女王陛下のお気に入りのレビュー・感想・評価
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「お気に入り」になっても支配からは逃れられない。
◯作品全体
女王が住まう宮廷そのものが「支配」の象徴で、そこで描かれる支配する/されるの構図は当然のように感じてしまう。多少歪なものであっても飲み込めてしまうのが面白くもあり、恐ろしくもある作品だった。
しかし全体を覆うのは「後味の悪さ」だ。没落貴族のアビゲイルのなりふり構わぬ成り上がり物語として見ていても、ラストシーンが絶望に叩き落とす。
アビゲイルは自身の立場の危うさを常に抱いている。父親に身売りされ、泥にまみれて宮廷にやってきた生い立ちもあって、望むものは「安全」。「安全」のためにサラを追い出し、貴族と結婚したものの、「安全」を守るために女王の妾にならなければならない。頭を掴まれながら足を擦る姿は、男のものを咥えてる姿と瓜二つで、やっていることは違えど精神的な意味合いは何一つ変わらない。これは父親に身売りされ醜いドイツ人のもとに居たときとまったくもって同じだと思うし、状況はなにも変わらないまま物語の幕が閉じる。
出世と保身を望む者の願いは叶えど満足はせず、それに翻弄される女王とサラは引き離され、空虚な時間を過ごす。優雅な舞台で下品な策謀渦巻くストーリーは確かに面白いのだが、行きつく先は心地よさとは程遠く、逃れられない「支配」の渦中で過ごす終わり方で、「後味の悪さ」という印象が一番強く残った。
◯カメラワークとか
・アン女王が強い癇癪をおこすとき(サラのダンスを見て激怒するところや中庭での子どもたちの演奏を聴いているとき)の長回しが印象的。癇癪って突発的なものとして映されるけれど、爆発するに至るまでの心の葛藤が見えれば見えるほど印象に残る。嵐の前の静けさ、とでも言うべきか。表情をほとんど変えないアン女王の心に込み上げてくる感情をカットを割らずに映していた。
・ローポジのカメラや広角のカットがあった。どちらも人物同士の距離感や建物が歪んで見える。アビゲイルの寝室に男性が近づいたときに使われていたのが印象的だった。アビゲイルにとって、男性は自分を無にさせるような存在でしかないんだろう。普通の男女の仲になることを完全に遮断しているような演出に見えた。
・アビゲイルが父親に身売りされたことを初めて話すシーンは、アビゲイルをぼかしていた。いまそこにいるアビゲイルではなく、過去の影の部分にクローズアップするシーンだからだろうか。「安全」に執着するアビゲイルを縁取るぼやけた輪郭線。
◯その他
・自身の野望に対して、多少自分が歪んでしまっても執着する作品って結構ある。撮り方によって悲劇にもできるし、喜劇にもできる。本作は前者だろう。後者としてフッと浮かんでくるのは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』。後者のほうが主人公に対して肯定的な目線を送れるのはなんでだろう。悲劇と喜劇の差なのか、男性と女性だからか。
一番の違いは人物の映し方、切り取り方かもしれない。アビゲイルは自身で「安全」を勝ち取ったが、そこに幸福を与えない映し方、切り取り方をしてる。アビゲイルの行いを「過ち」としか映していないのが、どうやっても幸せになれないように感じて、なんだか可哀想だ。
薄っぺらい人間たちの深き情念。
ヨルゴス・ランティモスという監督は、一貫して人間は愚かで自己愛が強く下卑た生き物たと捉えているところがある。もちろん人間は愚かなことをしでかす一方で、思わぬ英雄的な行為に身を投じることもあるのだが、ランティモスはそんなことは素知らぬ体で、本作でも身勝手な欲得三昧な女たちの姿を時代物の宮廷劇というジャンルに当てはめる。
なので後味がいい物語にはなりようがなく、なりふり構わぬ女たちの権力闘争に、呆れたり笑ったり戦慄していればいいのだろう。魚眼レンズの長回しやとにかく読みづらいテロップのデザインなど、ちょっと才気が走り過ぎてはいないかと思うところもあるが、実際才気がほとばしっているのだから、存分に好き放題にやってくれ!という気持ちにもなる。
ただしレイチェル・ワイズが演じたサラにだけは、善人ではないが誇りと信念が宿っている。このランティモスらしからぬ人物像は、次なる可能性への布石なのかどうか。このヘンテコな才人からまだまだ目が離せそうにない。
