孤独なふりした世界でのレビュー・感想・評価
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他者と過去が作る「自分」という存在
他人とは自分を映す鏡。「他者」なくして「自己」は存在しない。
地球でたった一人生き残った人間になった時、自分を自分として存在させる為の支えって、何になるのだろう。
「孤独なふりした世界で」を観始めたとき、最初に思っていたことはそれだ。
デルの日々の暮らしは、少しだけその問いに答えをくれた。誰もいなくなった世界で、デルは図書館に勤めていた「自分」を継続させながら、町を掃除し、混沌に陥った世界に少しずつ秩序を取り戻そうとしていた。
この映画で描かれるのは、「他者」の目を通して形成される「自己」の存在と、「過去」の積み重ねから形成される「現在」という概念である。
それは時として理想とかけ離れ、それを「現在」の「自分」と認識することに苦痛を伴うが、決して逃れようとしてはならないある種の真実だ。
たった一人で過ごしていた世界にグレースが現れたことから、物語は動き出す。
独りぼっちだけど穏やかだったデルの世界は、人間が二人になったことで混沌と秩序が絡み合う煩わしさを取り戻したように見える。
少し離れたところで食事をしていた二人が同じテーブルで魚を食べたり、デルが地道に続けていた人々の埋葬を一緒に遂行したり、順調に二人だけの世界を構築していくように思えたのだが、グレースが拾ってきた犬を巡って二人の間にささやかな亀裂が走る。
グレースが犬を追い出したデルに腹を立てるのは、可愛がっていたから、というだけではない。
「おしっこするから、外に出たいだろ」というデルの言葉が、出会った時の二人を再現している。
そこにグレースは反応した。グレース自身が、デルにとって「いなくなっても構わない存在」である、ということを突きつけられたような気がしたのだ。
デルにとってグレースは、初めて自分がダイレクトに感情をやり取りする「他者」だったのかもしれない。
互いに心の奥底に触れた時、やっと二人は理解しあえたのだと思う。
グレースを迎えに行った先で見つけた彼女の本。母親から贈られたらしい「コレラ時代の愛」は、愛した女性を50年以上想い続ける男の物語だ。
家族を失った老婦人を待っていてくれた、一人の男の愛。
それが激変した世界でグレースが求め、拠り所にしていた思い出なのだろう。
グレースが見つけた「地図に載っていない家」はデルの家だった。町中の家を片付け、人々を埋葬していたデルが、どうしても訣別出来なかった家だ。
生まれた家、育った家、デルの唯一の「他者との繋がり」である母親を、過去の思い出にしてしまったら、デルは本当に孤独になってしまう。グレースがいなければ、きっとデルは自分の生家を片付けることは出来なかった。
このままたった二人だけの世界で静かに終わりを迎えるのか、と思いきや、翌朝デルは衝撃の事実を知る。
世界にはもっと大勢の人間が生き残り、この惨事のもたらした負の感情を無くして生きていこうとしているという。グレースもそこから来た。
連れ戻されるグレースと別れたデルは、また元の生活に戻る。
真地の人々の写真を見ながら、一人一人の記憶を
回顧するデルの姿は淋しそうだ。それは砕けてしまった鏡の欠片を、懸命に集めている姿だ。
自分を写す鏡である「他者」を、1600人の町の人々の記憶を、きちんと「あったこと」にしようとする姿だ。
生存者の暮らす町へと向かったデル。その手掛かりとなる住所が書かれた本が「変身」なのも興味深い。ある朝目覚めると虫となっていた男の物語は、どうする事も出来ず不条理を受け入れるしかなかったストーリーだが、デルは違った。
グレースを再び迎えに行き、闇雲に「明るい未来」を目指す世界から、「過去の出来事と向かい合う世界」へグレースを連れ戻すのだ。
逃れるために「偽者の家族」を犠牲にした彼女の謝罪に、「本気で言ってるのか?」と問うデル。
「違う」と答えるグレース。
グレースは「過去と向き合う」事に自ら飛び込み、「明るい未来」を志向する事を捨てて、自分だけを必要とする相手と過ごすことを選んだのだ。
どんなに酷いことが現実として目の前に横たわっていても、どんなに辛い過去があっても、屈辱的な他者の視線があっても、それを「なかったこと」として排除しても、世界は変わらない。
在るものをを受け入れて、「するべき事をする」以外に、自分らしい生き方など存在しないのだから。
面白かったとは思う。 けどやっぱり前半部分長すぎかなー 2人の関係...
