思った
私達はとても忘れっぽいです。東日本大震災による東電福島第一原発事故。これの映画化には賛否両論あると思います。津波の破壊力を伝える為に、被災した建造物を残すかどうかで意見が対立するのと同じ様に。でも私達が忘れないうちに、後世の人達に映画として残す事は、やはり大きな意義があると思うのです。あの事故の時何が起きていたのか、それを知って今後に生かさなければなりません。
冒頭からリアルなセットで事故を再現していて、緊迫した過酷な状況だったことが伝わりました。これは映画ならではです。東電の職員が全員現場から撤収してしまった、というデマを私も聞きましたが、そんなことが出来るわけがない、やらなければ東日本が壊滅していたのです。
一方で、描き方には不満もあります。例を挙げると、
・娘の恋人を登場させるより、もっと原発の解説をした方が良かった。
・現場の職員達が家族と連絡を取っている中、総務の女性は、「夫とは信頼関係があるから連絡しない」と言う。心配している家族に連絡しないのは、一昔前の家庭を顧みない仕事中毒の夫と同じです。必要の無いシーンでした。
・素人の(失礼)菅直人総理が突然現場を訪れると言ったのは、東電本部(本店)の混乱ぶりと、誰が司令塔かわからない無責任さにしびれを切らしたからで、のんびり視察するつもりだったわけではありません。迷惑な行為だったのでしょうが、本店はそれを説得して止めることが出来ませんでした。この不手際の原因は、そもそも原発を作った当時の政権と東電幹部が、「いざという時」を想定していなかったからだと思います。
・最後、2014年、伊崎は立ち入り制限区域に入って、桜を見上げて亡き所長に語り掛けます。でも、この美しい桜を本来見られた筈の住民は居ないのです。まだ戻って来られないのだから。この事を伊崎に語らせるべきと思いました。
原発について、忘れられないことがあります。
20年近く前、友人の福島の実家に数人でお邪魔しました。ご家族は明るくて気さくな方たちです。
そのお父さんが私に、「近くに原発があるんだけどね、そこの電気は全部東京に送られて、東京の人が使っているんだよ。」それが不満そうでした。今は千葉県民で東電の利用者ですが、実は私は東北の生まれで、父の会社が倒産して、小学校入学直前に、東京に引っ越すことになったんです、不可抗力です。そう言いたかったけれど、気まずくさせるので黙って聞きました。一方で友人は、自ら東京の大企業に就職して、都会の生活を満喫していたので、本当は言いがかりに近いのです。でも、東京の人間は華やかな生活をして、必要以上に電気を使っていると言われても仕方ないのだな、と思いました。
帰りに高台から見た原発は、後ろの綺麗な海にはそぐわない異物に見えてしまいました。
そして震災と事故です。その時のメンバーとは疎遠になってしまったので、あれが第一原発だったのかがわからず、ご家族がどうなったのかも確かめられないままです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3月11日追記
福島県の帰還困難区域を通るJR常磐線が3月14日に全線復旧します。
喜ばしいニュースだと思ったら、その事で帰還できる住民は居ないそうです。特集番組で現在の町の様子を見たら、地震で破壊された廃墟に草が生い茂った状態です。時間が止まったまま、というより、荒廃が進んでいるのでした。
また、この復旧についても、五輪に向けて復興をアピールする為に、駅周辺の整備だけを急いだ、という意見があるようです。物事は多角的に見なければいけないのですね。避難指示の全面解除は2023年春を「目標としている」そうで、まだ先は長いです。
原作がいいだけに残念
いい役者さんたち、素晴らしい原作、なのに映画としては残念な感じ。監督の演出が下手なんでしょうか、原作を読んで涙した感動が今ひとつ伝わりませんでした。
一番の見せ場の、海水注入を絶対止めるなと耳打ちする場面、なんだありゃ。原作読んでない人には意味わからない人も多かったろうし、もうちょっと演出のしようがあったろうに。
終わり方の演出も不満。もっとすとーんと安堵させる演出は出来なかったんだろうか。
将来見せるべき映画
東日本大震災が起きた時自分はまだ小学二年生だった。
なんとなく流れていたテレビから「第一原発が爆発」などのワードが耳に入っていたのは覚えていて、あの時確かに福島で生死を掛けた作業をしていた人がいた。それを実感できた映画だった。
この映画を10年、20年、30年先に生まれてきた東日本大震災を知らない子供たちに学校などの教育の一環で見てもらうべきだと思う。2011年3月11日に起きた地震で何が起きて、何が大変だったのか、何故い原発は反対されるのか、この映画で色んなことが考えられると思う。
この怒りと涙はどこから来るのか
劇中、人々は怒りをぶつけ合い、嗚咽する。事故現場で、対策本部で、東電本店で、首相官邸で、避難所で…
当時、その怒りや涙を全く知らなかった。
それらは、どこから来ていたのか?
