バーニング 劇場版のレビュー・感想・評価
全109件中、1~20件目を表示
A Literary Thriller Mystery
Burning is a read-between-the-lines masterpiece, cryptic and not conforming to any genre. Jong-Su barely talks throughout the film, but through his motions in the chain of events and interactions with other characters and subplots of the film, we are always within his thinking. It's a sad tale dealing with loss of heart and jealousy; promises perceived but not fulfilled. Happy endings can't occur.
霧の中、夕焼けの中、おぼろげな現実に手を伸ばす。
イ・チャンドン監督の8年ぶりとなる新作は、日本では先にNHKで95分版が放送されるなど、実に不可思議な公開方式となった。村上春樹の短編小説を読むと、どちらかというとNHK版の方が原作のニュアンスに近いかなと思う。対する148分の劇場版はそこから完全にイ・チャンドン世界に振り切れてしまった印象だ。忽然と姿を消した「彼女」と同様、この消えた(編集削除された)「50分」もまた、二つの兄弟のごとき作品の間に漂う浮遊物のように思えてならない。
ともあれ、村上が著した頃と時代が一回りして、本作には逆に現代社会を鋭く突き刺したような生々しさが充満する。例えば、存在と不在。ネット世界では本当に実在するかなどもはや問題ではない。創作という行為もこれとよく似ている。イ監督はこれらを否定も肯定もせず、霧の中で手を伸ばすかのように世界を泳ぐ。我々も泳ぐように映画に触れる。とても刺激的なひとときがそこにはあった。
原作との比較。
村上春樹の短編「納屋を焼く」を読んでみた。
なんと主人公の青年・ジョンスは原作に存在しなかった。
原作は作家の「私」
パーティーで知り合った「彼女」
彼女の恋人の「彼」
この3人しか登場しない。
そして「バーニング」は作家志望の青年ジョンスが主人公。
だから、彼女の恋人の「彼」がベン。
そして「私」がジョンスか?
映画では、
ある日曜日の昼間、ジョンスに「彼女」から電話がくる。
「遊びに行って良い?」
「彼女」と「彼=ベン」は、豪華なデリバリーの食材を持ち込み現れる。
白ワイン。
ビーフサンド。
ローストビーフ。
スモークサーモン。
持ち込みの食材を食べながら「彼=ベン」が何気なく語る。
「納屋を焼いてるんです」
ランチに相応しくない話題。
それ以来、
作家の「私=ジョンス」は、彼が言う「納屋を焼く」行為に、
取り憑かれてしまう。
居住区の半径6キロに点在する「納屋6戸」を特定して、
朝晩のウォーキングコースを変更して
見回るのだ。
半年そして一年。
しかし一向に「納屋」は焼けない
一方、映画「バーニング」では、
大学を出たけれど無職で小説を書いていると言うジョンス。
幼馴染のヘミがアフリカで知り合ったと言う男・ベン。
ベンは貧しいジョンスと対照的に、
《美邸とポルシェと元彼女のヘミ》
まで所有(?)するリッチマン=《富の象徴》として描かれている。
(村上春樹がこの「納屋を焼く」の度の箇所で一体、
(格差社会を描いた部分がひとつでもあっただろうか?)
そこに来て、更にジョンスの初恋の女性でもある幼馴染のヘミが、忽然と「消える」
(村上春樹の小説では、女性は「死ぬ」のではなく「消える・・・」のだ。)
消えたヘミ。
ジョンスはヘミをベンが殺したと思い込み、
ストーカー行為を始めると、エスカレートして行き、
ベンのマンションまで押しかける。
そしてその化粧室で、ヘミの私物を見つけて、
「ベンがヘミを殺した」と確信する。
村上春樹の「納屋を焼く」には、ヘミのように天真爛漫で漂うように生きる娘が
言うところの「彼女=ヘミ」である。
パントマイムが得意で、蜜柑の皮剥きのマイムが特技の「彼女」が、
確かに登場する。
それにしても村上春樹の短編はよく膨らむ。
小さい風船が、映像作家の手に掛かると、
まるでアドバルーンのように大きく膨らみ
大空を舞う。
濱口竜介の手掛けた「ドライブ・マイ・カー」も、大きく膨らんだ。
「ドライブ・マイ・カー」は、
喪失から再生そして希望へと続く物語だった。
イ・チャンドン監督作の「バーニング」は、
納屋を燃やす・・・架空の悪意?
嫉妬の業火!
怨念の殺意!
衝動から破滅!