バラバラに見える表情を一つの体内に納めたコールマンの怪演はまさに絶品
アン女王は、スペイン継承戦争や国内政治に頭を悩ませ、私生活では子供たちが幼くして亡くなる不幸も経験した。このような精神状態の中、頼りになる側近との絆が深まるのは当然のことだったろう。
コールマン演じる女王はコロコロと表情が変わる。ある時は高慢なオバちゃんのようであり、またある時には甘えん坊の少女のようでもあり、かと思えば突然かんしゃくを起こしたり、不意に女王としての威厳を振るい出したりもする。これら一貫性のない表情をすべてひとつのキャラクターとして成立させ、そこにユーモアすら醸し出すコールマンの怪演たるやまさに絶品だ。
この危うげに回転するコマの軸が揺るぎないからこそレイチェル&エマの個性も際立ち、宮廷内の三角関係はスリリングかつ破天荒で、予測不能の極みとなった。3人の女性たちの誰に寄り添うかによって、万華鏡のように色彩が変わる。鑑賞するごとにフレッシュな感覚を味わえる逸品でもある。
低位置からの広角レンズ映像は小動物視点のよう
ヘンテコで不気味な異色作を撮り続けているヨルゴス・ランティモス。「ロブスター」と「聖なる鹿殺し」は非現実的な設定や超自然的な出来事を含む話だったので、新作が英宮廷を舞台にした歴史劇と聞いて意外だったが、蓋を開けてみればやっぱり一癖も二癖もある怪作。閉環境での力関係と愛憎は「籠の中の乙女」に共通する要素でもある。
三女優の熱演の激突は観客にまで飛び火しそうな激しさだ。英女優オリビア・コールマンも、これを機にハリウッドでの仕事が増えそう。
太陽光やろうそくの火でほぼ全編を撮影した映像は、キューブリックの「バリー・リンドン」のように大昔の宮廷にタイムスリップしてのぞき見しているような気分にさせる。
そしてあの、低い位置から仰ぐアングルでの広角レンズの映像!ウサギなどの小動物が尊大で愚かな人間を冷ややかに眺めているような、なんとも皮肉の効いたショットにほくそ笑んでしまった。
大仰なイメージとは裏腹な艶笑劇
権力はあるものの、孤独と欲求不満の極みにいる英国女王を挟んで、そんな女王を影で操る幼なじみと、没落貴族の娘が、愛情と権力を奪い合う。欲望を剥き出しにした女たちの愛憎劇を、側で見守る男たちはみんな、まるで去勢されたかのようだ。ヨルゴス・ランティモス監督はえげつなく、時に笑える宮廷内ドラマを、特にローアングルから嘗めるようにとらえて、観客を押しつぶすような圧迫感を演出している。誰も決して傍観者にはしないという意気込みが、特異なカメラワークからはひしひしと伝わってくるのだ。それは、3人の女優たちの演技にも言えること。これほどまでに人間の醜さと、それ故に漂うおかしみを体現したアンサンブルはないと思わせるほどに。特に、女王を演じるオリビア・コールマンの怒りと嘆きが交互に現れる感情演技は一見に値する。フェミニズムを極端な形でテーマに据えた意欲作。大仰なイメージとは裏腹に、けっこう笑える艶笑劇なので、気楽にシートに身を埋めて欲しい。
役者の個性が弾け飛ぶ
女王は元より、側近、重臣と、それぞれの個性が豊か過ぎて最初は笑っていたのだけれど。
放題にヒントが隠されているように、どんどん泥沼化としていく宮殿内。
プライドが高過ぎても、バカを演じてもバカにはなれずに自滅する。
うさぎたちを亡き子供と思い愛おしむ女王の勝ち。
過ぎたるは及ばざるがごとし
一度転落した人生から、這いあがろうと必死に画策し、それが見事に成功したアビゲイル。
ただ、もう同じ目には、とはとのトラウマが、サラを、貶めるに至る。
ラストシーンは強烈。アン女王はサラを追放したことを後悔。アビゲイルは、サラを排除し、女王のまさに、the most favorite になったのだが、これからの人生は、空虚なものにらなるであろう…とみてとれるエンディング。
主演女優賞
壮麗な舞台、徹頭徹尾グロテスク。「哀れなるものたち」「憐れみの3章」からの遡り鑑賞。主演女優賞に納得のヒロインだった。三作通じて思うこと、無垢なるまま、信じるままにあろうとするのは罪なのか。鑑賞順は私にとっての偶然でしかないが、ランティモス監督のヒロインはいまやエマ・ストーンで揺るぎない事になんとも言えない面白さを感じた。