それは、自分の死が突然目の前に突きつけられた恐怖、そして家族の死、故郷の死、国の未来と地球の未来の闇が一度に押し寄せる正に極限状況から来ていたのだ。
人は、恐怖のあとに怒りが、絶望のあとに涙がやってくる。
目に見えないシーベルトを映画館で感じた。
それだけで、この作品に接した意味があった。
無論、現実はこの何万倍の事態であっただろう。
当時、ニュースだけでは感じなかった極限状態。それを知らしめてくれたFUKUSHIMA50はヒーローでも犠牲者でもない。極限状況においても、奇跡を信じて最善を尽くしてくれた恩人である。ありがとうFUKUSHIMA50。これから慢心を捨て、より良い未来を描いていくことで恩返しをしていくことを心に刻もう。
福島のことを考えること
まずこの映画はやはり映画館で見てほしい。
出来るだけ、大きな映画館で大きなスクリーンで見てほしい。
二時間を通してあの日あの時のことを体感できるからだ。
もう、そんな思いはしたくないという人がほとんどだろうがそれでも今この映画をこのタイミングでまた見ることは、少なくとも私には十分に意味のあることだった。
震災を思い出して体調が悪くなってしまう人は、やめたほうがいいのかもしれない。
人を選ぶ映画だと思うが、私はこの映画に会えて感謝している。
昔NHKでこの福島第一原子力発電所のことが大杉漣が吉田所長の役で再現ビデオが放送されていたが同じスタッフなのか同じ作者なのか、わからないが、似ていた。そういえば大杉漣はシンゴジラでは総理の役をやっていた。発見だった。シンゴジラにも似ていた。既視感があった。なのでそれを同じく大画面で再び見ている錯覚にもなった。特撮だった。
大杉漣がもし生きていたのならば、もしかするとこの映画でもまた吉田所長をやっていたのかもしれないのかな、などと思った。今となってはわからないが大画面でその漣さんも見たかったなと思うのだった。渡辺謙は渡辺謙で、素晴らしかった。佐藤浩市は、年々お父さんに似てきたなと思う。
佐藤浩市、渡辺謙の存在感は群を抜いていた。
総理役の佐野史郎、ダニーボーイと米軍が印象的だった。
日本とアメリカの関係についても改めて考えた。
この映画の制作陣の心意気、そしてそれを通して映画を見ながら当時現場にいた作業員の魂を垣間見た気がした。映画というものは、見るものに想像すること、考える力を与えてくれるのだ。
福島について考えた。
追記)
二度目のfukushima50観てきた。
巷では事実と違うだの、見るに値しないだの、捏造だの、散々ボロクソに叩いている感想もかなり多く見かけます、確かにそういう面はありますがそこまで酷いかなあというのが正直なところでしてそこまで陳腐でもなかった。人によっては陳腐に思うのでしょう悲しいことですが。でも私は意味のある映画だったと思います。批判するのは簡単ですが映画の魂を見てほしい。文句だけの人には腹が立ちました。
ただの原発推進映画ではなかったし感動の押し売りでもなかった。
私はこの映画で一切泣いていません。ただ現場の緊迫した様子と過酷さがこの映画のすべてでした。劇場内に臨場感圧迫感が蔓延し泣くのを阻止します。泣く余裕はハッキリ言ってない。感動もしてない。そんなことよりも現場のことです。
感動する以前の問題で泣くことよりもどうするべきか、です。泣いてる暇があったら作業しよう、できることはないか、なんとかしよう、考えよう、現場の方たちはきっとこういう気持ちだったのではないかと思います。視聴者もまるで同じような体験をします。まさに地獄でした。
無論映画なので大胆に大袈裟にドラマチックに作ってあります。かなり進み方はドラマ的でした。演者が台本に沿ってやる芝居なのでそれは普通のことです。
まだ震災から9年ですが大きな出来事だったので映画としてのエンタメになることに拒否反応が出たのもわかります。9年という歳月が問題なのではなく東日本大震災の大きさ悲惨さが映画にするには傷が癒えていないというか時期早々だったという部分もあります。
でも私は観てよかったと思いました。
「考えなさい」、そういう映画だと思います。
観てもいいと私は思います。
「ちゃんと描かれていない!!クソ映画だ観る価値なし!!」なのではなく「みんなが覚えている記憶」なのです。描かれていなくてもみんなちゃんとわかってます。みんなちゃんと記憶にあります。ただやみくもに批判するだけの人たちは好きになれません。描かれていなかったからこそ、映画を見ながら一人一人が想像し思い出し考えることが出来るのではないのですか。その能力は人間は持っているはず。消えてしまいましたか。それとももう忘れてしまいましたか。悲しいことですが。
