僕たちは希望という名の列車に乗ったのレビュー・感想・評価
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人の国の悪い所を見て自国の醜態を学べ!
事実基づく実話とあるが、「ハンガリー動乱をどうとらえるか」そこから考えねば駄目である。ナチス・ドイツの残党によるソ連への攪乱作戦と言う見方が当時は、大勢を占めていた。そこが、「ブラハの春」とは大きく違う。
また、1956年は既にヨシフ・スターリンは亡くなっていて、「スターリンシュタット」と言う名称の街も改名を急がれていた。正式には1961年に「アイゼンヒュッテンシュタット」と改名される。従って、「ロシア≒スターリン」と見なければ駄目だ。寧ろ、スターリン派が粛清を受ける時代に突入している。そもそも、この「アイゼンヒュッテンシュタット」という街は「ポーランド」と「東ドイツ」の国境の街である。
まぁ、全体主義国家に対するプロテスタントなイデオロギーを表しているのには賛成するが、画竜点睛を欠く見落としがあっては駄目で、この頃の東西ベルリンがどうであったかとか、そもそも、駅名は『ベルリン』となっていて、どうやって、西側(?)へ亡命出来たのかが知りたいし、その後の家族の現状を示さねば駄目だ。
ここに登場する東側(?)のソ連の傀儡らしき者(大人)たちは全てこの世にはいない。いなくなったのを待って作られたフィクションな話だと思った方が無難だ。と感じる。
ましてや、西側(?)へポルノまがいの映画を覗き見に来るなんて、そんな嘘話はやめるべきだ。上映される映画はホトホトB級映画だし、例え国家が介入していても、ソ連の芸術は質が高かったし、西側(?)だってそれに対抗して良い作品を作っていたはずだ。全体主義国家が強権的で、救われる余地が無いと、日本人が思ってしまうのは、日本国もナチス・ドイツと一緒に戦争に負けて、同じ様に弾圧した歴史があるからだと思う。まぁ、人の国の悪い所を見て自国の醜態を学ぶのは良いとは思う。
静かなる闘い
1956年、ベルリンの壁建設5年前…。
東ドイツの学生が西ドイツの映画館で、ソ連軍の軍事介入でハンガリーの民衆が蜂起を起こし、多数の犠牲者が出たニュースを知り、心を痛める。
級友に呼び掛け、授業中にハンガリー民衆へ2分間の黙祷を捧げる。
が、その行いがソ連影響下の東ドイツでは国家への反逆行為と見なされ、生徒たちは教師や当局に徹底的に問い詰められる。
生徒たちは密告すべきか、沈黙を貫く=友情を取るべきか、究極の決断を迫られる…。
当時の東西ドイツの政治背景絡み、日本人には…。
あるひょんなきっかけが無かったら、スルーしていたかもしれない。
ちょうど公開時だったか、「アンビリバボー」でこの事を取り上げ、非常に感動し、映画も是非見たいと思った。
ひょんなきっかけでこの映画に出会えた事を感謝したい。
彼らはごく普通の若者だ。何の自由も無ければ、これっぽっちの力も権限も無い。
黙祷は心からハンガリー民衆を悼むと共に、国へのほんの些細な反発行為。
国に反発する事はそんなに悪い事なのか…?
平和な国で治安を乱すような犯罪行為ならば問題だ。
が、権力で抑え込む体制国家で信念を持って対する事は悪い事なのか…?
悪い事だったのだ。当時の東ドイツに於いては。
こういう場合、家族が味方になってくれるものだ。
が、労働者階級の家族が多く、体制側に屈する家族がほとんど。
特に質が悪いのは、教師や当局側。
校長や教師たちの執拗な問い詰め。
あの当局大臣なんて、言葉を汚くして言うのならば、クソ!
