劇場公開日 2019年5月31日

「淡々と。嫌いではない映画」僕はイエス様が嫌い CBさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5淡々と。嫌いではない映画

2019年6月2日
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鑑賞方法:映画館

淡々とした映画。自分は、嫌いではないです。
主張するのではなく、事実を描いていく。音楽も賛美歌のみを用いており、音楽で感情表現を補完しようという思いがないのも好ましい。とにかく、観た人が、自分で感じてね、という姿勢に徹していると感じた。

では自分はどう感じたか? 自分は、宗教は、苦しい人の心を救うものだと思っている。苦しくない、普通に生活できている際には、不要だと思っている。
だから、ユラの、宗教との出会い方は、ちょうど逆になっちゃったんだなあと感じた。友達ができたこと、お金がもらえたことは、神様のおかげではなく偶然。一方、終盤のやるせない気持ち、どうしようもない悲しみや怒り、それらを自分一人では乗り越えられない瞬間が来たら、その時こそ、宗教が、神様がユラの役に立つときが来るのだと思う。
かつ、少年の心は柔らかく深いので、いくら悲しみや怒りが深くても、宗教に頼るところまで行くことはないのだと思う。そういう意味で、少年たちに、真の意味での宗教は不要だと思う。

静かな落ち着いた絵、こどもたちの自然な演技。見事。監督・脚本だけでなく、撮影・編集まで一人でやったからこその完成度だと思う。今後もこのスタイルで、時間をかけて一作ずつ撮っていくのか、チームで作ることを学んでそれなりの頻度で作品を見せてくれるのか、いずれの方向に行くにせよ、次回作が楽しみだ。

ところで、オープニングとエンディングを構成する “障子の穴” って、何だったのだろう… これについて「こういうことじゃないか」って気づきを得たら、また追記します。ここがわからないって、監督の狙いに対して、おそらく何か大きく欠落してると思うので。

2021/3/26 追記
以下、引用ですが、監督本人が語る内容がありました。

----- ここから引用
劇中には穴の開いた障子が登場。その意味について奥山は「僕のおじいちゃんが障子に穴を開けていたと、亡くなったあとにおばあちゃんから聞いて。こじつけではあるかもしれないんですけど、亡くなる前にこれから自分が行くところをのぞいていたのかなって。今いる場所から外の世界や現世ではないところを見ようとすること。それが宗教すべてに通じることのような気がして、メタファーとして映画に取り込めないかなと考えました」と実体験を交えて説明する。「映画には余白が大事。観たときに『こういうことを意味してるのかな』と考える余地があることで『私の映画だ』『私が考えていることを言ってくれている』と思っていただける。実際僕はそういったことを考えながら映画を観ています」と映画作りにおける心構えも明かした。
----- ここまで引用

CB
きりんさんのコメント
2021年3月26日

「追記」とご連絡、ありがとうございます!
気になり続けていたらついにC Bさん、監督の真意を発見。

あれ、おじいちゃんが遺していったおじいちゃんの行為の痕跡ですよね。
障子の指の跡って(とりわけ死んだ人の指の指とか)生々しいから、僕もきっと何か監督もフイルムに
メタファーを残したんだろうと感じていました。
そうでしたか・・。ご連絡ありがとうございました。

ここまで書いていて僕も更にイメージが飛躍しました
⇒十字架刑で死んだイエスの遺体の、釘の穴と槍の穴に、弟子のひとりトマスが自分の指を差し入れてみる・・というシーンが聖書には書いてあったなぁ、って。
故人や自分の過去を追想する、生々しい障子の穴でした。

きりん