「薄氷を踏むような人間関係」かごの中の瞳 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
薄氷を踏むような人間関係
映画を観て次のように考えた。健常者は障害者に対して一定の優位性を抱いている。また、膂力に優れた大男は非力な者に対して一定の優位性を抱いている。或いは、胆力があって恐怖心のない人は臆病者に対して一定の優位性を抱いている。
先日の話だが、渋谷の駅で警備員が盲の女性の手を引こうとして鬼のように拒否されていた。障害者は健常者の親切が自分にとって必ずしも100%有益とはならないことを知っている。時には迷惑に思うこともあるだろう。親切というものは、互いの信頼関係がなければ成立しないのだ。高齢者が階段を上がっているときに荷物を持っていいのは、その高齢者に信頼されている人だけだ。そうでない場合は単なるひったくりである。白い杖を持っている人の手を引いていいのは、よほど信頼されている人だけだ。障害者は人間で、健常者と同じ基本的人権がある。自分で出来ることに手助けは不要なのだ。
本作品の夫は、渋谷の警備員と同じ間違いを犯す。妻はひとつの独立した人格を持つ人間で、ペットではないのだ。しかし夫はそこに気づかない。登場する犬は人間に頼って生きるペットと、自立して生きていける障害者との違いを明確にするメタファーとなっている。
優越複合と劣等複合は常に表裏一体である。美しく才能のある妻は、目が見えるようになった瞬間に優越複合の対象ではなくなり、夫は劣等複合に陥ってしまう。
信頼のない人間関係は薄氷を踏むみたいで、少しでも間違えると凍りつく水の中に沈んでしまう。または綱渡りのようで、バランスを崩した途端に奈落の底に落ちてしまう。保護と被保護の関係は主従関係に似ていて、当事者は関係の逆転に耐えられない。そういう意味では「All I see is you」という原題も「かごの中の瞳」という邦題も、よく考えられている。
ところで、人間同士にそもそも信頼関係など存在するのか。もし存在するとしても、絶対的な信頼関係ではなく、度合いの違いとなるだろう。母親と赤ん坊の関係にしても、コインロッカーベイビーの事件が未だに発生している以上、絶対ではない。それでも人間関係の中では最も信頼関係が高そうに見える。
突然の轟音や不協和音、歪んだ視界のような映像など、盲の主観イメージの抽象的な表現が印象的な作品だが、ラストシーンからすると、意外に理詰めなのだ。親と子供、介護する人とされる人、教師と生徒、使用者と労働者など、関係性というものを敷衍すれば、人類に普遍的なテーマを持つ作品である。