自己破壊!へと突き進む。
ラストは衝撃的。
小説「納屋を焼く」が映画「バーニング」に。
「彼」も「彼女」も実は存在しなくて、全て作家の「私」の想像の産物。
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「納屋を焼く」
その反社会的行為はイ・チャンドン監督の創作意欲を極限まで
掻き立てたのは、
間違いない。
これは凄い…
ほとんど三人しか出てきていないのに、人間、社会、人生を描いている。
一人の視点を追いかけているだけなのにずっと観れてしまう……。
こんなメタファーある?
原作を知らずに韓国映画好きが見た感想。
なんだか見てる時はつまらなかったが、終わった後に、じわじわっとずっと考えることになる。個人的には、ベンとヘミは、感覚の世界の人で、ジョンスは、常識と感情の人といった風刺なのかと思う。分からないから殺してしまったのではないだろうか?また感覚の世界に憧れたから裸になって。心理学的に見れば、ジョンスは、隠された怒りがピークになってしまって、もう抑えきれない状態の殺人。ベンは、欲求不満をどう解消したらよいか常に意識しているナルシスト。ヘミは不安からの逃避といったところか。
謎。
先日村上春樹のドライブ.マイ.カーを観てからの観賞。村上春樹の小説は読んだことはないのですが今作は監督が韓国人で作品も違うのに何処か似た様な雰囲気がある。村上春樹の小説だからなのか。
登場人物が男性2人と女性1人で同じ様な設定。幼なじみの女性が突然連絡が取れずにいなくなる。彼はもう1人の彼が関わっているだろうと思っている。(確証は)ないが。でも。二人は争うこともなく淡々と日常を描いている。
ドライブマイカーも内に秘めた想いとかを相手にぶつける事もなく自分の気持ちを表さないところがとても似ている。
肝心の所が映像となっていないため 謎 の部分が深まる。細かな点と点で描いている様な感じ。最後は観ている人が線として繋げるような作り方(描き方)でそれぞれの感じ方をしてください。と言う事なのかなと思った。
あれ?これはどう言う事だったんだろう? と色々観終わってから考えさ...
あれ?これはどう言う事だったんだろう?
と色々観終わってから考えさせられる事の多い映画でした。
答えは各々で、って事ですかね。
けっこうよかった
サスペンス的な内容なのにすっきりしない。ポルシェの男が常に半笑いで、いい人なのかもしれないけど見ていてムカつく。猫のくだりはとても面白い。女の子がいなくなるところが村上春樹っぽい。ただ、とても長い。
パントマイムスルメ映画
非常に難解な作品でした。
村上春樹の短編小説が原作で、だいぶ脚色してあるとのこと。
村上春樹はまだあまり読んだことがありませんが、確かに物語の雰囲気がまさにそんな感じでした。
物語終盤までイマイチパッとせず、何か心に残るモヤモヤとした違和感。
ヘミは本当にヘミなのか?ベンは一体何者なのか?そしてジョンスも決して普通の人ではない。
それぞれの登場人物の表情が意味ありげに見えて、退屈ではないけれど、なんか気持ち悪い感じが残っていました。
でも、それが目的なんでしょう。
自分もジョンスと同様に鈍感な方なので、何かに気づき始めたのはヘミの腕時計を見つけるあたりからだし、役に立たないビニールハウスのメタファーには、最後まで全く気づけませんでした。
この映画は色々な解釈ができると思います。
なんせ、一般的に考えられる真相だったとしても証拠がないのです。
一つの考え方、捉え方に縛られては、この作品の本当の面白さには辿り着けないと感じました。
謎は残るばかりです。
正直、結末以外はほとんど全てが謎でした。
パントマイム、猫、グレートハンガー、アフリカ旅行、同時性、夢、井戸、グラス、ビニールハウス、あくび、腕時計、ボイル…etc
振り返っていたら、また観たくなってきました。
他作品との比較はあまりよくないかもしれませんが、パラサイトっぽさを至るところで感じました。
高級住宅街に住むギャツビーと貧乏人という構図や韓国の陰陽入り乱れる街並み、衝撃の結末なんかも似ています。
日本の小説を韓国の格差社会に落とし込んだのも良かったのかもしれません。
そしてこの映画で最初に感じたこと。
チョン・ジョンソかわええ〜。
それはさておき、観れば観るほど、考えれば考えるほど深みの出る作品だと思いました。
『納屋を焼く』
日頃あまり韓国映画は観ないのだけれどミナリ鑑賞記念にバーニングをみた。
本作は激しいアクション等はなくてゆる〜りとしているのにぐんぐん惹きこまれたミステリー作品。
最後まで目が離せなかった。
もちろんイ・チャンドン監督作は初めて。
後で知ったけれど村上春樹氏が1983年に発表した短編小説「納屋を焼く」を原作をアレンジした映画なのですね。
そう観ると色々深い意味がありそう。原作読んでないなぁ。
アフリカのリトルハンガーとグレートハンガーの話や古いビニールハウスを焼く話はなんだか哲学的にも感じた。
小説家志望の青年ジョンスと幼なじみの女性ヘミ。
彼女がアフリカ旅行へ行く間の飼い猫の世話を頼まれるジョンス。
ヘミはアフリカで知り合ったという男を連れて帰って来る。
その男ベンはギャツビー族で何でも手に入る大金持ち。
貧しいけどヘミに信頼されるジョンス。
彼らはどちらがグレートハンガーなのだろう?
