存在のない子供たちのレビュー・感想・評価
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胸が痛くなる真実の衝撃作
レバノンの首都ベイルートのスラム街に暮らす少年ゼイン。
およそ12歳ぐらいだが、両親が出生届を出さなかったので、正確にはわからない。
先に傷害罪で少年刑務所に服役中のゼインが、両親を提訴した。
提訴事由は「自分を産んだこと」。
裁判の席で語られるゼインのこれまでの生活はすさまじいものだった・・・
というところから始まる物語で、監督は『キャラメル』の女性監督ナディーン・ラバキー。
ゼインをはじめ、綿密なリサーチと、役柄と境遇の似た素人が起用されており、ヌーベルバーグ的でもある(映画はレバノンとフランスの合作)。
一家の暮らす一室は、配管が壊れ、なにかあるごとに床が水浸しになる。
そんななか、何人の子供がいるのだろうか。
一家は、(たぶん)偽の処方箋を使って薬物を購入し、それを溶かして服に沁み込ませ、乾いた服を少年刑務所に服役中の年長の息子に持っていくなんてことをやっている。
少年刑務所では、乾いた服から薬物を絞り出して、それを売りさばいている・・・
また、ゼインには一歳年下の妹がいるが、妹は初潮を迎えたばかり。
ゼインはそれを両親に悟られまいとしている。
というのも、初潮を迎えた娘は、人身売買同然のように嫁に出されてしまうから・・・
と、ノッケから驚かされることの連続。
妹が嫁に出されそうになる当日、ゼインは妹を連れて逃げ出そうとするが、妹は両親に捕まり、ゼインだけ家から逃げ出すこととなる。
街をさまよううち、赤ん坊を抱えたエチオピア人難民のラヒルと出逢い、彼女の幼い息子の世話をすることを条件にラヒルとともに暮らすようになるが、ラヒルも難民というよりも不法滞在民で、偽の身分証明書をつくるのに金がかかる。
そうこうするうち、ラヒルは警察に逮捕されてしまう。
ゼインにはゼインなりの良心があるので、ラヒルの幼い息子を抱えて、どうにか命を繋ごうとするが・・・
と、もう、ほんとうに想像を絶する境遇の連続。
日本でも、存在のない子どもだけが生き延びる『誰も知らない』(是枝裕和監督)という映画があったが、そんな比ではない。
「身分証があれば、スウェーデンでもトルコでも行ける」という男(これも人身売買者だ)の口車にのり、身分証を探しに元居た両親の部屋に戻ったところ、ゼインには身分証などなく、さらには嫁いだ妹が死んだことを知らされ、妹を娶った男のもとへ包丁を持っていき、遂には男を刺してしまう・・・
服役中のゼインのもとに母親が面会に来るが、母親は「神は奪うだけでなく、新たに生命を与えてくださる」といい、自分が妊娠していることを告げる。
自分と同じような境遇の子どもがまた生まれるのか・・・というやり場のない怒り、それが冒頭の裁判での訴えに繋がっていく。
存在証明のないゼインは、最後の最後まで笑わない。
が、最後の最後だけ、笑う。
それは、刑務所での犯罪者としての証明写真を撮る際のことなのだが、理由はなんであれ、そこにゼインがいたことの証明である。
痛ましいが、少しほっとするような、複雑な想いがしました。
「誰も知らない」の上を行く当人の痛烈な叫び「生んだ親を訴える」レバノン映画
柳楽優弥じゃないけど、ゼイン役の少年が魅せる。年齢不相応な小柄な体格に反比例する頭の回転の良さとサバイバル能力が環境によるものだと見せつけてくる。 食えないから成長しない、でも弱ければここでは生きていけない。 ラーメン、ラーメンいうのが袋麵をそのまま齧ることだとは。 オピオイド鎮痛薬トラマドール、ゼイン役の少年が魅せる。年齢不相応な小柄な体格に反比例する頭の回転の良さとサバイバル能力が環境によるものだと見せつけてくる。 食えないから成長しない、でも弱ければここでは生きていけない。 ラーメン、ラーメンいうのが袋麵をそのまま齧ることだとは。 