無力な若者たちの前に大臣自ら現れるという事自体威圧的であるが、その権力を振りかざし、女生徒には今なら即刻辞任&大炎上&大問題間違いナシのセクハラ紛いの圧力。
さらには、一週間以内に首謀者を差し出す事、さもなければ特待クラスのお前たちの進学(=将来)を剥奪する。
これが、権力にへりくだった大人のする事か。
大人は権力を固持し、それを武器とし、無力な若者たちを苦しめる。
いや、それどころか、お前たちは大人の言う事を聞き、お前たちの行為など取るに足らない、愚かで下らないもの。
お前たち若者は、ただ従ってればいいんだ。
今から60年前の出来事。
当時の大人たちはもうほとんど健在してないかもしれないが、この大人たちを問い詰めたいものだ。
アンタたちの行いは、今も誇らしく語れるものか、と。
そういう時代だった、と、はぐらかすな!
恥を知れ!
決断を迫られた若者たちはどんなに苦悩した事だろう。
自分の人生や将来は大事だ。
が、密告し裏切り、自分だけ将来が約束され優遇されれば、一生後味悪く引け目を抱いたまま。
この若者たちの行為を、愚かで自業自得と言う人も居るだろう。
若さ故の軽はずみな、自分たちで蒔いた種。
が、それは決して間違っていなかった!…と、声を高らかに言いたい。
結末は知っていたが、
今、多くの人々を感動させ、映画として語り継がれる。
若者たちの永遠の友情。不屈の静かなる闘い。
東ドイツ的1950年代/ただの18歳でいたかったよね。
第二次世界大戦後とか、東西冷戦時代とかっていう要素を除いたとしても、風味絶佳な青春映画だったとおもいます。わたしこういうの大好き。
で、第二次世界大戦後の東ドイツで、1950年代で、東西冷戦時代で、という時代についての理解というか、ニュアンスを感じられたという意味でも、良い映画でした。
東ドイツには、ヒトラー時代に国内で迫害された共産主義者たちがたくさんいて、彼らはヒトラーを倒して社会主義国を作ったことをとても誇りに思っているように受け取りました。で、冷戦はこれからおそらく激化していくようで、ベルリンにはまだ壁がない。ので、ベルリンに行って西側に紛れるということが庶民レベルではまだできたということなんですね。
4人の男の子と1人の女の子がメインキャラクターですね。特に市議会議員かなんかの息子のクルトと、炭鉱労働者の息子テオが中心です。
最初っから黙とうに懐疑的だったエリックの物語が切なかったです。
戦死した共産主義者の父親を崇拝していて、母と義理父(牧師か神父か)を目の敵にちょっとしていて、共産主義を父に倣って崇拝していて。
真面目だからうまく嘘をつけなくって、最初にぼろを出してしまって大人に一番に目を付けられる。そして揺さぶられてちょっとげろってしまったりして同級生からは裏切り者扱いされる。でもこれ以上は、と思って頑張ってたら、党の調査担当者に父親のことで揺さぶりをかけられてしまう。
父は共産主義者だったからユダヤ人同様に強制収容されていたけれども、強制収容所から出るために資本主義者に寝返った。そして戦後?そのことが同胞にばれて処刑されていたってことを知らされる。
エリックは一切母からそんなことを聞いていなくって、動揺しまくってしまって射撃場で教官を撃って、銃を持って教会へと襲撃してしまう。
エリックの件を受けて、党はエリックを犯人にして事態を収束させようとするが、首謀者であるクルトはそれを拒否。
自分が首謀者だと告白します。
テオのみならず、他のクラスメイトの多数も自分が首謀者だと言い張り、クラスは閉鎖される。
で、数名を除いてクラスのほとんどが、ベルリンを通じて西側へ逃げるという結末へ向かうのです。
信じていることが信じられなくなって、受け止められない。
ティーンエイジャーのあるあるなのにね。
それを安全地帯でできなかった彼らが、悲しい。
一方で抑圧された世界の中でもティーンエイジャーは、身勝手でキラキラしていて眩しい。
そのコントラストが非常に良い良い味で、堪能しました…
珍しくパンフレットも買っちゃいましたしね。
「言い逃れをする人は嫌いなの」
