「当たり前の共通前提が抜け落ちている論理的思考」THE GUILTY ギルティ(2018) 蛇足軒瞬平太さんの映画レビュー(感想・評価)
当たり前の共通前提が抜け落ちている論理的思考
観客自身に内包されている、
正義、慈愛、他人との距離感許容範囲、
心とか命とか当たり前の共通前提が抜け落ちている合理的論理的思考、
非論理的(論理外含)な言動への許容、狡猾さ、偏見、倫理などを、
自覚してその気持ちを登場人物にどう按分するか?
それによって観客それぞれのサスペンスの割合、
ヒューマンドラマの割合、そして作品への評価は変わる。
メインプロットは、SOSの通報→事の収束、以上。
サブプロットを観客自身に委ねるチャレンジ的傑作。
サブプロットを観客に委ねる?
どういうこと?
簡単な一例、
軽い(と推測はできるが詳細不明)ケガをした女性からのSOSコールのシーン。
の主人公に対して。
〇軽傷で電話してくるな!毅然とした主人公の態度は適切!
〇軽傷?なぜ詳しく聞かない?主人公は信用できないやつ。
〇人間は誰でも清濁両方持っている、あるいは、今はそれどころではない、続きを冷静に観る。
観客の主人公を観る前提に微妙な差異が生じる。
これが狙いでもある。
おそらく、シナリオと芝居と演出の
細かなチューニングの軌道修正を現場で繰り返していたのだろう。
主人公の正義感の源泉は?
父親を見放した存在は?
母親が怯えているのは?
娘、息子達の背景を想像して号泣した人もいるでしょう。
作品のリメイクもされるだろうが、
こういう技術を複数の役者でも大きな現場でもできるのであれば、
ハリウッドデビューも遅くないでしょう。
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