人類滅亡のふりした世界での男女の出会いw
ある日突然、人類が死に絶え、地球にたった一人残されたのが小人症の男。
彼はとくに目的もないまま、街はずれに墓を掘っては死体を埋葬し、図書館の蔵書を黙々と整理したり、湖で淡水魚を釣っては調理して日々を生き延びている。
ところがそこに、突然、若い女性が登場し、観客はどうやら世界で最後の女が残っていたらしいと思い直し、二人の共同生活を眺めていく。淡々とした日常ながら、なかなかタッチがよく、さほど退屈しないまま、この後どう展開するのかと興味をつないでいくと、今度はそこに娘の両親と称する中年の男女が訪れてくる。彼らによれば、世界は滅亡したのではなく、まだ多数の生存者がいるというのだ。
この後は、ネタバレになるが、結局、作品の設定はタイトルと同様「滅亡のふりした世界」に過ぎないことがわかり、こうして手の込んだ仕掛けを通じて描いたのは、単なる男と女の出会いだったことに気づかされるのである。
いろいろ手を変え品を変えて、これか…というガッカリ感が大きいが、これだけ日常の描き方が上手い監督なのだから、別の作品なら期待が持てるかもしれない。
人類滅亡後に生き残った男
人類滅亡後に生き残ったひとり
という題材が昔から好き。
それはどんな世界だろうか。どういう風に生きていくのか、とても興味深い。
デルは小人症の男。
以前は人目を気にして、隠れて生きてきた。彼は誰より孤独だった。
いまは誰もいないから孤独ではない。日々のルーティンをこなし、心静かな毎日を愛している。
紛れ込んできたグレースはノイズだった。
⚠️以下、ネタバレ⚠️
だが、徐々に互いに好意をもち、信頼を育んでいく2人。
ある日、グレースの“両親”により、引き裂かれ、
デルは、本当は人を求めていたことに気付く。
実は2人の他にも生き残りがおり、彼らは街を築いていた。ロボトミー手術を施し、不安や恐怖のない世界。
あてがわれた偽物の家族、そして人間性を奪い去ることを嫌い、グレースはそこから逃げ出してきたのであった。
ーという謎解きだが、ロボトミーは失敗していて、思わせぶりに引っ張ってきた謎が矛盾してるオチ⤵️
デルが人を愛することを主軸に置いてるからテーマは成就してるが、締めは雑だったな💧
ドッグ
もし人類が滅亡したら・・・町に一人残された男デル。人の家を整理して、死体を埋葬し、職場である図書館の片付けをする。数十年経てば町そのものが廃墟になってしまい、存在価値さえ無くなってしまうことを恐れたのか、生きた証を残し続けるのだった。
闖入者グレースのおかげで世の中は自分一人じゃないと悟ったデルだったが、美しさで溢れている町を破壊されたくない思いも強い。空き家にある個人の写真を見つめていたときに、思い出を噛みしめているデルの様子が素敵なショットなだけに彼自身のエターニティを証明するものだったろう。
一人増えたところで大丈夫。ましてや相手は異性だ。二人で将来も美しく土に帰ることを想像しながら今を生きる。これもまた彼らの存在証明だ。ところが、さらに大勢生き残っていることを知り、彼らが過去を消し未来だけを見つめていると知ったとき、複雑な思いを感じてしまう。
自分だったら、グレースとともに国内をずっと旅したいと思うし、町にはこだわりたくない。孤独だってみんな大地の子。地球とともに生きるって考えたらどこで骨を埋めようが生きた証になると思うがなぁ・・・ま、未来は考えたくないかも。
エル・ファニング目当て(笑)
このキャストでSFモノはレア
設定がかなり雑な作品
「ゲーム・オブ・スローンズ」でティリオン役を演じたピーター・ディンクレイジが主演。
何故か人類が死滅した世界で生き残った、過去の世界にだけ生きる男と、ロボトミー的な手術?を受け未来しか見ていない女の物語。
この設定は面白い。
過去にだけ生きる男は、トランプを支持する過去のアメリカの栄光にすがるネトウヨ的な共和党支持者のようだし、未来しか見ていない女は、過剰なリベラルを想起させる。
どちらも両極すぎて接点も妥協点もない感じ。
しかし、この作品では、両者は最後歩み寄る。
その先に二人がどうなるかは観た人に委ねられている。