シニカルでブラック、これぞ英国の宮廷ドラマといえる。
18世紀初頭のイングランドを舞台に、アン女王の寵愛をめぐって暗躍する、2人の女性を描いた宮廷ドラマ。女王と親しいマールバラ公爵夫人サラの前に、従姉妹でもある没落貴族の娘アビゲイルが現れ、女王に登用される。
とても気まぐれで、健康不安を抱えた女王に対し、2人の女性が、権力闘争も交えつつ、非情なまでの苛酷な謀略で、権力を握ろうと奮闘するさまを、風刺的に描いている。
ヌードを伴う同性愛のシーンや、口淫を示す台詞などのため、PG12指定。権力を求めて、容赦なく陰謀を企む人間は、結局は抑制が効かなくなることを、痛烈に辛口かつ、英国らしいユーモアで描いている。
スキャンダラスな雰囲気で、愛憎が入り組んだ権力闘争を、野性的かつシニカルに描いた、ブラックコメディといえる。恐ろしく素晴らしい、そして、とても美しい宮廷ドラマだ。
豪華絢爛英国淑女下剋上大奥絵巻
時は18世紀、隆盛を極めたイギリススチュワート朝。その最後の君主であるアン王女の則近サラと奥女中アビゲイルとの女同士の嫉妬や欲望、陰謀にまみれた骨肉の争いがここに繰り広げられたのであります。
没落貴族の娘アビゲイルはいとこのサラを頼り、城中の大奥の女中として雇われます。しかし彼女は元々貴族の出でありその身についた品格と美貌のために女中仲間からひどい嫌がらせを受けます。
ある時彼女は機転を利かせてアン王女の痛風の痛みを薬草で和らげたことからサラに認められ彼女のもとで働くことに。
新しく則近となった彼女に野党の政治家ハーリーが近づいてきます。何とか戦争を終わらせたいハト派のハーリーは彼女を内通者と利用しようとしました。否応なく政局の渦に巻き込まれるアビゲイルでしたが、彼女にも再び貴族の地位に返り咲きたいという野望がありました。サラやアン王女の信頼を勝ち取り、そして観客をもその美貌で魅了し、隙あらばアン王女に取り入ろうとします。
情緒不安定なアン王女を精神的に支配していたサラは実質的に王女の職務を代行しており、その彼女の多忙のすきをついてアビゲイルはまんまと王女とねんごろの関係になり夜伽の相手となります。
アン王女とサラが夜伽の関係にあることを知った彼女は得意の舌技で王女を見事虜にしたのでありました。
自分の地位を奪われそうになったサラは嫉妬のあまり「shit」と内心つぶやいたとか。せっかく目をつけてやった恩も忘れてこの不届き者めがとハードカバーの書物を絨毯爆撃。攻撃されたアビゲイルも黙ってはおれない。彼女はそのまま王女に泣きつくのでした。
生来の人たらしの才能が実り王女のお気に入りとなった彼女はもう後には引けない。尊敬していたサラとはいまや敵対関係に。サラも何としてもアビゲイルを追放しようとします。逆にアビゲイルは紅茶に毒を忍ばせ邪魔なサラを陥れようとします。そしてサラが落馬して行方不明のうちに王女の親戚マシャムとの婚姻を果たしたアビゲイルは貴族の地位に返り咲くのでありました。
そしてサラの報復を恐れた彼女はサラの夫に横領の嫌疑をかけて夫婦ともども国外追放させることに成功するのでありました。
ついに貴族の地位に返り咲き、王女の寵愛も独り占めにしたアビゲイルでしたが、彼女自身この陰謀渦巻く権力争いに身を投じて、皮肉にも自らが軽蔑していた醜悪で堕落した貴族になり果ててしまうのでした。
心のよりどころであったサラを失った王女の情緒不安定の度合いはますますひどくなり、自分のウサギを虐待していたアビゲイルにも信用ならなくなります。
王女の職務を実質代行していた優秀な則近を失い、スチュワート朝はアン王女を最後に終焉を迎えるのでした。アビゲイルの運命やいかに。
このお話、今宵はここまでにしとうございます。
気立ての良いアビゲイルと冷酷無比のサラという対比で物語は進みますが、後半はまるで立場も人格も逆転。アビゲイルは自己防衛と野心のために狡猾な女性に様変わり、サラは彼女なりに国や王女に対して誠実で自分の職務に忠実であった人物であることがわかる。この前半から後半への逆転現象がとても興味深く見れました。
観客も若くてかわいらしいエマ・ストーンが善で、かつて清純派ヒロインとして活躍したのも今は昔のレイチェル・ワイズが悪という先入観で見ていたのでこのギャップに啞然とさせられます。