オピオイド鎮痛薬トラマドールはドラッグ代わり。 水溶液にして洗濯物に含ませて密輸とは 舞台設定についての説明が無い(ここがどこかよくわからないしレバノンの知識が無さすぎたので)ので公式サイトをじっくり読んでから観ることをおススメ。 レバノンの女性監督(弁護士役で出演) 原題は『Capharnaüm(カペナウム)』アラビア語でナフーム村。フランス語では新約聖書のエピソードから転じて、混沌・修羅場の意味合いで使われるとのこと。 役者ではなく似た境遇の人間を街でスカウト、3年間のリサーチ期間を経て、セットは最小限にしx撮影に6ヵ月、収録テープが520時間にも及んだという。ここまでいくともういっそドキュメンタリーの方がいい(いいという表現は正しくないかもしれないが)のにと思うが、キャストが皆魅力的なのでやはり演出の妙があるのだとも思う。 ゼイン役の子は家族そろってノルウェーへの第三国定住が承認され移住したとの事。 日本でもよくぐれた子供が毒親に「生んでくれなんて頼んでねぇよ」とか「何でオレ(ワタシ)を生んだんだよっ!」なんて言うシーンがあるが、こっちは更に切実。 日本にも戸籍のない人が1万人以上いるとか。しかもこの数字もっと多いかもしれない。 レバノンとシリアの関係性、エチオピア難民がレバノンに来る理由等分からなかった部分を補完したい。 映画では明確に難民ということはいっていなかった。とにかく身分を証明するものを持たない者たち。 スラム街(なのか?国自体がこんな感じ?)を真上から撮影するオープニング、いつもは摩天楼とか都会を映すよくある手法が場所が違うだけで・・・ 戦争ごっこの手作り銃がのきなみ拳銃ではなく自動小銃なのが切実 人身売買 幼児虐待 児童虐待 イスラム教 キリスト教 不法就労 裁判 TV報道
みんな"存在のない子供たち"
去年カンヌ国際映画祭ではパルムドール賞大本命だった、ナディーン監督の本作。結果は熟練の技が光る是枝監督の「万引き家族」に軍配が上がったが、本作は審査員賞を受賞した。
審査員長のケイト・ブランシェット様が語る去年のカンヌ国際映画祭のテーマは"インビジブル・ピープル"だそうだ。
確かに「万引き家族」も本作「存在のない子供たち」もテーマにはピッタリな題材を取り上げた作品である。
私は本作観賞中にウィリアム・デフォー出演の「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」を思い出した。
子供たちの日常を垣間見るような作風と、ドキュメンタリーにしか見えないその自然な人間模様に共通点を感じた。
しかし、私が本作が大傑作であると思うのが、本作にいくつか挿入されている瞬間的に感情を激しく揺さぶってくるシーンが忘れられないからだ。特にゼインが包丁を取り出し、走り出すシーン。そしてそのシーンの音楽。カメラワーク。完璧だ。素晴らしい。
音楽を手掛けるのはナディーン監督の夫であり本作のプロデューサーでもあるハームド・ムザンナル。
このエモーショナルな演出が他の社会派映画からも一線を画したところだと感じる。
両親を訴えるという展開は唯一のフィクション的な展開で、若干のコミカルさも足して重い雰囲気にならないようなバランスになっているのも良い。
そして本作が訴えかけるメッセージとは、この問題はゼインがのみではなく、彼らの親世代からすでに始まっている負の連鎖だというところ。それをこちら側に訴えかけてくる強いメッセージだと思う。
ゼインの両親も、ヨナスの母であるラヒルも、過去の存在のない子供たちであったのだ。
ゼインに向き合い、唯一手を差し伸べる弁護士を演じるのは本作の監督でもあるナディーン監督。
まさに、この問題を映画として作り上げる監督と、主人公に命を与えたゼイン(彼の本名でもある。)が手を取り合い、立ち上がる象徴的なシーンにも思えた。