まぁ、良い終わり方かな、と思う。
ロボトミー的な手術の背景や、黒幕っぽい男の倒し方とか、どうも雑な感じが拭えなかったけど。。
結局、過去も未来もどちらも大事、っていう当たり前の結論でしかないわけだが、最後のシーンで未来しか見ていない人たちが街中を歩いているシーンのグロさが良かった。印象に残るシーン。
「俺/私って前しか見てない、過去を振り返らない人間なんだよねー」と自慢げに話す人間の愚かさがよく表現されている。
どちらも大事だが、時間軸を考えると、まずは過去を振り返り、良いところは残し反省すべき点は反省して改善しつつ、未来に向かうしかないのだろう。
日本でもネトウヨは何があっても安倍支持だし、リベラル側はとにかく反安倍で、どちらも論理がない。
何故支持しているか、支持していないかを、双方話し合って妥協点を探る場がないように思う。
この作品のラストのようにお互い歩み寄れるのだろうか?
あるいは、この設定のように人類がほぼ死滅するまで歩み寄れない、という暗喩なのかもしれない。
まさに原題通り、「I think we’re alone now」なんだろうな。
最初は良かったのに面白くなかった。
『孤独なふりした世界で』鑑賞。
*主演*
ピーター・ディンクレイジ
エル・ファニング
*感想*
ピーター・ディンクレイジは、他の映画でちらほら拝見している俳優さん、そしてマレフィセントのエル・ファニングも出演されてるので、鑑賞しました。
最初はめちゃめちゃ雰囲気が良かった。デル(ピーター・ディンクレイジ)以外の人々がいなくて、孤独感があって、謎が謎を呼ぶ雰囲気が漂っていて、とても良かった。そして、一人の少女グレース(エル・ファニング)と出会ったことから、孤独が好きだったデルにもある変化が訪れるというお話。
ん~、、正直面白くなかったです。最初は良かったんだけど、後半からよくわからなかった。個人的にダメでした。(^^;
もっとサスペンス的な展開があるのかな?って思ってたけど、あまり感じられず、台詞がほとんどないので、謎でしたw
キャストは良かったけど、面白くなかったです。すいません!
個独
ピーターディンクレイジをはじめて見たのはU2のAll I Want Is Youのプロモーションビデオだった。1988年である。
月日のあいだに、The Joshua Treeに入っているものと勘違いしていたが、スタジオとライブで構成されたRattle and Humに入っている最後の曲だった。
ダイアモンズリングオブゴールドとか、フロムザクレイドルトゥザグレイブとか、いまでも自然に口ずさむことがある。
そのPVを見たときはもちろんディンクレイジを知らなかった。
モノクロで、短いなかにも、印象的なストーリーがあった。
設定はサーカス団で花形のブランコ乗りに恋する小人を描いている。
おそらく、フェリーニの道のようなシーナリーを狙っていた──と思う。
そのあとディンクレイジを見たのはステーションエージェント(2003)である。スポットライトのトムマッカーシー監督の初期作で、後年躍進するマッカーシー監督の中核的な要素が、じつにたっぷりと詰まっている映画だった。
とはいえ、ステーションエージェントは日本では公開されず、見たのはスポットライト(2015)の前後だったと思う。
そのあたりになると、ディンクレイジはすでにハリウッドおよびアメリカのお茶の間の大スターになっていた。
2016年、ハリウッドではPeak Beard(髭人口過多)が、さかんに言われていた。
指標はジョージクルーニーで、かれが髭面になったら蔓延を意味する。
みんな俳優なので誰もがカッコいい。が、さすがに髭だらけになるとコンペティションの趣になり、誰の髭がカッコいいのか、またはブームに阿て(おもねて)いるだけなのか、下馬評があがってくる。
決まり過ぎているとステイタスになって出演作品中もそのままになる。
ピーターディンクレイジもそれだった。Peak Beardをサバイバルした、ハリウッドで最高に髭の似合う男──と言っていい。