思い出せ、想像しろ、ということです。
あの時のことを忘れてはいないか、覚えているか、ということ。
そんなことはないはず。もしそうなのであればそれまでのこと。
物語に空白を作ることで思い出す余地を与えているのです。
そうやって自分で考えながら見てほしい。自分の頭で心で補いながら観るものではないのですか。観ながら脳内の記憶をあの頃に戻し補完出来ます。そうやって補いながら映画を見るのです。
人間はいつからただの恩恵を受けるだけの傲慢な人間になったのでしょうか。受け取るだけでは何も生まれません。考えることが出来るのです。原発にしてもそう。本当に必要だったのか、問いかける映画でもあります。原発で今まで悪いことばかりではなかったはず。いいこともあったはず。だが、こうなってしまった。恩恵もありましたがその代償は大きい。
綺麗なものだけを見過ぎたんです。いいことばかりが目につき、悪いことは見なかった。見えていなかった。見ないふりをしてきたのか。原子力への理解、いいことも悪いことも多方面から見なければならない。考えることをしなかったからです。でないと人も自然も暴走します。
全てを描き切ること、全てを映し出すことが正解なのですか。それなら現実の報道映像を見ればいい。二時間弱の一本の映画としてまとめた時にどのように視聴者の心に留まるかが大切なのだと思います。私には原発での出来事に絞った今回の映画は非常に記憶に残りました。
だから見て終わり、ではないのです。考えるのです。この映画になったということは問いかけるということ。この見たまんま受け取って終わりなのでしたら、今までと全く同じ、何の価値もないでしょう。情報だけを鵜呑みにし賞賛するだけの映画になります。違います、この先を考えるのです。そのためのこの映画です。教材です。ただのエンタメではありませんでした。課題です。
現場
①「Fukushima 50」って何のことか、この映画で初めて知りました。当時、福島第一原発の事故中継はTVで観てましたが、あの時に発電所内に所員さんたちがいて必死に事故の対応をしていた事になど全く思い至っていませんでした。遠く離れた奈良県(災害少ないんです)に住んでいるからとは言え、同じ日本人としてホント申し訳なさ一杯になりました。②同じ時代に生きる日本人として東北大震災のことも福島第一原発の事故のことも忘れてはいけないとは思っています。いまでも完全に復興したわけでないことも(果たして元通りになるとは思えないし)、原発問題が解決出来ていないことも判っていますが、阪神大震災ほど肌感覚として身近に感じられないことは確かです。心にもないのに同情っぽいことを言うのは却って失礼だと思いますし。③福島第一原発の場合は未曾有の事故ではありましたが、私たちが肌感覚で解るのは、一番大変なのはいつも現場であるということ。東電であろうと、うちの会社であろうと、本社で椅子に座っている連中は現場の大変さが判っていないのは何処でも同じだと、それは良く伝わってきました。特に現場を知らない人間が上に立つと。④映画としては、最後まで緊張感が途切れなかった点で演出的には合格かなとは思いますが、一番山場であろう2号炉の圧が下がらないところをもっとサスペンスフルに盛り上げれば、圧が下がったところにもっとカタルシスを感じられただろうとは思います。あっ、これで終わりなんだというちょっと中途半端感が残ったので。⑤しかし、当時も思った事だけど、何で首相がノコノコ出ていくのだろう。そのパフォーマンスでどれだけの人が迷惑を被るかわかんないんだろうか。⑤力作だと思います。被災している方には甘いと笑われるだろうけど、最後に涙が出たのは確かだし。
人が制御出来ないもの。
前置きなしでいきなり発災時から始まったのはビックリしたけど良かったです。
専門用語がとびかったり、「〇〇Sv!」とか「〇〇hPa?!」とか叫ぶシーンが多かったけど、どんだけ大変な数値なのかとかの説明はわりと端折ってます。
気になる方は復習しといた方がよいかも。
原発敷地内や建屋内の位置関係とかも頭に入っているとなお良いです。現場職員達が奮闘している場面では、左下にマップとか出しといてくれたら良いのに、と思いました。
菅直人や東電幹部の扱いは、確かにそうだったのかもしれないけど、観ていてちょっと気の毒な感じでした。
本人たちは観たんかな。
結局、誰がなんと言おうと原発はダメなんだなあ、と改めて思った作品。
いやいや、ハッピーエンドにするのは違うんちゃう?