この内容のどこまでが史実に則っているのかは分らない。監督の発言でも、事実とサスペンス要素とのバランスに気を遣ったということなので、あくまでもエンタメとしての出来を重視した結果だと思うし、それがかなり高レベルで実現されている作りだと感じる。きちんと伏線は回収されているし、なによりも若い俳優達の力量の高さを窺える。但し、独語が分らない(※第二外国語専攻は独語なのに…苦笑)ので、どこまで台詞回しが出来ているのか、棒読みなのかは不明。
悪ふざけが社会主義国内での厳格さ故、融通が利かない、否、それを利用して成り上がろうとする大人に利用される子供達の波瀾万丈話という筋書きである。イデオロギーなんてものは、結局人それぞれの資質の問題に集約していくのであって、本来ならば人間は原始的なアナーキズムが一番ストレスフルなのは明白だ。それを示唆する台詞がラスト前の「自分で決めろ」という台詞である。そういう意味では、登場人物のアナーキストの大叔父の立ち位置が目指すべき、在るべき姿なのかもしれない。まぁ、あんな風に自由に生きられるのも、結局“地獄の沙汰も金次第”ってことなんだろうか(苦笑
ストーリーに戻すが、登場人物達のそれぞれがしっかりとバックボーンを帯びていて、それが原因と結果を表現しているし、物語の関連性をまるでパズルのピースのように繫ぎ合せている緻密さに感心する。脚色が非常に高度なのが誰が観ても明らかだ。表題を例に出しても、男を裏切った女はそれなりにその理由が納得出来る作りなのだ。それぞれにそれぞれの意志とそこに至るまでの原因が納得出来るから、しっかり考えさせられる。まるでモグラ叩きみたいにそれぞれの正義を理解できてしまい、一体この騒動の元凶がなんなのかが揺らいでしまう、そんな良く練られた演出に驚愕である。特に、告げ口をする教師と郡学務女性局員の二人の立ち回りは、“シュタージ”を彷彿させる、いやもしかしたらそのものなのかもしれない怖さを充分知らしめてくれた。保身のため、出世のためならば、周りを奈落に貶めても遂行する、人間の弱さを突きつけられた激辛の作品である。主人公の父親である市会議員が、心替えして、最後に息子を助ける件は、もう少し丁寧に表現して欲しかったと、少しばかりの残念な部分を付け足しておく。
自由という名の駅を目指して。
冒頭、テオの脳タリンチャラ男感に、正直、不安になり。こんなノリなんか?若気の至りの話???じゃ終わらなかった。良かった。とっても!
社会主義の管理抑圧からの解放の欲求。家族からの想いと家族への想いが交錯するクラス。ドラマが重いです。
平等だから「同士」と呼ぶルール。明白に上下関係有りますけどね。マヤカシの革命。
「反革命分子」。イヤイヤ、単なる反体制です。革命前より息苦しく、生き難く、言い難い革命政府へのレジスタンス。
希望ってなんなんだろう。
よしんば、あのまま高校大学を卒業したとしても。彼等の最大の政治的な不満はソ連の支配下にある事。自由の無い社会主義体制。その体制のヒエラルキーの上位に地位を求めるのが、希望なのか。ハンガリーへの共感者が半数を超えていた事は、当時の東ドイツの内情を映したものなのだと思う。
労働階級に甘んじず。だが上位に上がるためには体制には逆らえない。この位は大丈夫だろうと言う甘さが見逃されない程に、体制側も神経を尖らせてたのだ。「壁」が完成するのは、それから5年後のこと。この時代、テオ達は何を考え、どう生きたのだろう。
自由からの孤立。希望からの隔絶。それが「ベルリンの壁」。
二つの家族。二人の父親と、二人の母親が、同じ様に子供を送り出すのが印象的。ここには希望が無いから。無くなってしまったから。子を思う気持ちから。だけじゃ無い。
俺の様になるな。はテオの父の想い。だから高校を卒業して大学へ進め。
俺の様に生きろ。クルトの父。
二人の父親の下した結論は、同じだった。
隅から隅まで、些細な小ネタまで、胸に刺さるもんで。列車の中の景色が好き。遠足にでも行く様にクラスメイトが集まっていて。一人では下せなかったであろう選択、行動。やっぱり、仲間なんだ!一緒だから踏み出せるんだ!