いまやステータスになったわけだが、ステーションエージェントではNo Beard Dinklageだった。
ステーションエージェントを見てからディンクレイジを意識的に探すようになった。
眼窩に宿る寂しげな影。軟骨発育不全のかれは身長が132cm。それが映画のなかでは、何倍も大きく見える。
かれを検索するとパパラッチの撮った近影がゾロゾロ出てくる。
綺麗な細君と並んで乳母車を押しているディンクレイジは最高に和める。
彼はスターであり、その立地を自ら勝ち取った。
が、現実世界において小人は、All I Want Is YouのPVや、ステーションエージェントや、この映画がしめすような待遇を強いられる。
グレースの、世界の終わりに孤独を感じたかの問いに、かれはこう答えるのだ。
「俺が──」
「俺が孤独を感じたのは、この街に1600人の人間がいたときだ。ひどく孤独だったよ」
すなわち生き残った二人は象徴になっている。
かたや、好ましい外形を有し、人々に好かれ、調和のなかでのびのびと生きてきたグレース(エルファニング)。
かたや、疎外され、読書へ逃避するように生きてきたデル(ピーターディンクレイジ)。
二人が絵のなかにいるときでさえ、観る者は、そこに男と女を想像できない。世界にいるのはたった二人なのに、かれらにアダムとイブを想像できない。
なぜ、できないだろう?健康な男女なのに。
ひるがえって、原題「われわれは今、一人でいるんだと思います」とは、世界でたった二人になったグレースとデルが、崩壊していない現実世界の住人である観衆にたいして、そこだって、似たようなもんでしょ、と言っている──に違いない。
わたしたちは、往々にして自分とは形状や肌色や考え方のちがう人間を疎外、排除しながら生きている。何十億もの人が生きているのに、孤独を感じている人は大勢いる。
そんな人間社会のダイバーシティの欠如を風刺し、世界が崩壊してたったひとりになろうと、崩壊せず大勢の人々の狭間で生きていようと「似たようなもんでしょ」と示唆している。それゆえI THINK WE'RE ALONE NOW「われわれは今、ひとりでいるんだと思います」とタイトルしたのだ──と思われた。
映画は、世界崩壊の記憶を外科的治療により抜き去って生きる人々と、受け容れるデルとグレースの対比として描かれている。
世界崩壊へ至った敷衍が、ほとんど全くといっていいほど無いのに、個人的にはそれが気にならなかった。おどろくほど寡ない台詞から、おどろくほど僅かな描写から、アポカリプス後世界と、人間社会がかかえる普遍的な孤独を描いている、と思う。
この映画でいちばん打たれたのは、デルがたったひとりで秩序にもとづいて生きていることだ。
うろ覚えだが、むかしJTのコマーシャルで「だれもいない、だれも見ていない、そこにあるのは美意識だと思う」というコピーがあった。森かどこかで、たばこを吸おうとした男が、獣たちか、草木に気をつかって、吸うのをやめる──という絵だった。
ひとりになったとき、何をするのか。
小人閑居して不善を為すとも言う。
デルは小人ではなかった。
そうかー『侍女の物語』のドラマ版作った人かー。
たのしくはないけど、いい映画
ふしぎだけど2回目のほうがカメラワークとか映像の深みの意味に気づくようになる。
死に絶えた町の家の前にペイントで白く×印が印象的だ。
それと町の風景の静寂。
最初は単にトリッキーな映画なのかな?って思った。
2回目は、いい映画。
3回目は、まだ。
コピー機会で写真をコピーし、コピーした写真をまた機械でコピーする。
これを繰り返す。元の写真は荒い粒子で光の劣化がおき、写真が20世紀の新聞の写真のようになる。
今の映画の印象だ。映画の時代は終わった。
映画が終わったわけじゃない。
ただの他の多数のメディアとおなじになっただけだ。
写真や、小説や、詩や、ロックやジャズ。図書館やトルストイも。20世紀のそれらは、もう時代を動かすチカラはなくなった。
ぼくの幼少の時代は祖父に連れられて日本映画を見に行った。大学のときはTVを見たくてバイトの金でテレビを買った。
今は、インターネット検索とYouTubeとSNSで外の情報を得ている。