もう一度みたくなる。
ヘミが忽然と消えてしまう終盤。
必死に探すジョンスを通して想像力を掻き立てられた。
真実ははっきりとは語られず、夕焼けのように曖昧。
何日も経ってから、あれはジョンスの書いた小説なのかーと気づいてにんまりした。
もやもやとした映画なのに、何故かまた観たいと思わせる不思議な作品。
カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で国際批評家連盟賞を受賞した作品だそうです。
もっとベン=スティーブン・ユァンがみたかったーー。
告知ポスターがパラサイトの色合いと一緒だなぁ
映画を見て思いついたことをダラダラと書く。
村上春樹は以前小説を読んで合わずに途中で脱落。
どうせ、見ても意味わからない感じで終わるんだろうなぁ〜という、マイナス感情からの視聴。
映画はウォーキングデッドのスティーブンユアンが見たかったので見ることにした。淡々と流れていくストーリー、嫌いじゃない。むしろ見終わった後に不思議な余韻に浸っていたくなるような、不思議な感覚。結構好き。いや、かなり。好きだこの感じ。ヤダヤダ、わたしハルキストじゃないし!村上春樹なんか読んでも意味わかんない凡人で行く予定なのに!
で、感想。
ヘミが会いたかったグレートハンガーとはベンのことだったのかな。いや、3人のことかな。
ベンはサイコパスなんだろうか?すごく人当たりがよくて、魅力的、でもどこかで壁のようなものも感じる。主人公ジョンスやヘミに向ける笑顔や、ジョンスだけにした秘密の吐露。ただただ親切心があるようにも見えるし、奥底には持たざるもののジョンスに憐れみを感じているのを隠しているのかのようにも見える。これ知ってるなぁ、見たことあるな、上流階級のひとは見下しててもそれを上手に隠すよね、でも上手に隠せておくびにも出さなければそれはないってことと一緒なのかなぁ?見ながら、そんなことを考えた。それか、シンプルにそのまま、作家志望のジョンスには自分の高度で繊細な意識を共有できると思っていたのかな。
「犯罪だけれど警察もボロいビニールハウスが燃えてなくなっても気にしない」
燃やされることは必然だったことで、自分はその必然に組み込まれているだけ(セリフは違うけどそんなような話だったかな)
ベンはヘミを殺したのだとしたら、いてもいなくて誰も困らない存在であり、「最初からなかったみたいに消えてしまいたい」ヘミを、ベンが出会い、最初からいなかったかのように消える手伝いをしただけなのかもしれない。
ベンが殺人をしたかったという主体的な動機ではなく、もっと大きな運命の流れを感じる。
殺人鬼の戯言なのかもしれないが、「雨が降り洪水が起き人々が流される、そこに水の意思(ジャッジ)はない、ただ流れただけ。」自分も焼かれるのを待っているのを受け入れているだけという。
うーーーん、よくわかんないけど、わかる気がするーーー不思議体験!
ヘミの「最初からなかったみたいに消えてしまいたい」この感覚わかる!何もなかったかのように、消えてしまう悲しみも辛さもいろんなわづらわしさも、最初から何もなかったら何もないんだもんね。
でも、大麻も犯罪ですしってクギ打つ所、大麻の共犯にさせといて放火の告白をチクらせないようにしてたかと考えると、策士!
途中で猫の安否がとっても気になってしまい、余韻が中断した。ベンよ、女には容赦ないようだが、猫チャンには優しい人みたいでヨカッタ!
