幸福なラザロのレビュー・感想・評価
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正直者がバカを見るってこと?
搾取にしても、友情にしても言葉通りにとれば、悪意にも善意にもとれる。
要は受け取る側の意味づけしだいなのだ。
とことん言葉通りにとるラザロには、悪意も善意もない。
現代ならば、ラザロはどのように言われるだろう?
物語のように、憑依して、世の中に戻り、それからまた、元の世界に。
どこかイソップ物語のような、不思議な映画。
小作制度
傑作
ラストの解釈に悩む
チラシのビジュアルがどうしても頭から離れなくなって、ついに鑑賞。
平和な村で貧しいけれどボク幸せ。そんな雰囲気映画だろうと思ったら全然ちがった!面白かった!
ラザロが奇跡で生き返る人なことは知ってたけど、もっと知らない要素があるのか、ラストが腑に落ちない。見捨てられちゃったのかな?人間は。
それにつけても、本作はラザロ役の彼ありきの作品。
美しくポスターは仕上げていても、動いたらがっかりするだろうと思ってたのに、動いてもなお彼ラザロの圧倒的な違和感が面白かった。リアルでもごくたまにいますね、こういう方。
平たく言えば、どっか壊れてるから世間から浮いてしまうのだけど、どういう生き方してるのだろう…と電車でモンモンとしてしまうような時間を監督も過ごしたのだろうな。
宗教的と言うよりもSF的な寓話のよう。
稀有な人生
新約聖書の中のルカによる福音書(ルカ伝)とヨハネによる福音書(ヨハネ伝)の中に、ラザロが登場する。
ルカ伝のラザロは全身デキモノに覆われた乞食で、金持ちの家の前に座っておこぼれを待っている。ラザロも金持ちも死んで、黄泉の国で苦しむ金持ちが見上げると、ラザロはアブラハムの懐にいる。
ヨハネ伝のラザロはマリアとマルタの姉妹の兄弟で病人である。死んで墓に入れられてから四日後にイエスが蘇らせた。そして病気も治ってイエスと一緒に食事をする。一般にこちらのラザロが有名で、死者の蘇生実験の映画「ラザロ・エフェクト」は記憶に新しい。
本作品のラザロは聖書のラザロと違い、至って健康で働き者である。そしてヨハネ伝のラザロと同じように皆に好かれている。それはラザロが決して人に反対せず、相手の願いを叶えようとするからである。口答えのしない働き者はとても便利な存在だ。それは誰もがラザロを下に見ているということでもある。しかしラザロ自身はそんなことを意に介さない。
この映画を観て、ドストエフスキーの小説「白痴」を思い出した方はいるだろうか。私にはラザロがムイシュキン公爵に重なって見えて仕方がなかった。小説のヒロインであるナスターシャ・フィリポヴナ・バラシコワは、立ち去り際に主人公に声を掛ける。
「さようなら、公爵。初めて "人間" を見ました」
その美貌を金持ちに利用されて散々酷い目に遭ってきた彼女にとって、無私無欲のムイシュキン公爵は聖者のようであったに違いない。ドストエフスキーはそこを聖者ではなく "人間" と表現することで、他の登場人物たちがどれほど人でなしかを浮かび上がらせた。
本作品の登場人物たちも、大人から子供まで、負けず劣らず人でなしばかりである。それでもラザロは幸福だと、本作品はタイトルで主張する。実存としての人間の幸福は、置かれた状況にではなく、自分自身の心の内にある。ムイシュキン公爵がそうであったように、ラザロもまた人を疑わず、そして人を恐れない。疑うことと恐れることは表裏一体だ。人が自分を騙し傷つけようとしているのではないかと疑うところに恐怖が生じる。疑わなければ恐れることもない。そして不安もない。不安と恐怖から解放されること、それは確かに幸福以外の何物でもない。
ラストシーンも「白痴」と似ている。ムイシュキン公爵は精神病院へ戻されたが、ラザロはどこに還って行ったのだろうか。
人々からいいように利用され続けたラザロだが、疑うことを知らなければ、利用されたと思うこともない。それは簡単な生き方のように見えて、人間にはほぼ不可能な生き方である。ラザロの人生は稀有な人生であり、結末の如何にかかわらず、人類で最も幸福な人生であった。この作品の意義はとても深くて大きいと思う。
哲学的考察〜コミュニタリアニズム〜
この映画には、たしかに「宗教を下地に搾取と差別が蔓延する現代を風刺する寓話」という視点がある。しかし、もっとも重要な視点はコミュニタリアニズムという視点だ。理由は以下。
① 本作で語っているのは、〈善〉の意味を忘れるなと、監督本人が言っていること。