本当に良かった。
われわれも「希望」という名の列車に乗りたい
東西冷戦下の1956年の東ドイツ。
ソ連の影響下にあった東ドイツであったが、ベルリンの壁はまだ建設されておらず、西ベルリンにも市電で行くことが可能だった。
そんななか、東ドイツのエリート高校に通うテオ(レオナルド・シャイヒャー)とクルト(トム・グラメンツ)は西ベルリンの映画館でハンガリー民衆蜂起のニュース映像を観、市民たちに多数の犠牲者が出たことに衝撃を受ける。
翌日、犠牲者たちへの哀悼の意を込めて、授業開始の前にクラス全員で2分間の黙とうをささげたところ、この行為が国家に対する反逆だと目されてしまう・・・
といったところから始まる物語で、『沈黙する教室』(映画の原題「DAS SCHWEIGENDE KLASSENZIMMER」に同じ)という自伝・実記の映画化。
映画の中心となる少年たちは主に4人。
ひとり目の、黙とうを言い出す少年は、市議会議長の息子で、いわばエリートの中でもエリート。
ふたり目、彼の友人の少年の父は労働者階級で、一族で初めて大学に進学する者が出るのではないかと期待を寄せている。
三人目は、労働者階級の少年の彼女。男性ふたりの間で、心を揺らしていく。
四人目、先の三人と距離を置いている少年。彼の父親は社会主義に順じて戦死したことを誇りにしており、彼も社会主義に殉じるのが当然と信奉している。
人物配置のバランスがよく、特に、徐々に映画中心が、言いだしっぺのリーダー的少年ではなく、彼の友人に移っていくあたり、映画話術として抜群に上手く、映画に深みを与えている。
また、四人目の少年も、ただ単に社会主義信奉という役割だけでなく、センシティブなストーリーもあり、胸狂おしくなります。
黙とうという些細な行為が、徐々に国家への反逆と捉えられ、事態が扇情的になっていくあたりは、社会主義国家のコワサであるが、社会主義国家特有のものでもないので、日本タイトルの「希望という名の列車」というのは安直な感じがしました。
ですが、われわれも「希望」という名の列車に乗りたい、とも思いました。
10代の青年たちに課せられた重すぎる決断
壁が建設される前の東ドイツ、1956年が舞台。ベルリンの壁は1961年に建設されたというから、そのたった五年前の出来事です。
西ドイツに逃れた彼らが、壁が建設された時にどのような思いで受け止めたのだろうか。多くの人が仰るように、彼らの“その後の人生”が知りたくなります。
ナチ党への嫌悪感。同じ社会主義国であり東西分裂の主要因であるソ連への懐疑の目。抑圧や圧政への不満。
学生らの言動からは、社会主義への根本的な背信ではなく、あくまでそれを利用して圧政をもくろむソ連、または追従する政府への不満がくみ取れた。その辺のセンシティブな感覚というのは、母国の人間ではないとなかなかわからない。
他国の者には窺い知れない、敗戦後の東ドイツの空気感、その一端を垣間見ることができました。
当局による、仲間同士で密告させるという極めて卑怯な手段に屈服するか否か。首謀者を生け贄にすれば母国も将来も捨てなくて済む。
しかし実際に黙祷はテオとクルトが発案したのだから、それに巻き込まれたくはないという生徒がいても致し方なく、最後まで二人に賛同しなかった生徒も描写されていたことに、好感を覚えました。
ヒロイズムに徹し涙を誘うなら、クライマックスでクラス全員が立ち上がる描写をしてもいいはずですが、そう描かなかったことで、より真実味と重さを感じさせます。