辛い展開が続くが、ラストに待っているプレゼントに落涙。
しかし、この問題は何も解決していないのだ。解決させるのは映画の中ではなく、現実だということだ。
改めて素晴らしい映画だと思う。
すべての大人に突きつけられる現実
劇中、さり気なく語られていたけれど、私が一番記憶に残ったのは少年のこの言葉でした。
「親から受けた一番の優しさ、それは『クソガキ!ここから出て行け‼️』と言われたこと」
くどくどと説明することなく、この親子の関係の本質とこの少年の客観的で冷徹な視線(それはすなわち、この監督が意図したであろう、我々鑑賞者に求める視線でもあると思う)が鋭く伝わってきました。感情を揺さぶられた、で終わることなく、何故今このような現実、存在しない子どもたち、が存在するのか。それを情緒的に受け止めるのではなく、冷徹な現実理解から始めて欲しい、ということだと思います。
現実的な想定として、この映画で描かれているほどの環境に置かれた貧困層の方々は倫理観や道徳という概念を含めて、教育機会が限られており、子どもの将来に想いを馳せるなどという余裕も発想もないのが大半だと思います。親の責任、という概念自体、人類史の中でも比較的新しく獲得したものであり、近代の教育の成果だと思います。
そもそも有料で映画を観て、良心や思い遣りや慈しみなどの観点から何がしかの感情の揺らぎを覚える、という機会はかの親たちには訪れないのではないでしょうか。
ということは、この映画が本当に断罪しているのは少年の親たちではなく、この状況を他人事として看過している、或いは認識はあるのに何もできないでいる大人たち。このような映画を観ることのできる側に幸いにも位置できている、私を含めた大人たちなのだと思います。
150万人のシリア難民や数十万人のパレスチナ難民を抱えるレバノンと日本では環境が全く違うように錯覚してしまいますが、被虐待の状況にある女性や子どもたちへのケアが足らないということでは、大した違いはなさそうです。先日の野田市の事件は記憶に新しいし、『万引き家族』が描いた状況も各種報道から推測する限り、殆ど現実に近いようです。
別のレビューでも同じようなことを書いた記憶があるのですが、偉そうなことを言っても自分が今できることは限られています。もし児童虐待やDVが疑われる状況に遭遇したら、見て見ぬ振りだけは絶対にしない!と思っています。
両親の身勝手さを息子自らが法廷で訴えた秀作
レバノンを舞台にした作品だけに、息の詰まる作品であった。ゼインが法廷で発する言葉の一つ々々が驚きであった。極貧生活を強いられる家族のいきつく暇のない毎日に、観ている自分も、とてもじゃないが平常心ではいられない。暮らしを楽にしようとサハルを「身売りまでして」自分たちの生活を守ろうとする。戦前の日本も、世界恐慌の煽りを受け、自分の子供を売りに出して生活していた。そんな時代が、未だ平然とおこなわれいるとは、あまりにも酷な時代に生きていることであるし、このような時代に生れてこなけれいけない、逃れられないということには、世間は変わりつつあると思われていたが、それは先進国のことであり、貧富の激しい国においては何ら好転していないことに身につまされる。
ゼインの「僕は今、地獄を生きている」という逃れられない現状を、私たちは、「映画」という媒体で、氷山の一角として知るしかないことに、ただの「虚しさ」と、本当に存在する「カオスの世界」を垣間見ることだけしか出来ない。そして、自分がいかに非力であるかを思い知らされた。
育てるつもりもなく私を生んだ両親を訴えます
映画:CAPHARNAOM (アラビア語でカオスの意)
レバノン映画
邦題:「存在のない子供たち」
2018年カンヌ国際映画祭パルムドール審査員賞受賞
2018年アカデミー賞外国語映画賞候補作
ストーリーは