情報をすくうフィルターを間違えなければそのほうが現実を正確に把握できる。
ある教師が耳打ちした。
「時代が変わる」と「多くの古い人たちが死ぬ」
「ゴミを拾う度に宇宙の混沌が1つ減る」
初めに観たビジュアルで何か得体の知れぬ違和感を感じていた。主人公らしき男の顔がひげ面で厳ついのになぜか体が歪んでいるような感じというか、写真構図の撓みをしたのだ。ティザーを観ていなかったので、本編で初めてその理由が驚きと共に分り、その驚きを持ち得たこと自体感謝した。というのも余りにも予告を見過ぎると勝手にストーリーを解釈してしまうし、裏切ってくれるならば良いのだが、それ以上もないと残念感は拭いきれない。そういう意味でこの村上龍フィジーの小人的キャラ設定は話を大いに膨らませてくれる。そして、やはりエル・ファニングの上向きの鼻にとにかく魅力を感じてしまう癖が消えないことも付け加えておく。
何で他の住人は死んでしまったのかその理由は明らかにはされないが、一人生き残った小人症の図書館司書?それとも単なる事務員なのか男は黙々と家を回って掃除、死体埋葬、生活用品拝借、そして借りっぱなしの本の回収、そしてポートレートも集めている。その全ては過去を整理し、元に戻すことだけに生き甲斐を感じているからである。「1,600人いたほうが孤独だった」と思うのは自分の容姿に対する自虐性が大いに影響していることであろうから、却って誰も居ないこの世の方が荒んだ気持から解放されることはこれこそSFディストピアとしては逆にユートピアなのかもしれないと、自分でも大いに共感できる世界観である。ストーリーとしては、そんな孤独と責任感の喜びを打ち砕く謎の美女が現れて、初めて現実を目の当たりにすることになる男は、他者との関係性という、過去には煩わしかったものを嫌々ながらも付合うこととなるが、その儘ならぬ共同生活の中で徐々に関係することの別の面を見出し、そこに喜びを感じ始める件はほのぼのとしているが不穏さは感じない。そして女の首裏の手術痕が映像として出てきた辺りから一気に展開がスピードアップしていく。しかしながら実は他に沢山の人間が生きていることを、死んでいると思っていたその女の両親とおぼしき男女が急に現れてから逆に作品は、観ている自分を追い越していってしまう程の解釈不能な世界へ連れて行かれてしまうのである。説明不足は自分の解釈で埋めるしかないのだが、これはかなり難解だ。手術痕はロボトミーであり、ネガティブ感情を取り去る精神外科のオペを施した残存人類は、負の要素の全くない未来だけに感心を向ける動物となってしまう。想い出はそれなりに覚えているのだが、感情は一切湧かないように去勢されてしまっている街から女を救出するというエンディングなのだが、後半は失速感というか、雑さが否めない。女がその親役の男を撃ち殺すクライマックスは、確かに片をつけることが展開としてストレートなのだが、そこに向かうまでのバックボーンが薄いからカタルシスは得にくい。というのも、自分としては或る意味、そういう手術が有って、作品中のように五体満足で動ける程の神経ダメージが微少ならば大いなる願望感を持ってしまうからだ。今作品の未来と過去という逆ベクトルの代表的な立ち位置の役割がいて、その対峙がクライマックスならばもう少し説得力有る伏線が敷かれていないと華麗に回収できないことになるのではないだろうか。メタファー的要素で登場する、サイレントムービーや、小説『コレラの時代の愛』等、もしその内容を把握していたならばもっと深層を探れたかも知れないが、知らないと奥深さが分らないという造りではかなり関心も色褪せてしまうと思う。決して悪い作品ではなく、きっかけというかフリは面白いし、ビジュアルというか両主役のキャラもキャッチーだったので、腑に落ちる落とし処を用意して欲しかったのが正直な感想である。とはいえ、孤独と連帯という哲学的な見地を用いた興味深いテーマ性を入れ込んだアイデアを称賛したい。
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