この監督初のビッグバジェット作品なだけに衣装や装飾、美術などにふんだんに予算を使い、きらびやかで豪華絢爛な王朝の生活を再現。それらによって作り出された映像美とは対照的に描かれた女同士の醜い争い合いと当時の貴族たちのお下劣っぶりがいっそう際立たせられた。どんなに着飾ろうともその内面の醜さ弱さを覆い隠すことはできない貴族たち。どんなに予算をかけた大作でも人間のお下劣な部分を描かずにはいられないこの監督。夜御須蘭丁毛須らしい作品。
強欲な女たち
映画は総合芸術であると誰が言ったか知らないが、この映画は、まさにその言葉がピッタリ当てはまるような作品ではないだろうか。
絢爛豪華とはちょっと違う、自然光と蝋燭の薄暗さのなかに英国王朝の歴史と美が浮き上がるような宮殿。ヨルゴス・ランティモス監督のことだから、セットもVFXも駆使して作り込んでいるのだろうが、地下廊下や下女の部屋など細部に至るまで手抜きがない。
音楽もクラシックのような音楽も流れる場面もあれば、工場の機械音のような不協和音が続く場面もあり、それぞれのシーンと登場人物の心理状態の表現に深みが出ている。
そして、広角の魚眼レンズで撮る女王の部屋や廊下。画面の両端の歪みは、これまた3人の心の歪み、言いようのない嫉妬、妬み、憎しみを表現しているかのよう。
富と絶対権力を持つ女王は、子を亡くし、病に冒され、愛に飢えている。しかし、女王としての誇りを持っている。
女王をバックに権勢を振るうサラは、その能力で国を動かす野望を持つが、女王あっての自分という限界の中でもがいている。
どん底から這い上がろうとするアビゲイルは、愛を知らず、富と権力のためには手段を選ばない。
3人の女たちは、愛を、権力を、富を、それぞれ求め、それぞれの檻の中から自由を求めて這い出ようとするが、出られない。映画のほとんどのシーンが宮殿内である。宮殿は彼女たちにとっての檻なのだ。
サラは、権力の座を追われ、国を追われる。彼女の捨て台詞が心に残る。
宮殿に残った女王とアビゲイルはこのあとどうなるのか。恐らく2人に幸せはないであろう。
一歩間違えば、とんでもない駄作になるかもしれないような題材を、ここまでのクオリティに高めた監督をはじめとする制作者、俳優陣にただただ脱帽する傑作。
上昇志向の着地点
オリビア・コールマンが何といってもすごかった。特に心に沁みたシーンは、目、特に左目の視力がどんどん落ちて、書類を斜めにしながら見て読む時のオリビアの顔の傾けと目の感じ。辛いだろうなあと悲しくなった。
サラとアンの面白い関係。変てこな化粧を「アナグマ」とサラに言われて納得するアン女王。強くて親密でサドマゾで我慢とは無縁の二人。そんな二人の間に飛び込んだアビゲイル。最初はやられっぱなしのアビゲイル:馬車の中で若い男が変なことしてるのを目にする、馬車から泥道に放り出される、冷水ぶっかけシャワー、床掃除の灰汁入りバケツに素手を入れて手が真っ赤、お仕置きの棒叩き刑(6回が4回で済んだ)、散歩のつもりが男にいきなり土手に突き落とされる、サラにいきなり発砲される、図書室でサラから本をガンガン投げつけられる。でもアビゲイルはへこたれない。のし上がるためだ、自分で自分の顔を本で殴りつけおでこも頬も真っ赤で鼻血ブー。四文字悪い言葉を叫びながら次の対策考える。サラの不在中に急いで貴族と結婚ー!サラからの結婚祝いの言葉には「ケッ!」、エマ・ストーンいいじゃないですか!でもそこまでだったね、アビゲイル。アンの通風の手当てをしても飼っているウサギに込められた悲しみに共感しても上っ面でした。
アン女王はサラが不在だったり男と踊っていたりすると強烈に嫉妬する。サラの直裁過ぎる言葉に笑ったり悲しんだりするが彼女もサラには何でも言える。大勢の人の前から逃れたいとき、サラは高速スピードでアンを乗せた車椅子をビューン!と走らせてアンを朗らかにする。一方、どんなに優しく話しかけマッサージもベッドの中でも上手なアビゲイルをアン女王が嫉妬することは決してない。最後の長いシーンがそれを表していた。
エマ・ストーンはコスチュームものの映画がとても似合う。レイチェル・ワイズのハンサム・ウーマンぶりかっこよかった。
おまけ
サラの夫役は「SHERLOCK シャーロック」のカンバーバッチ=シャーロックの兄(マイクロフト・ホームズ)役のマーク・ゲィティス!顔、鼻ですぐわかったー!