ベイルート。子だくさんのレバノン人家族が小さなアパートで暮らしている。父親に定職はなく、母親は、違法ドラッグを刑務所にいる男に差し入れして利ザヤを稼いでいた。小さなアパートに7人の子供たちが折り重なるように眠る。そして早朝から子供達は小さな体で大人顔負けに働かなければならない。12歳のザインは スクールバスで同じ年頃の子供達が学校に行くのを横に見ながら、自分の弟達や妹たちを連れて、野菜から作ったジュースを道端で売ったり、商店の配達を手伝ったりして僅かな賃金を得る。
ある日仕事を終えてアパートに戻ると、にわ鶏が何羽か届いていて、14歳になったばかりの姉が口紅をつけ化粧して中年の男の前に座らされている。ザインは怒って、姉の口紅を落とそうとするが、姉はすでに親に売られていくことを覚悟していて、ザインの抵抗を避け別れを告げて去っていく。
ザインは1歳年下の妹と特別に気が合って可愛がってきた。妹もザインを頼りにしていて、いつもザインの後をついて歩いている。ある朝ベッドに血痕をみつけたザインは、妹を洗面所に連れて行き、汚れた下着を洗ってやりながら、どんなことがあっても起こったことを親に言わないように命令する。そしてマーケットから盗んできたパッドを妹に渡して、汚れたパッドを家のゴミ箱に捨てないように、誰にも見つからないように捨てるよう言い渡す。ザインは妹を連れて家出する計画を立てる。しかし、間に合わなかった。マーケットでいつもザインの母親に色目を使っている商店主が、ザインの宝だった妹を連れ去る。妹は、ザインに助けを求め泣き叫びながら連れ去られた。ザインはたった11歳の妹を、わずかな金で売り渡した両親に絶望して、妹と乗って逃げる筈だった長距離バスにひとり乗る。目的地などない。下りたところは遊園地だった。そこで仕事を探して回るが、大人たちは誰も相手にしてくれない。
遊園地で掃除婦をしているラヒルは、腹をすかせたザインを見るに見かねて食べ物を与えるが、彼女はエチオピアから密航してきた違法難民で、生後1歳に満たない赤ちゃんをもっている。遊園地で働く間、バスルームに赤ちゃんを隠していて、職場の行き帰りは荷物カートで赤ちゃんを人目に触れないように連れて帰り、人にわからないように育てていた。遊園地で寝泊まりし、飢えていたザインを彼女は家に連れて帰り、赤ちゃんヨナスの世話を頼む。ラヒルはスクウオ―ターのような小屋に住んでいて、ヨナスが泣くと居られなくなるので、ザインはヨナスを泣かさないように、外にも出ないようにしてミルクを飲ませ、おむつを替えて、退屈して泣かさないように世話をした。
しかしある日、ラヒルは違法労働者狩りにつかまって警察署に連行される。ザインはヨナスを連れて遊園地やラヒルの知り合いのところを探し回るが、彼女の行先がわからない。商人は、赤ちゃんの世話に手を焼くザインの様子を見て、赤ちゃんを売らないか、ともちかける。ザインは家に戻り、昔母親がやっていたように違法ドラッグを手に入れて、それを薄めて売り、小金を作り赤ちゃんを食べさせていく。しかし家賃を入れていなかったので、ザインとヨナスは家を追い出されてしまう。家を失い、ザインは、ヨナスを自力で育てていけなくなって、遂に商売人の処に行く。イエメンの金持ちが子供を欲しがっている、と言われてザインは泣く泣くヨナスを置いて去る。ザインは同じストリートチルドレンの花売りが、身分証明書か、パスポートがあればスウェーデンに移住できると言われて、身分証明書を取りに、二度と帰らないつもりだった家に戻る。
迎えた両親は激高して、ザインを罵倒し殴る。身分証明書が欲しい、生まれた時の病院の証明書が欲しいというザインに向かって、両親は子供のために病院になど行ったことがない。たくさんの子供の生年月日などいちいち憶えていないし知らない、と言ったあと、父親が、病院に行ったのはザインの妹だけだ、と口を滑らせる。商人に売られて、ザインの助けを求めて泣き叫びながら去っていった妹は、買われた商人の言うままにならなかったため、食べ物を与えられず鎖に繋がれ、餓死同然で病院に運ばれて死んだのだった。ザインは、とっさに包丁を握ると商人の店に向かって走る。