「連帯責任」という不条理さを強いるいかにも社会主義らしい当局の姿と、西に逃げるのはあくまで個人の判断で、という学生たちの姿が対照的でした。
映画紹介文では「2分間の黙祷で」と書いてあったため、学生たちが黙祷を高らかに宣言して行ったのかと思ったらそうではなく、黙祷といえるのかもわからない代物でした。しかしこの「ちょっとした冒険」的な行為を行っただけで政府の人間が動く事態になってしまう恐ろしさ。
自由に発言できる権利と、それを享受できる社会が当たり前に出来上がったのではないということを、まざまざと思い知らされます。
学校の道徳や社会の授業でこの映画を是非見せて欲しいと思った。ここで語られることは教科書よりも雄弁。
余談ですが、彼らが心配していた「卒業テスト」は、西ドイツでも簡単に受けられるのでしょうか。戸籍謄本の管理や住民票の取得など東西関わらずできるものだったのか、そういったことにも興味が湧いてきました。
希望の光が見えるならどこまででも
ハンガリーでの反乱に果てた数多くの人々に捧げた120秒の沈黙、その理不尽な代償。
伴う人間の深さや変化と面白さに重しを置いてドラマチックに描いてくれる作品。
50年代のドイツのファッションが目の保養。黄色のベレー帽欲しい。
愕然。あまりにも強烈。
第二次世界大戦の後、ベルリンの壁建設の前。
微妙で不安定なこの時代だからこその極端な押さえつけが明確に表現される。
しかしそれを完全に否定する強い主張よりも、多方向的な視点を感じる。
ナチスの独裁を経て、ファシズムの芽になりそうなものを種から排除しなければならなかった機関の思惑も伝わってくる。
正しいかどうかは置いておいて。
18歳の若い学生たちの青春模様がベースになっているのがまず何よりも愛しい。
レナとテオとクルト、恋の方向の変化がもたらす微妙な距離にぞわぞわする。
私もテオが糊でくっつけた四葉のクローバー欲しい。嘘も方便よね。
西ベルリンへ出向きちょっとスケベな映画を観てはしゃぐテオ&クルトの親友コンビに冒頭からじんわりと胸が暖かくなる。
ジャングルで裸、トップレスなのか…ほおほお。
ソ連兵へのささやかでスリリングな反抗はこの後の大きな出来事を示唆しているようだった。
映画館で知ったハンガリーの情勢、その悼みを増長させたRIASの放送。
エドガーおじさんの「RIASを聴きたいだと?(難しい顔)」からの「ならこの家で聴くしかないな(ニヤリ)」のユーモアがとても好き。
あの時のエドガーはどういう心境で家に入れたんだろう。
RIASを聴いたことがバレれば生徒たちが危ない、聴かせたことがバレれば自分の身が危ない。
そんなこと重々承知の上で、若者たちの知的好奇心や自由な考えを尊重したんじゃないかな。
きっと今までもその柔らかい思考で生きてきたんだろう。逮捕されたそのあとが気になる。どうか少しでも穏やかに。
生徒たちの2分間の黙祷は、実はそこまで真剣なものではなかったと思う。
本当に単なる思い付き。単に共感して(しなくても)乗っただけ。
人々を想うクルトの気持ちが本物だとしても。
沈黙の最中にニヤニヤしてしまうテオの様子から伝わってくる。
この形だけの黙祷に、重い反骨や抗議を持っていた人がこのクラスにいただろうか。
ただ隣国の同志を悼んだだけ、ただタイミングが授業の始まりだっただけ、ただ先生が神経質だっただけ。
些細な言動に目を付けられ、本人の思惑とは裏腹に受け取られてしまい、大の大人がキレまくり弾圧を振ってくる恐怖がとても大きい。