ベンがとても魅力的でどんな奴なんだろう、もっと彼の場面を見たい!と思うと同時に、ジョンスもヘミも、本当にとるに足らない魅力のみの字もない平凡なキャラクターで最後まで興味が湧かないように描いてたのかもしれないけど、逆にそれが新鮮だった。とてもリアリティがある。ヘミの平凡なんだけどアフリカ行ったりパントマイムとか踊りとかして精一杯平凡からの脱却試みてる感じもリアルでそれが側からすると苦笑いされてるみたいのも痛々しくてよかった…
あとは、
濡れ場シーンを初め、結構エロ描写があってPG12ってあったけど低すぎないか?と思った。
思ってたのとちがった
シークレットサンシャインが好きだったので、イ・チャンドン作品期待。
途中まで良かったけど、
ミステリー要素に引っ張られすぎたか?
楽しみかたがわからなくなってしまった
ラスト近くのヘミの部屋からのカメラが引いて待ちの風景、
のところで終わっても充分成立したような。。。
もしくは新しい彼女にメイクしてるところで終わる。。
ラストの展開はカタルシスはあるかもしれないが、ちょっと好みではなかったなー
フレンチのコース食べてたはずが、メインディッシュで味の濃いステーキ出てきた感じ(笑
やんなっちゃうなぁ。
勿論、楽しい面白い作品ではない。この監督の傑作で、韓国、映画、やんなっちゃうなぁこういうの作っちゃうんだから。ストーリーもそこまで分かりにくくはないし。監督の自己満足、というほどでもない。
ベースが鳴るのが自己燃焼じゃない悲しさ。他人が燃えていくのを見て沸き立つなんて、ネットの書き込みなんかを連想させて現代は現代なりに空虚なんだなとまた悲しい。生活様式とか、財産だけでなく、所有に底無しの曖昧さしか持ちえないで、故に曖昧な嫉妬。
ベンも退屈であくびだし、ヘミは旅行行っても大した発見もなく、グレートハンガーどうのと、表面的な情報程度。ググれば一発です。本当は生きる意味に出会いたかったろうに。ジョンスもヘミが好きなんだけど、曖昧さから抜けられない。その内に消されちゃう。消えるまでベースが鳴らないなんて、人間ってホント悲しいけど、そんなものかも。
燃やしてくれっていう若い女性は日本にも多いよね。決定権をとるつもりもない。雨が降りすぎたら洪水、脱いじゃうし、写っちゃうし、写しちゃう。インスタ万歳だわ。wベンも燃やしてくれってあくびをするんだな。笑顔を見せるんだな。それで預けちゃうんだよ。どうするか。自分で構築しないんだな。自分でやってみようともしないんだ。
なんでしょう。解決策はない?現代病?そんなことは無い。モラトリアムをきちんと過ごす事を誰も教えてくれないからか、ジョンスの父と母はどう?みんな教わってないんだな。
ベンの犯罪は無関心に埋没していたのに、見つけてくれたのは、ジョンス。ヘミはどうなった?って聞く人もいないかったんだな。ある、ないと思うんじゃなくて、みかんを食べるだけ。探せば、答えが見つかるんだけどな。話のテンポ、展開と相関しないこの濃密さを映画にしてしまう素晴らしさ。
実体や実存を、有るものにする力は誰にでも与えられている。隠すよりも、ごまかすよりも、全部脱いで燃やしちゃった方が早いわな。確かに。生きる人を応援したいんだろうな。この監督は。日本としては、なんかやんなっちゃうけどね。ww
バーニング 劇場版
サスペンスなのにこれしか語らぬリアルな新味。
語りの不足を不穏で美しい画の強さが隙間無く埋める濃厚な逸品。市川崑の炎上の雷蔵仲代を想う。
やはり、イ・チャンドンは劇場で観ねばだった。
同年私的テン上位。
スティーブン・ユアンだけは村上作品に合っていた
個人評価:3.3
全体的な静かな雰囲気や、独特なリズムの旋律などは、村上春樹の世界観は出ていると感じる。
しかしながら、原作を独自の解釈で実写化との事だが、その独自さは村上作品とは相反するようなテイストであり、原作の暗さがより暗く、よくない方向にいっている。井戸という村上作品には欠かせないキーワードも使っているが、活かしきれておらず、宙ぶらりんだ。ただ、スティーブン・ユアンの静かな眼差しは、原作の空気感には合っている。
匂わせる妙
物語の派手な部分
アクションの核心部分の
一切を省く
そこから匂い立つものは
まさに
存在があることを意識するのでなく
存在がないことで意識されることで
現実に立ち現れる存在
ヘミの言葉に皮肉にもリンクする
そして
三者三様のグレートハンガーは
どこか空虚で
各々の行動が
果たして満たされうるものを求めているかどうかすら
解らない
つまり
すべてが不安で不穏で地に足がついていない
燃やし
消失した事実だけが
明確な事実
しかし
その事実を持ってしても
彼らの満たされぬ渇望を埋めるものではないようだ
いい映画を見ると
いい映画を見ると、むしろ何も書きたく無くなる。
いい映画の後は、ここに投稿されたたくさんのレビューを読む方が楽しい!
