「残酷な真実」バーニング 劇場版 しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
残酷な真実
小説家志望の青年ジョンスは、ある日、幼馴染のヘミと再会する。
かつてジョンスに「ブス」と言われたヘミだが、彼女は整形をして美しくなっていた。
ちょうどアフリカ旅行に行こうとしていたヘミは飼い猫のエサやりをジョンスに頼む。旅行に発つ前に彼女のアパートを訪ねたジョンスは、そこでヘミと関係を持つ。
アフリカから帰ったヘミと一緒に空港に現れたのはベン。ベンは働かず、高級車を乗り回し、瀟洒なマンションに住む金持ちだった。
ある日、ジョンスはベンから、「僕はときどき、ビニールハウスを燃やすのだ」と打ち明けられる。その日を境に、ジョンスはヘミと連絡が取れなくなる。
ジョンスはヘミを必死に探し始める。何度もケータイを鳴らし、彼女の母親の営む食堂に行き、彼女のバイト先を訪ね、ベンにつきまとう。しかし、ベンは「ヘミは突然姿を消した」と言う。
だが、突き詰めればジョンスの彼女への執着はセックスでしかない。
ジョンスは彼女のアパートのベッドでマスターベーションをし、彼女の性夢を見る。
丘の上にそそり立つ展望台は男根の象徴である。北向きの彼女のアパートには、日が差さない。僅かに展望台の窓に反射した光だけが彼女のアパートを照らす。そう、自分の男根だけが、彼女に光を与える、それこそが彼の願いなのである。
彼女の身体に執着するジョンスはだから、ドラッグでハイになり屋外で服を脱いだヘミを強く非難する。
友達のいなかったヘミは、旅行中の猫の世話をジョンスに頼むしかなかった。だから彼女は彼と寝た。ベッドの近くにコンドームを常備しているヘミに取って、1回身体を重ねることはなんでもない。
「1回セックスしたからと言って、勝手に恋人ヅラしないでよね」という、男にとっては辛いシチュエーションではある。
ヘミを追うジョンスはしかし、“ほんとうに”彼女を見ているのか?身体ではなく、彼女の存在を見ているのか。
ここで映画は、そもそも彼女は存在しているのか?という謎を散りばめていく。
ジョンスの幼い頃に「ヘミ」という女性がいたのは確かだ。劇中、ヘミの家族に会っているし、ジョンスの母の記憶の中にも存在する。
しかし、この「ヘミ」が、あの「ヘミ」かは彼には確かではない。
微妙に食い違う過去の記憶。ジョンスは彼女に「ブス」と言ったことを憶えていない。幼い頃に彼女が落ちたという井戸も、あったかどうかはっきりしない。そもそも彼は、整形したという今のヘミに昔の面影も見つけられていないのだ。
映画はやがて残酷な真実を暴き出す。ジョンスは“いま生きているヘミ”を見てはいないのだ。
再会した日、ヘミはジョンスにパントマイムを見せる。そのとき、彼女は「ないことを忘れるのよ」と言った。
ベンの家には、ヘミが飼っていた猫がいて、彼女がしていた腕時計があった。ベンがヘミを殺したのか?
「ないことを忘れ」られず、「いたと思いたい」ジョンスは、ベンを殺す。
しかし、ベンがヘミを殺したのか?
そもそも、ジョンスはどれだけヘミと向き合ったのだろう?
どれだけ、身体ではなく言葉を重ねたのだろう?
ジョンスはヘミに、「ベンが君と逢う理由を考えてみろ」と言う。同じセリフはジョンスにも向けられて良い。
ベンがヘミを殺すまでもなく、ジョンスにとっての彼女もまた、「生きて」はいないのである。
原作は村上春樹。
謎の金持ちベンを、ジョンスは「ギャツビーみたいだ」という。こんなところにも村上春樹的モチーフが散りばめられている。
※ギャツビーは村上春樹の好きなフィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー」の主人公
パスタを料理する、井戸、電話、どうやって暮らしているかわからない金持ちなど、映画に表現するのが(実は)難しそうな村上春樹的小道具がうまく使われていて、ファンには楽しみが多い(牛ではなく羊を飼っていてほしかったところではある)。
だから本作は、村上春樹的な世界をなかなかうまく映画にしているとは思う。
だが、それが「映画として優れているか」というと、そうは思えない。村上春樹的な世界は、小説で楽しむほうがいいように思う。
ジョンス、ヘミ、ベンが夕陽を見ながら食事するところなど、良いシーンもあるけどね。
どうも観ていて、「アンダー・ザ・シルバー・レイク」が思い出されてならなかった(あの映画も村上春樹的ではある)。