反応がどんどんエスカレートして大事に発展してしまう様子、ケスラーによる幾度もの取り調べがリアルに怖かった。
人間関係をかき回し、誰もが持つ弱いところを執拗につつき精神的に追い詰める尋問、本当に勘弁してほしい。
サスペンスフルで緊張感溢れる展開が波のように畳みかけてくる。
逃げ場を失っていくクラスメイト達に胸が痛んで仕方なかった。
無茶苦茶な精神攻撃の果てに爆発したエリック。
今まで信じ積み上げてきた実の父のあまりにも無残な真相。そりゃあ気も狂うわ。
母と再婚相手に向けた叫びや、教官に向けた銃先の悲壮感。
彼の救われなさをどうにかして補充したい。
貫き通したクルト、正義と方便の間で奮闘していたテオ、その選択と家族のやり取りにどうしようもなく揺さぶられた。
逃げ道を与えて強く抱きしめてくれるクルトの母親に涙し、市議で頭が固かった父親の駅での言動がたまらない。
家族を取るか、自分の未来を取るかの選択を強いられるテオと、彼の決断を静かに受け入れる家族も。
「夕飯までには帰ってきなさい」「またあとで」
もしかしたら一生の別れになるかもしれないと分かっていながら発したこれらの言葉が強く刺さってくる。
首謀者を特定する、嫌な目的にただでは従わなかったクラスメイト達。
連続する「私も提案しました」の発言、次々と立ち上がる彼ら彼女らに脳天ぶち抜かれた。
列車に集まった彼らの表情が明るくて本当に良かった。
照らす光が希望の色に染まっていて本当に良かった。
敢えて注目したいのが、最後のクラス尋問の時に立ち上がれなかった人と、列車に乗らない選択をした4人。
この映画のタイトルになっている「僕たち」の中には、彼らのことも当然含まれていると私は信じている。
行動をした人だけが救われるような表現では意味がないから、教室の前のほうに座っていた女子が俯いたままだった描写もさりげなく入れたんじゃないかと思う。
分かりやすい勇気だけが正義じゃないでしょう、たぶん。
自ら新しい道に進んだ人も、留まって今見える道に進んだ人も、きっとこの映画は何も否定していない。
西で卒業試験を受けなかった人たちはどのように生きたんだろう。
後悔ももちろん抱えていただろうし、でも少しでも清々しさのような気持ちを持ってくれていたら、と思う。
逮捕者も傷付いた人も出た。
綺麗な物語だけには収められない。
この出来事を完全に良きこととするのも、負の意識を持たずにいるのも難しい。
それでもどうか、時の流れとそれぞれの人生が痛みを和らげてくれていますようにと、あの時あの決断をして良かったと皆に思って欲しいと、傍観者の勝手ながら願わずにはいられない。
多数決ではなく一人一人自分で決めた大きなターニングポイントを蔑ろにして欲しくない。
40年後に行われた同窓会で何を話したんだろう。原作を読まなければ。
目に焼き付くシーンがとても多い。
何度驚きに身をびくつかせたことか。
何度号泣したことか。
友情や恋愛や家族の細かく時に重い想いが交差するタッチがとても好き。
本筋の緊張を保ちながら常に人間に寄り添ってくれる目線が心地良い。
現在の自分を取り巻く環境の自由さを思い知った。
まごうことなき傑作。
籠の中
実際にあった話のようだ。
圧政下の東ドイツで、社会との摩擦に葛藤する若者たちが描かれる。
壁が建つ前の話で、このような状況の中力技で東西を分けたのだと推測される。
社会主義の内容を具体的には分からないのだけれど、本作の内容を自由への渇望とするのは短絡的かと考える。