結局、二号機の圧力が下がった要因は何なのか?
吉田所長以外の所員の方々は今も元気過ごしてらっしゃるのか?
未曾有の災害に対する対策は、十年経った今、万全なのか?
生まれ続ける汚染水は、今後どうして行くのか?
映画は臨場感があって感動的で良かったですが、色んな疑問はまだまだ解決されておらず、モヤモヤは残ったままです。
彼らは間違いなくヒーローである。
先ず、それだけは言っておきたくて。
犠牲的精神。覚悟と責任感。最悪の場合、何が起きるかが分かっている上で現場に留まり、実行部隊としてのミッションをやり遂げようとした勇気。
ヒーローですやん、間違いなく。
ビハインド・ザ・ストーリーが全く無いのはどうなのよ、って言う事で、「人災部分」だけ書き足します。
◆本来、2011年3月には冷間停止しているはずだった。
皆んな忘れてるでしょ、この件。
関電のHPを見ると原発の寿命について以下の記述有り。
"原子力発電所が建設された当時、運転期間に対する法令上の定めはありませんでしたが、福島第一原子力発電所事故の後に改正された法律によって、運転できる期間は運転開始から40年と規定されました。”
ウソは言ってませんが分り難いので補足します。原発建設当時は「15年」だったと記憶。技術の進化に伴い、「適切なメンテナンス(追加工事と補修工事)を実施すれば延長を可能とする」条例が、橋本龍太郎内閣時代に可決しています。
40年限界との数字を法令化したのは、当時与党の民主党です。しかしながら「厳格に耐用年数は決まっていないが、メンテナンス工事を実施しなければ継続使用できない」と言う条例はあった訳です。東電への継続使用許可は、規則違反である事も事実です。福島第一原子力発電所は、2011年2月14日(日付けは間違ってるかも知れません)を以て休炉に入り、耐用年数延長のための工事に着工する予定でした。それが2月8日、メンテナンス工事無しでの「延長許可」が、何故か下りてしまいます。
本来の計画通りであれば、3月11日には原子炉は停止しており、燃料棒も隔離されていたはずでしたが、連続操業していたため「結果的に」あんな事態に陥りました。
延長許可が下りた理由、と言うか、許可した背景については、推測混じりになるので自粛します。
最後に。吉岡里帆が女優さんとして、ちゃんとして来たなぁって思いました。
--------------
2/13 追記
この映画の主題は、体育館のシーンに集約されているのだと思います。「すみませんでした」と頭を下げる伊崎。「利夫ちゃんは、よく頑張った」と返す隣家のおやっさん。
私達、彼らに「よく頑張った、ありがとうね。」って言ってないことないですか?本当に大変なのは被災者だから、被災者は感謝する必要など、ないのでしょうか?
