劇場公開日 2019年6月28日

「主人公の中にある嵐」凪待ち palさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5主人公の中にある嵐

2019年7月1日
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鑑賞方法:映画館

泣ける

興奮

物語の最初から、主人公は既に真っ当な人生のレールを外れ、ろくに仕事もせずにギャンブルに夢中になり、暴力衝動を抑えることができない、大事なものがかなりたくさん欠落した男として観客の前に登場する。 その理由として、これまでの人生や何故ギャンブル依存症になったのかなどという説明があるわけではない。初めて見た時は彼の行動が理解しきれないところもあり、なぜそんなことをしてしまうのかと半ば呆れるような気持ちで見た部分もあった。でも見終わった後ふと思った。彼だけでなく観客である我々も、いろいろな理由によって、もしくは何の理由もなく、もうすでにあらかじめさまざまなことが失われている存在なのだと。その理由を自ら説明、あるいは釈明、弁明しようと思えばできるかもしれない。しかしそうしたからといって失われたものが戻ってくることはない。そのような救いのない共通点を通して観客がこの主人公に心を寄せることができる、この物語の開始地点はそのような場所に設定されているのかもしれない。

主人公はつねに現実から逃げ続けている。本当は心が優しい面もあり、やる気になれば仕事ができないわけではないという部分もあるのだが、彼はいつもどこか上の空で、恋人や自分を気遣ってくれる人の思いと向き合うことを拒否する。自分の中にある嵐につねに翻弄され、他人に気持ちを振り向ける余裕がないようにも見える(同棲している恋人にすらも)。自分を表現することが不得手で人間関係がうまく築けず、感情のコントロールも上手くできない彼の人生は行き詰まってしまう。見ていて思わず、何故彼はこんなふうにしか生きられないのだろうと考えてしまう。これはすべて彼のせいなのだろうか。もちろん、20歳をとっくに過ぎた彼が自分の行いを誰のせいにすることもできない。でも、どうして彼がこんなふうにしか生きられないのか、どうしてこんなに歪んでしまわなければならないのか、いったい彼に何があったのだろうと思わず考えさせられる。きっといまの考え方ではすべてが「自己責任」とされるのだろう。でも、個人にすべての原因を帰してしまうことが本当に正当なのだろうか?と思わされてしまう。

自らの欠落を認識することは苦しい。でも直視せずに生きることも苦しい。失われたもの、癒えることのない傷、忘れることのできない苦しみ。自らの内にあるそれらを認めることからしか前に進むことができない地点があることをこの映画は示唆している。私はあのラストシーンから、彼=我々の苦しみが決して個人的なものではなく普遍的なものであるという救いのようなものを感じた。それと同時に、震災で大事な人やものを亡くした多くの人の苦しみも決して他人事ではなく、我々の苦しみとどこかで響きあうものなのだということも。

「誰が殺したのか?何のために殺したのか?」というサスペンス風のキャッチフレーズは物語とは一見そぐわないようにも思える。しかし考えてみれば、私たちの現実はそう問いたくなるような不条理な死に満ちている。震災での死者は膨大なため、ついつい「〇万人」という数字で処理してしまいそうになる。でも彼らは一人一人の人間であり、その死は決して数字だけで処理されるべきものではない。遺された者たちが、答えは決して返って来ないと分かっていながら「誰が?何のために?」と問わざるを得ないような、私たちの現実に起こる死と同じ死なのだ。

決して明るく楽しい映画ではない。でも見ている人間の心の暗く荒れ狂っている場所に救いの様な何かをもたらす作品だと思う。安易な救済の物語ではない。見ている方は、全編通じて主人公の激しい感情に翻弄され続ける。しかし見終わった後の心はどこか静かだ。彼の苦しみも私の苦しみもみんなの苦しみも、あの海に流れて少しでも消えればいい。そんなふうに願いたくなる。

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pal