彼等は若いなりに、社会や思想と葛藤し、血縁や友との別離を受け止め、痛みと共に故郷を捨てた。その後、壁が築かれ行き来がほぼ不可能になる。
望郷の想いもあるだろうし、後悔の念も抱いたとは思われる。決して希望などというあやふやなものに突き動かされた訳ではないのだ。
作品的には展開がとても滑らかで見やすい。
彼等を追っていけば、普通の若者である事も、彼等を取り囲む世界も、その世界の不自由さも良く分かる。
成長途中の若さと、ガチガチに固まった社会との対比がよく描かれていた。
社会集団の排他的不寛容さ
色々考えさせられる良くできた映画で、見て良かったと思っているが、本当に辛い内容だった。
若者らしい爽やかで向こう見ずな冒険心、欲望、恋心が冒頭で描かれるだけに、その後の、転げる落ちるように追い詰められていく焦燥感がやるせなく、どうしてこんな、と、ずっと身を竦める思いだった。
苦しいのは、当たり前かもしれないが、全ての人物が自らの主張や想いを持って生きており、善も悪も混濁して容易に仕分けられない事だ。
個人と個人の主義のぶつかり合いでもままならずしんどいのに、国家という巨大な固まりによる衝突、圧力、排他の凄まじさ、恐ろしさ、止めようのなさたるや。
エドガーが言う。「資本主義、社会主義、王政、人は何かを信じなければならない」
皆、これが最善の幸福への道だと信じて主張し、けれど時に、本当にそうだろうか?と疑いながら生きている。
第二次世界大戦後、ファシズムと社会主義の間で大きく振り動かされ、価値観の反転を求められた東ドイツ。日本の戦後にも通じる所はあるだろう。
西も東も自らの正統性を主張し、報道は互いに都合のいい事実しか伝えない。
激動の時代にもみくちゃにされ、我が身の信念も不確かな社会。
権力者は、彼らの信じる【罪】を暴くため、家族や未来を質に、心を殺すか、肉体を殺すかの選択を迫る。
恋に、裏切りに、疑念に、不安に揺れ動き、何を信じ、何を誇り、何を選べばいいのか、若者達の放り込まれた深い深い暗闇。
大臣のファシズムへの憎しみ、誇りを打ち砕かれたエリックの純粋な怒りと友を裏切った後悔、クルトの正義感と罪悪感、レナの不安と失望、テオの家族愛と惜別、友情を守ったクラスメイトの誇りと反発心、立ち上がれず席に身を沈めたままの生徒の迷いや恐怖、動乱の時代に抱えた親達の後悔、子供の未来を想い密告を示唆し、虚偽の証言を強要し、最後には祈る想いで旅立ちを見送る彼らの心情。
次から次へと色々な感情がぐちゃぐちゃと押し寄せてきて、どれも切り捨てられず、後半ずっと涙しながら見ていた。
最後に示された史実に、少しだけ救われた気にはなったが、感動とか希望とはまた違う、まだ暗闇に取り残されているような不安。
彼らは英雄になったのか?いや、自分のちっぽけで大きな誇りを守り、その代償を背負い日常を失い、後悔と達成感の間に揺れ、「これからどうする?」と不安に震える、子供でも大人でもないただの人間の群れだ。
「自分で決めるんだ」
欺瞞も嘘も幻も溢れるこの現実で、愛、誇り、家族、日常…、次はあなたが、何を選びどう向き合うのか?
踏み絵のように突きつけられている気がして、まだ重苦しさが消えない。
自由ってを考えてしまう。
1956年の話だ!
まだドイツに壁があった頃
ハンガリーの暴動の若者の死者のために
黙祷が
こんな事件になるなんて!
権力は怖い!
本来自由なはずが
教育委員会は、あの手この手で
犯人捜しをする!
吐きそうにぬる。
欲望という名の電車という
題名を頭によぎる。
見応えある作品でした!