Operation Tomodachiは、政府との合意・許可を待たずげ米軍が自発的に行動を起こしてくれました。当時の政権は、防衛大臣であった北澤俊美氏が、4月3日に菅直人首相の感謝の短いメッセージを代読するに留まります。菅直人氏は、自分の言葉で感謝の意を述べていないんですね。同様に、100億円以上の義援金を送ったのに、謝礼広告から完全に無視された台湾、ってのもありました。
なんで自分の口で、ありがとう、って言わないんでしょうか。
ちなみに、Operation Tomodachiですが、1923年の関東大震災の際にも実行されていました。第30代大統領のカルビン・クーリッジの判断です。これをご存知無い方は多いのではないでしょうか。クーリッジは大統領令を発し、フィリピン・マニラや清国に寄港中のアジア艦隊に、救援物資を満載して横浜へ急行するよう命じました。
で、更に遡ると。
1906年のサンフランシスコ大地震の際。日本政府は、当時の国家予算の1/1000 にあたる50万円を支援金としてアメリカに送っていますし、明治天皇から20万ドル、日本国民から10万ドルが寄贈されました。
関東大震災の友達作戦は、サンフランシスコの支援に対する恩返し。東日本大震災への支援は911で駆けつけてくれた消防庁への恩返し。感謝の気持ち、ありがとうと口に出して言う事の大切さ。それが、この映画の伝えたい事の全てやないでしょうか、って思います。
その両国は、太平洋戦争に突入してしまう訳ですからね。国際政治・外交って、本当に恐ろしいし大切だよな、って思わざるを得ません。
忖度なし
Fukushima 50
脚色は最小限、派手さはないかも知れない。
でもそれが逆に生々しく。
主人公は現場全員。
死の覚悟をもって臨むシーンは直視できなかった。
オープニングから、
ずっと涙が止まらず。
一部を除いて。
この映画は予め、みようと思っていた。
事前に懸念していたのは、
首相官邸の様子を偽りなく表現するか否か。
ポイントは3つ。
1.政治的パフォーマンスのため、ベント解放の足を引っ張る
2.アメリカの協力を断る
3.海水注入を止めようとする。
全部表現されていた。
裏の駆け引きは当時、在日アメリカ軍のツイッターやら菅直人の安倍ブログ裁判に関する報道などで、
見聞きはしていたけど、
映像作品に記録し、
共有できるようにしたことには意義がある。
新型コロナ対応でマスク買い占めしたり、他人を押し除けて消毒剤にはしる人は、この作品みて何を感じるだろうか。
タイトルなし(ネタバレ)
命懸けで福島原発の事故に現場対応してきた者たちの映画であって、当時どれだけ大変な状況だったかがわかるように作られていてとても良かった。
ただ、現場と上層部との対立をわかりやすくするために首相などを悪くしたり、幹部を無能な上司みたいにする描写はいただけなかった。とくに首相を演じた佐野史郎をキャスティングしたのは間違いだと思う。
首相や官邸の人間が突発的にわめき散らし現場を混乱させるのには違和感を感じざる得ない。
当時の政権を支持批判するつもりはないが、首相や官邸の人達も当時は大変だったはずなのだからそこの描写も丁寧にして欲しかった。
福島は生きていく
私は福島県民である。
福島県民なら本作を気にならない人は居ないだろう。偶々初日が休みだったので観に行ったら、コロナが懸念される中大変な混み具合だった。
また、邦画メジャーの劇映画としてこの題材に真っ正面から挑んだ熱意と意欲に、まずは称賛と拍手を贈りたい。
9年前、東日本~関東の広範囲を、未曾有の大災害が襲った。
地震、津波、液状化…。
それらによる各地の被害は想像を絶するもので、中でも我が福島は、原発事故による放射能漏れという絶対にあってはならない事態が起きた。(と同時に、それと同じくらい許し難い風評被害も)
しかし、あの時あの場所に留まった人々の尽力で最悪の事態は免れ、その後の作業や除染により、福島はまたかつてのような穏やかな暮らしを取り戻しつつある…ように見える。
…が! 今も尚放射線数値が高く立ち入り禁止になっている地区があり、今も尚仮設住宅で避難暮らしを続けている人々が沢山居る。9年経っても尚…否! まだ9年しか経っていないのだ。
福島では今も、夕方の地元ニュース番組では被災者たちやそれらの事を伝え続け、天気予報の時は県内各地の放射線数値も併せて報せている。絶対、忘れてはならない為に。
それなのに、どうだ? 日本全国に目を向けたら?
今はコロナウィルス感染拡大が重大で深刻で最優先事項だが、その前は東京オリンピックに浮かれ、バカみたいな下らない芸能ゴシップばかり…。
福島や東日本の被災地以外では、もうほとんど取り上げてもいないだろう。
連日伝え続けろとまでは言わないが…、9年も経てばここまで風化するものなのか…?
やはりこの国は、東京で何か起きないと誰も真剣に向き合わず、本腰を入れようとしないのか…?
福島もこの国の一つだ。福島県民もこの国の一員だ。
今も助けを求めている人たちが居る。今も窮屈な暮らしを強いられている人たちが居る。
それを忘れるな!
東京オリンピックなんかより復興の方こそ最優先にして欲しいと思っている人々も沢山居る。
まだまだ復興が完全に終わってもいないのに、今東京でオリンピックを開く事がそんなにも最優先最重要で絶対に大事な事なのか? 予算もそっちに割かれ、それと復興が一体何が繋がるというのだ?
オリンピックで活躍する姿が復興と被災者の為になる…?
素晴らしい事を言ってるようだが、本当にそれを被災者/被災地の前で堂々と言えるのか?