②監督にとって、家族や地域といったコミュニティは重要なテーマであること。
③コミュニタリアニズムでは、コミュニティで育まれた善を尊重すること。
以上から、この映画では、地域というより広い家族(コミュニティ)をテーマにしている。そして、そのテーマはコミュニタリアニズムそのものだ。したがって、この視点抜きに考察すると本質を見失うことになる。
★この視点で見えること★
私はこの視点によってコミュニタリアニズムは理想主義的な態度を取るということが見えてくると考える。なぜなら、この映画は風刺映画となったからだ。風刺とは、理想主義が陥るものだ。なぜなら、理想主義者は崇高な理想とは程遠い現実を嘆き、ついには皮肉り始めるからだ。つまり、現実を風刺し始める。そして、監督が「善の意味を忘れるな」と命令形で語ったことは偶然ではない。これは、現実の一段上からの言葉である。要するに、この映画によって、コミュニタリアニズム的な視点は理想主義的な性質をおびうる、と示された。
私は理想と現実の両方が大切であると考える。どちらか片方にこだわる「主義」はいずれ失敗する。だから、コミュニタリアニズムを理想として持ちつつ、理想主義にしてはいけないとこの映画から学べると考えている。
上手く説明できたかは怪しいが、このレビューが皆様の考察の一助になれば幸いである。
参照記事
https://www.google.co.jp/amp/s/i-d.vice.com/amp/jp/article/zmap95/happy-as-lazzaro-is-the-poetic-italian-fable-you-need-to-see
とても面白かった
長かった
寓話的でありながらもリアル
前半は、一体いつの時代だか混乱させられるも(「侯爵夫人」が出てくるのに手には携帯がある...)、それなりのリアリティがある。侯爵夫人に搾取される村人、そして村人たちに搾取されるラザロ。いつでもどこでも何度でも呼ばれるラザロ。軽い扱いのラザロ。閉塞した村。無知な村人。その中でも...無知と呼ぼうか無垢と呼ぼうか、ラザロには負がない。言われたことには素直に従い、そこに計算がない。
そこを侯爵夫人の息子タンクレディにある意味「利用」され、しかし彼らは束の間の友情を結ぶ。そしてそれがきっかけで村の実態が分かり(侯爵夫人に携帯の謎もここで解ける)、ラザロを残して村人は去る。
さて後半...これは極めて寓話性が強い。そもそも名が「ラザロ」なのが意味深なわけである。イエスの友人でイエスにより蘇ったラザロ。彼はその投影である事は疑いないだろう。狼(がイエスなのか...?)によって蘇ったラザロは、奇跡のように全く変わらぬまま、寒空を半袖で歩く。無垢なまま、無知なまま。
そして彼は大きく変わった世界、現実の暮らし、それを変えたりはしない。聖人はこの社会では異端であるという事を見せつけられる。鏡のようだ。彼は苛立ちや嘲りをぶつけられる。全てを疑わず立ち回った結果。ラスト直前の涙の意味は何だったのだろう。殆ど表情を変えることないラザロが流す涙は、現代社会への警鐘なのか、はたまた彼のような愚直で無垢な聖人としては生きられないという諦めのようなものなのか。分からない。難しい。しかし観入ってしまった。
辛かった。
もっと、多くの劇場で!
漫画原作で子供向けの正視に堪えない日本映画が跋扈する中、この映画は大人の鑑賞に堪えうるなかなかの作品となっています。ワーグナーの楽劇「パルジファル」やブレッソンの「バルタザールどこへ行く」にも通じる作品です。☆を半分、減らしたのは、一見したところでは、目覚めた後のラザロの体を流れる時間経過が判然としなかったからです。大人になったかつての子供が同一人物であるとは即時には見抜けないでしょう。もう一工夫あれば、☆五つであったのですが・・・。なんだか、惜しいですね。
この監督はベルトルッチ、オルミの亡き後、イタリア映画界を牽引していく監督になるでしょう。この作品にも、家族や宗教を大切にするイタリア映画の伝統が脈々と流れています。
ひとつ不満があります。この映画が現在、札幌、東京、横浜、名古屋、大阪の大都市圏の小さな劇場でしか鑑賞できないということです。この映画は間違いなく今年公開される映画の中で象徴的な一本となる筈です。配給会社に強く要求します。公開する映画館を全国的に増やしてください。
一人でも多くの人に観てもらいたい映画です。
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