「自分がスクリーンの中にいるような、かつてない「没入感」」象は静かに座っている Imperatorさんの映画レビュー(感想・評価)
自分がスクリーンの中にいるような、かつてない「没入感」
始まって2時間くらいまでは、
・ストーリーがどこに向かおうとしているのか、全くつかめない
・誰が主人公で、どういうキャラクターなのか、なかなか見えてこない
・画面が暗くて、息詰まる感じがある
という特徴があって、観るのが難しい映画であった。
そのわりに“長回し”が多用されて、なかなか話が進まないので、ストレスが溜まる。自分は途中で、10分くらい寝てしまった。
ただ、後半になると話がつかめてくるので、全部で4時間といっても、特に長いとは感じられなかった。
また、“長回し”といっても、常にまとまった意味をもつシーケンスを映し取っているので、「サタンタンゴ」よりは、ずっと楽に見ることができた。延々とダンスを見させられるようなことはない(笑)。
フー・ボー監督は、タル・ベーラ監督のワークショップに参加するほどで、1シーン1カットの“長回し”という特徴は受け継いでいる。
ただし、タル・ベーラのような、輪郭やコントラストが“くっきり”した白黒作品ではない。
カラーだが色の彩度は低く、少しぼやっとして暗いが、これが求めていた“色彩”だったらしい。そのため、早朝や夕方の撮影を繰り返す。
また、カメラの“焦点深度”が極端に浅く、特定の被写体にしかピントを合わせないのも、他で見ないようなフー・ボー独自の手法だ。
“長回し”については、“成功”している部分と、“無駄に長い”部分の両方があると思った。
例えば、「モンキー・パーク」や、ラスト近くの駅を見下ろす場所での“長回し”は、素晴らしかった。
映画を見ていて、これほど“自分がスクリーンの中にいる”ような「没入感」を感じた経験は、自分には今まで無かった。
しかし一方で、総じて室内や建物内での“長回し”には意味が感じられず、時間を贅沢に使っているだけの無駄と感じられた。
坂本龍一は、「無駄なショットがあった記憶はない」とコメントしているが(公式サイト)、自分は同意できない。
ちなみに、「とりあえず瀋陽まで行って、そこから満州里へ」というシーンが出てくるが、満州里市とは中ロ国境の内モンゴル自治区だ。
観ている時は理解していなかったが、つまり、ロケ地の石家庄市あたりから、“東北部の地の果て”に行くというイメージだったのだ。
この点だけは、あらかじめ知っておいた方が良かったと思う。
終映後のトークによれば、短編小説が原作のようで、登場人物はヤクザのチェンのみらしい。その他の人物は、この映画で新たに描き出したのだ。
また、本作品には、お互いを傷つけ合って生きている、現代中国の“生きづらさ”が表現されているという。
確かに、これでもかというくらい、暴力や口論のシーンが描かれる。笑顔など、見た記憶が無い。
全編にわたって、常に小さい争いや不平不満で埋め尽くされており、非現実的で、“異常なもの”を追い求めた映画と言えるだろう。
監督の自死によって、プロデューサーが強制した2時間版ではなく、この4時間版の上映が可能となったらしい。
この色彩、この「没入感」は、映画館で味わいたい。