勘違いするな!
脱線していきなり吠えてしまったが、さてさて作品の感想を。
実は予告編の印象では、この題材を扱いながらも邦画にありがちな湿っぽい泣きの作風になるんじゃないかと。
実際、そうでもあり。どうしても邦画は一貫してポリティカルに成り切れず。そう思うと、『シン・ゴジラ』はフィクションなのに圧倒的なリアリティーがあって素晴らしかった。また改めて、あの未曾有の大災害をゴジラに置き換えて見事描いていたなぁ、と。
そんな難点ありつつもしかし、本作は思ってた以上の力作であった。
開幕シーンは2011年3月11日午後2時46分。即ち、地震発生時の原発シーンから始まる。
自分もあの地震を身を以て体験したので、あの時の事を思い出しながら、開幕から引き込まれた。
地震が引き金となり、発生した大津波。絶対安心安全がいとも簡単に崩壊した“想定外”。
津波によって原発に異常事態。次から次へと起こる危機、大混乱、今何が起きているのか。余震も続く。そして…
ニュースで我が目を疑ったあの水素爆発…。あの映像を見た時、本当に福島にもう住めないんじゃないかと思った。
第1原発に続き、第3原発も爆発。もし、第2原発も爆発したら…? 福島県民として…いや、日本国民として知らなかったその事実に、ゾッと戦慄した。
昨年の『空母いぶき』など時々作品にムラがあるが、若松節朗監督にとっても本作は『沈まぬ太陽』と並ぶキャリア代表作になるだろう。
小難しい専門用語飛び交うが、それが実際の現場というもの。忠実に再現したという原発内の美術セットも見物。
共に実在の人物を演じた佐藤浩市、渡辺謙の熱演。特に渡辺謙は、あの時あの場所で疲労困憊、精神すり減らし、それこそ血尿が出るほど指揮を執り続け、無理を押し付けてくる東電本店と闘い続けた故・吉田所長という難役を体現し切っていた。
終始緊迫感は途切れず、と同時に感心したのは、細かい描写。
中でも、地震直後、福島では突然吹雪に。雪がちらつくシーンも再現されており、この世の終わりなんじゃないかと思ったあの時の事を尚更思い出した。
原発職員以外の人たちのドラマも。
滑稽で無能な政府や東電本店の奴ら。(役柄は別として、佐野史郎や篠井英介は憎まれ役をよく引き受けてくれた!)
職員の家族や原発のある富岡町の人々…。
私は郡山市民なので、地震以外の被害は免れたが、震災の前の年、仕事で富岡町を訪ねた事がある。遠目で原発も見た。
今でも記憶に残っている。映画のラストシーンを飾った、あの桜の通りも実際に歩いた事ある。
それらが全て…。
映画の中で言う。
「俺たちは何を間違えたんだ?」
永遠の問いだと思う。
火力も水力も風力にも限界はある。そこで日本の未来のエネルギー力と信じてこの福島に作られた原子力発電。
それが後年、福島を苦しめる事に…。
こんな事になるとは思わなかった。
しかし、想定外の事態にもっと備えるべきだった。
何を間違えたのか…?
日本の未来の為を思った事は間違っていないし、甘く見過ぎたのも事実。
この割り切れない複雑な気持ち…。
が、間違いがあったら正し、想定外の事態が起きたら立ち向かうのが、人間。
人間が自身で作り出したエネルギーで危機に陥るなんて、端から見たら滑稽だ。
立ち向かわなければならないのは、更なる原発事故阻止と放射能という背筋も凍り付く事態。
命の保証も無い。被曝も免れない。
しかし今こうして最悪の事態を免れ、福島で暮らしていけるのも、いちいち言う必要もないが、改めて言いたい。
あの時あの場所で、闘った人たちが居たから…。
今、コロナの影響で映画館へ足を運ぶのはなかなか躊躇するだろう。
が、もし足を運べたら…、
レンタルでいいやとか、福島で起きた事だからとか、もう9年前の事だとか、他県で起きた自分には関係ない事だとか絶対に思わないで欲しい。
同じ日本人として、見るべき…いや、忘れてはいけない。
あの時TVかなんかでどっかのバカ連中が、もう福島には住めないとか、福島から逃げろとか、福島というだけで風評を受けた。
そいつら全員、俺の前に出て来やがれ!!
富岡町には桜が咲いた。
私たちは今も福島で暮らしている。
福島は生きている。
全64件中、41~60件目を表示