アン女王かわいそう
哀れなるものたちのヨルゴス・ランティモス×エマ・ストーンコンビだと聞いて鑑賞
エマ・ストーンのお顔が好きなので、惚れ惚れ…
見所はコールマンのアン女王役、演技が凄かったですね。アン女王の孤独と哀しみ、体調不良が伝わってきてつらかった。
史実をベースにしていて、サラもアビゲイルも実在の人物。アンが17人の子を失ったというのも、サラを追放してアビゲイルを登用したのも、史実。アンの風貌がWikipediaに載っていた肖像画とそっくりだったので驚いた。
アビゲイルは必死のし上がったのに、達成したあとは馬鹿騒ぎするわウサギ踏みつけるわ、でなんだかつまらなそう。アン女王もアビゲイルも救われない空虚なラストが何とも…
サラのお手紙、アビゲイルが読むことを見越して書いたのだろうか?
シーンごとにタイトルをつけるのと、魚眼レンズは哀れなるものたちと共通しており、監督お気に入りの手法である模様。
追記
再上映に行ってきた@歌舞伎町タワー
音楽の使い方が際立っていて、劇場で観てよかった
マーク・ゲイティスがでてくると、あ〜イギリスの映画観てる〜って気がする(笑)
初回は比較的アビゲイルに共感してみていたけど、2回目はなんだか、サラの方が愛情深く、管理職としての能力も政治家としての志も高いように見えた。
シンプルな関係性
いろいろな人の思惑やたくらみや心の動きがあったが、核心は女王陛下とサラが思い合っていたというシンプルなところだった〜〜。
最初は政治を思うようにしたいからサラは女王陛下を利用しているのかな?と思ったけど、話が進んでいく中で両思いなのか〜〜!と気づいていった。
周囲からの多様な意見に混乱したり、国を担うプレッシャーに圧迫されたり、身体の症状が出たりと、女王の精神状態を考えるとあの子どものようなふるまいも少し納得が行きます。
アビゲイルは狡猾でしたたかだけど、自分を守るために必死なように見える。あとひたすらお顔が綺麗
18世紀のイギリスでは
ほっぺたに星のシール貼るのはやってたの?それはさておきのし上がって行く女性のしたたかさ。衣装も豪華で面白かったけどラストが??大切なものが失われま虚無感か。
主演女優3人の圧巻の演技×ヨルゴス・ランティモスのオリジナリティ
『哀れなるものたち』を観て、ヨルゴス・ランティモス監督の過去作に興味を持ち
本作を鑑賞しました。
ランティモス監督ならではの構図・絵づくりは本作でも健在であり、
特に宮殿のしつらえや衣装にも目を奪われる素晴らしい出来だと思います。
何といっても軸となる3人の女優の競演・怪演が圧巻であり、
オリビア・コールマン、エマ・ストーン、レイチェル・ワイズ、いずれの俳優も
素晴らしい演技で鑑賞者を圧倒するほどの迫力でした。
ランティモス監督は、背中を見せる構図が特徴的だなと思います。
私としては、レイチェル・ワイズがカッコよかった。
彼女の演じるサラには信念があり、本作においては唯一筋が通った人物として共感できました。
◇全てが変動値の世界観
女王陛下権威とは、国を司る根幹を成すものであるべきなはずです。この物語の中心人物であるアン女王は1702年から1714年の長きに渡り、初めはイングランド王国・スコットランド王国君主として、やがて初めてのグレートブリテン王国君主として在位したステュアート朝最後の国王です。彼女の心の優柔不断がこの物語の不穏に揺れ動く歪な軸を為しています。
女王陛下の「お気に入り❤︎」の座を巡って、二人の女性が双方を潰し合うように、何でもありの抗争を繰り広げていく展開が、ぐちゃぐちゃに泥臭い人間模様をグツグツと醸し出します。そこに正義はあるのか、「愛はあるんか?」いえいえ、人間の情動も行動の動機もそんな単純なものではありません。
ヨルゴス・ランティモス監督作品に共通して感じるテーマは、人と人の関係性の中で揺れ動く価値観の姿、その滑稽な流転です。われわれは、自分は冷静で客観的な判断を下していると思い込みがちですが、その時の気分とか周りに関係する人々の機嫌とか時代の環境とかによって判断基準は揺れ動くのです。正義と悪、愛情と憎悪、それぞれ複雑に絡み合いながら変動していく残酷な#人間喜劇 がそこにはあるのでした。
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