刺された商人は車椅子生活者となり、12歳のザインは傷害罪で5年の懲役刑を言い渡される。ザインは法廷で、裁判長に求められるまま発言する。「僕は両親を訴えたい。人は尊重され、愛されるために生まれて来た。生まれてきた子供を育てられないならば、親は子を産むべきではない。」ザインは、どうして両親を訴えるのかと裁判長に問われて、「何故って ぼくが生まれて来たから。」と答える。
というストーリー。
カンヌ国際映画祭で映画のあと観客が総立ちで、15分間拍手が止まなかった、という話の通りのパワフルな映画だった。12歳の子供の口から出る正真正銘の「正しい言葉」のパワーに取りつかれて、映画の後もしばらく立ち上がれなかった。
「自分は12歳の今まで親から尊重されもしなければ、愛されもしなかった。生まれてきたこと、そのものが間違いだった。自分は罪を背負って生まれて来た。しかし生まれて来た子供を育てられないならば産んではいけない。育てられない子供を産んだ両親は罪に問われ、罰せられるべきだ。」子供が自分の身をもって証明した正論を、泣きじゃくりながら言うでもなく、叫ぶように訴えるでもなく、達観した哲学者のように淡々と裁判長に向かって言う子供の姿に胸がつぶれる想いだ。
一人としてプロの役者が出演していない映画。みな撮影場所の近隣で、普通の生活をしていた市井の人々を使って制作した映画。ザインの役を演じた12歳の少年の名は、本当にザインと言う名で、レバノンに住むシリア難民、8年間難民キャンプで暮らした少年だそうだ。フイルムは12時間の長い作品だったが、それを2年間かけて2時間半の作品にしたという。資金のない独立フイルムのため、制作者カルド モザナールは、自分の家を抵当にいれて映画製作をした という。パルムドールに選ばれたカンヌで、この映画の女性監督、レバノン人のナデイン バラキは、流暢なフランス語でアラブ世界に住む女性として、これからも女性の人権問題や貧困について発言していかなければならないことが多いが、ひるんではならないと立派なスピーチをしていた。
子供がひどい目に遭うということが、この世で一番許せない。世の仕組みも、金融資本家が人を牛耳り、トップ26人の超富裕層が全世界の総資本を独占している現状も、軍需産業が肥え太るために、世界各国に戦争の火だねを故意に撒き散らしていることも、全く知らずに生まれてきた子供たちが、自分達は何の罪もないのに飢え、殺され、ひどい目に遭うことが許せない。12歳の子供が、親から違法ドラッグ造りを強制されたり、配達を命じられていった先でレイプされそうになったり、理由もなくぶん殴られたり蹴られたりしても、ザインは決して泣いたりせず超然としていた。その子がエチオピア人の掃除婦に拾われて赤ちゃんの世話を任されて信頼感が生まれていたときに、彼女が家に戻ってこない。再び自分が棄てられたと思って、少年は初めて泣く。このシーンが哀しくてたまらない。そんなザインが決して自分とは赤の他人の赤ちゃんを捨てようとせず、懸命にミルクを手に入れて、働いて金を作り赤ちゃんを育てようとする。この映画の批評に、シーンごとに泣きます、と書いてあったが、本当。うなずける。ワンシーンワンシーン、しっかり泣かされる。
映画の中でザインは一度として、文字通り一度として笑顔を見せなかった。しかし、彼の画面いっぱいの笑顔で映画が終わるのだ。刑務所の中で身分証明書が作られる。お望みの身分証明書が作られるんだから、カメラに向かって笑って、と係官に言われて初めて見せるザインの笑顔の何と、今にも壊れそうなデリケートで、やわらかな少年の笑顔、、、。そこに低音で響くチェロの独奏。また涙。
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