東西冷戦下の『いまを生きる』
日本人でも、最後の晩餐やユダの裏切りについては、宗教的解釈や文学的解釈の専門的理解はさておき、多くの人がそれなりに知っていると思います。少なくともレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を通じて、遠近法とかの言葉と一緒にイエスに向かって左側にいる黒髪黒髭ののけぞっている男について見聞きしたことのある人は一定数いるはずです。
なので、欧米社会に育ち、一定頻度で教会に足を運んだことのある人たちにとっては殆ど一般教養として刷り込まれており『裏切り』という行為をいつかどこかで、他の誰でもない自分がしでかしてしまうのではないか?自分がユダになってしまうのではないか?という恐怖心を、程度の差はあるにしても潜在的に抱えているのではないでしょうか。
裏切る対象は状況によって、国家、帰属する集団、家族、友達、場合によっては信念や理想のように抽象的なものまで様々であるが、それらが複数重なった状況の18歳にとってどれほどの苦悩か想像もつかない。しかも絶対的強権を保持する側の狡猾さは亡くなった親の行状まで持ち出して、裏切り者の血は争えないな、という催眠術的な脅しまで使ってくる。
権力側がどれだけ人権を踏みにじるか、どこまで冷酷になれるか、弱者の側の人間が高潔に振る舞おうとする時、どれほどの覚悟と犠牲が伴うか。
よくあるテーマかもしれませんが、実話ベースであることと若い役者さん達の迫真の表現で、私にとっては今年有数のとても満足度の高い作品でした。
※ロビン・ウィリアムスの『いまを生きる』を彷彿とさせるシーンがあり、思わず泣いてしまいました。
久々に嗚咽が出そうに…
1956年の東ドイツで、高校の進学クラスの生徒達が起こした実話。期待を越えて、良い映画だった。
体制に疑問を持ち自分達の信念を貫くこと、妥協、労働者クラスから初めて大学に進学する息子への親の期待、家族への愛情、友情、親友との三角関係、戦争から社会を立て直すことの困難さ…、色んなメッセージが詰まっている。特に、父親の真実を知り絶望するエリックと彼を追うクルトやテオに涙。無名の俳優ばかりだが、キャスティングも絶妙だと思った。
彼ら個人が導きだしたこれからの結果を知って
十分見応えのある作品だった。知らなかったこと判らなかったことも多かった。映画の題名に、興味を持ち作品を観た。しかし、この映画をもっと深く観るためには世界地図(特に、ハンガリー、ドイツ、旧ソ連)を頭に思い描いて観賞したほうが、これ以上の感動が得られたと一寸後悔した。「ハンガリー動乱」は、世界史でチラッと聞いただけ。この作品設定は、東ドイツの大学進学用の上級クラスが、ハンガリーの民衆蜂起の悲惨な結果の純真無垢な2分間の黙祷しか思えないが、社会主義下にある東ドイツとしてみれば禁じられた行為である。国境意識のない自分としては、いまいち重大なことと思えない。クラスの生徒が黙祷の理由が全員一致で収まると思ったが、エリックに突きつけられる赤色(せきしょく)戦線時の父親の最期の写真を見せられた後の、彼の動揺と予期せぬ行為は、グッと惹きつけられる。が、赤色戦線って何?と、つい思ってしまう。生徒一人々々が問われる、嘘をつきとおすか、それとも西側へ亡命するかの選択を迫られる。なぜか、青春ドラマのように見えても、事態は、これからの人生をかけるほど深刻。この映画の邦題にある「希望」という言葉は、家族を東に残した彼らにとっては正解であったか。原題でも良いと思ったが、「REVOLUTION」の使用は、和訳だと少し激しいような。今の邦題名に、自分は興味をもったので納得した。
随分長いタイトルだなと思ったら
タイトル自体がネタばれじゃないか(笑)
ベルリンの壁はまだないころの話だけど、西と東の境界には明確な空気の違いが感じられますね、いい映画だと思います。
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