「気持ちのズレがドラマになる」初恋 お父さん、チビがいなくなりました 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
気持ちのズレがドラマになる
財津和夫の「サボテンの花」では、些細な出来事で簡単に壊れてしまう男女の関係性が淡々と歌われる。夫婦も恋人も元は他人だ。親兄弟でさえ解り合えないのに、育った環境の異なる他人同士が解り合えることはない。
もっと古い歌だが長谷川きよしが歌った「黒の舟唄」は、男と女は互いに解り合えることがないと知っていて、それでも解り合おうとするものだという歌詞である。
そして北山修と加藤和彦の「あの素晴しい愛をもう一度」では、同じ花を見て美しいと思うことが幸せなのだと歌う。人は解り合うことはできないが、共感することができるという意味だ。
人は他人の死を死ぬことができない。他人の苦しみを苦しむことができない。どれほど時を過ごしても、どれだけ言葉を交わしても、人は他人を理解することはない。この人はこういう人だと決めつけることはできるし、多くの人がやり勝ちだが、大抵の場合、間違っている。決めつけることは理解することとは程遠いことなのだ。
しかし北山修の詞のように共感することはできる。共感は共生感に繋がり、同じ時間、同じ空間を生きていると実感する。そこに感動があり、喜びがある。作家や哲学者は、深夜にひとりで執筆しているとき、全人類との大いなる共生感を感じることがあるという。
さて本作品は、年老いた夫婦が共生感を喪失する話である。といっても妻の側がそう思うだけで、夫のほうは気持ちが通じているものと思っている。そのズレがドラマになる。
倍賞千恵子と藤竜也という名人二人の芝居はスキがなく、かといって過度な緊張もない。適度に思いやりがあり、適度に突き放しがある。その絶妙な空気感の中で日常的なストーリーが坦々と心地よく進んでいく。
老いた夫は駅前でアイデンティティの危機を迎え、帰宅して妻に出来事を話そうとしたときに、逆に離婚の意思を告げられる。そのときの藤竜也の表情は、複雑な思いが絡み合って逆に無表情になってしまう顔であり、その無表情の中にも落胆、失望、諦め、それに妻への思いやりを感じさせ、これぞ名優と改めて感心する名演技であった。
普通の人の普通の暮らしの中にもドラマがあり、人生があるのだなと再認識させてくれるほのぼのした佳作である。