「バイト探しは、インディード。居場所探しは、インディー風呂。」メランコリック ソビエト蓮舫さんの映画レビュー(感想・評価)
バイト探しは、インディード。居場所探しは、インディー風呂。
まずこの物語は「掴み」のエピソードが早いし、とてもいい内容だ。
主人公が新しいバイト先の風呂屋の浴場で「殺し」が行われているのを、目撃するアクシデントに見舞われる。
当然主人公は驚くし、見てはいけないものを見た恐怖も抱くが、
店主から口封じの意味も込めて、殺人現場の掃除という仕事を授かる。
面白いのは、そこで主人公がそれを嫌がるのではなく「特別なミッション」と捉え、喜び歓迎するのだ。ここでまず心を鷲掴みにされる。
これが最初の掴み。
人間は、自分の行動から、喜びや幸福を感じる時が2通りあって、
1つ目は自分がこうしたい、こうなりたいという「自己実現の成就」が果たされた時。
2つ目は、自分の行いにより、他人が喜ぶ姿をみる「自己有用感や自尊心の向上」が果たされた時。
主人公は「東大卒」なのに、自己実現したいコトや物理的に欲しいモノが何もない、
「目的のない人」なのだけれど、
他人から必要とされたいという「求められる」欲は持っている。
自己肯定感が今までの生活や仕事から、少し狂わされている状態で、
自己有用感や自尊心を満たしたい気持ちは、人一倍切望しているのだ。
これはとてもよくわかる。身に沁みてわかる。共感しかない。
そもそも、主人公が清掃バイトから風呂屋のバイトに転職したきっかけも、
気になる同級生の女の子に、風呂屋の仕事を「勧められたから」。
他者に求められたから転職したのだ。
つまり彼は、そもそも自尊心がズタズタでボロボロの状態だった事に気づく。
それまでの仕事にも、実家暮らしの家庭にも、彼は「居場所」が無かったのだろう。
この居場所というキーワードは、その後に出てくる、松本という同僚(兼相方)にも関係してくる。
松本は「まともな仕事に就く」という、自己実現の為に風呂屋に流れ着くのだけれど、
結局周りに求められ「風呂屋の姿をした殺し屋」という、職場での配置転換を、
殺し屋経験者というだけで、あっさり受け入れてしまう。
彼もまた、居場所が無かったのだろう。
居場所に飢えている人間は、必ずいるし、しかも、かなりの数いる。
転職というのは居場所探しみたいなもので、
就職や転職による新人という肩書きは、何が辛いって、居心地の悪さが辛い。
一人前に仕事ができないから居心地が悪い。
逆に仕事を変えようかと思う動機も、仕事がキツイ、やりたくないという感情は、
居心地の悪さであり、居場所がフィットしていないからだ。
家庭でも同様、無職やバイトという身分で実家暮らしする、うしろめたさの大半は、
居心地の悪さであり、居場所がしっくりしていないことだ。
よく言う「自分探し」とか「自分とは何者か」とか「自分はなぜ生きているのか」という命題は、
端的に言い換えれば、居場所探しになる。
2010年代に、自分が好んでよく観ていた「ニコニコ生放送」という配信サイトは、
「居場所探し」をしている配信者が大勢いた。
配信者だけでなく、視聴者も居場所が無い人達で溢れていた。
配信者にしてみれば、視聴者の数は居場所の正当性を担保していたし、視聴者はコメントを打ち読まれる事で、居場所を確保されていたのだ。
自己顕示欲を満たすという言い方をすると、エゴが強く聞こえてしまうが、
居場所を探すという言い方ならば、それは多少和らぐ。
本筋の話とは別の、学歴にまつわるストーリーもあった。
学歴の高い主人公が、学歴の低い同僚に特別なミッションを薄められ、
嫉妬する人間臭さや、気になる女性に、学歴に見合った生き方をしていない事を悟られないように取り繕うのも、
自分には刺さる話ではあったが、結局は居場所の話に吸収されていた。
この映画は、最初から最後まで、居場所探しのストーリーだった。
家族の温かみや裏社会の残酷さや、切ない恋愛物語などもあるが、
最終的には居場所のお話だった。
お風呂で体の回復、自尊心の回復、何より心が温まる。
バイト探しは、インディード。
居場所探しは、インディー風呂。