村上春樹さん原作と、あとで知りました!
あるはずのものがない なかったものが現れる 喪失感 虚無感 そもそ...
あるはずのものがない
なかったものが現れる
喪失感 虚無感
そもそも『それ』は本当に存在したのか
懐刀のような
韓国と言えば、かねてから整形大国との定見だが、たしかに、やったひとは多いが、逆に素で端正な顔立ちのひとも多い。
韓国の映画やドラマを見ていると、それが分かる。
その裏付け──というか、漠然とした雑感に過ぎないが、韓国の映画/ドラマでは、子役がしっかりかわいい。選っている感がある。そこに事業としての裾野の拡がりを感じたりする。
子役がかわいいのは、素で整形を必要としていない──ことでもある。ドラマなどでチラッと映るだけの端役女優が、妙に綺麗だったりする。綺麗なひとが多いというのも、案外分かる。
女優には分化がある──と思う。
ひとえのナチュラル顔と、くっきりしたオルチャン顔で、たいてい後者だが、パクソダムやキムゴウンやハンイェリらも、大きな需要を担っている。
ひとえは民族と反整形の象徴であろうと思われる。パラサイトのパクソダムや、ユヨルの音楽アルバムのキムゴウンは魅力的だった。
かえりみると韓国女優に惹かれることがけっこうある。
思えば、ここ20年のあいだに見方が変わっている。
冬のソナタが猖獗をきわめていたころ、ヨン様人気で韓国ツアーをする女性らを、嘲弄的に見ていた。
国家間が混濁するのをよそに、いまやけっこうな若者が、韓国のアイドルやドラマの主人公たちに魂を持っていかれている。そしてその事態を、もはや嘲弄的に見ることなどできはしない。大人たちも韓国映画を認めざるをえないからだ。認めざるをえないどころか、パラサイトやスウィングキッズに、魂を持っていかれている。
かんがみれば、冬のソナタのころから、韓国は、国をあげてアイドルを養成し、映画学校を設え、配信事業を磨いてきたわけである。
おそらくあの当時にパルムドールという事業目標を掲げたのだ──と思う。
それとは対照的にわが国の映画のクオリティは・・・(以下割愛)
この前置きをしたのは、バーニングが2018年のパルムドールと目されていたからである。批評家で構成される仏機関誌がこぞって星を付けていた。くつがえしたのは審査委員長のケイトブランシェットである。万引き家族は対抗馬だったが、映画は素晴らしく、受賞に異存はない。ブランシェットの目にくるいはなかった。
が、おそらく韓国は煮湯を飲まされた、と思う。
映画には、モデルを兼業するユアインと、ハリウッドの成功者スティーヴンユアン。のほかにチョンジョンソという女優が出てくる。
とても印象に残っている。バニシングのサスキアのように、前半であらわれて、それから出てこなくなる。からでもある。
自棄的な感じもあり、淫奔な感じもある。切れ長で、ギラッとする。惹かれた。
冒頭。日本ではほとんど見たことがないが、店舗前でおへそをだしたキャンペーンガールが、くねくね踊って街宣をしている。その場末感の高いキャンペーンガールがチョンジョンソである。
主人公ジョンス(ユアイン)は鈍色の労働者。荷を諦観のように背負った疲弊した若者である。貧困と不充足の表現がうまい。
ヘミ(チョンジョンソ)はキャンペーンガールの仕事中、偶然会った同郷のジョンスに「整形したの。かわいいでしょ」と、あっけらかんと告白し、誘ってくる。二人で一服。紙コップを灰皿にしているので、そこに唾液をたらす。底辺な庶民感。原作を知らないので、どこまで再現なのかわからないが、冒頭からぐいぐい引かれた。
後からチョンジョンソが初出演だと知って驚きをおぼえた。どこにも出た経験がないらしい。が、堂々としている。カラーも出している。なにをしても牛刀を隠していそうなギラつきがある。
そして、切開し過ぎ(みたい)な超切れ長のひとえがギラりとする。怖い。彼女のそこはかとない怖さが、ミステリアスなバーニングを一層ミステリアスにしていた。と思う。
チョンジョンソの個人的な買いは、花嫁はギャングスターのシンウンギョンにとても似ているところ。
少し前パクシネと共演でスリラーを撮ったとプレビューされていたんだが。観たい。
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