存在のない子供たちのレビュー・感想・評価
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少年の強い瞳
主人公の少年の瞳が観客を射抜く。この映画を観ているあなたは、世界の残酷さについて何を知っているのかと終始問いかけてくる。貧困の中で生まれた少年は、絶望的な環境に自分を産んだ罪で両親を告訴する。子は親を選べない、誰も産んでほしいと頼むことはできない。生を受けることは素晴らしいことだと余人は言うかも知れないが、この過酷さを前に同じことを言えるのか。
主人公を演じる少年は、シリア難民だそうだ。10歳のころから家族のために働いていたところを監督にスカウトされ出演することになったそうだが、この少年の全身から発する、本物の過酷さを知るオーラがこの映画を支えている。少年は絶望的な状況でも生きることを諦めない。その瞳にはなんとしても生き抜くんだという強い決意が宿っている。
近年、レバノンから傑作映画がいくつか生まれているが、これはその中の最高峰の一本だ。
ゼインの瞳が貧困層の深い絶望を映す
まるで地獄を見続けて、並みの怒りや悲しみをはるかに超越したかのような、主演の少年ゼイン・アル・ラフィーアの冷めたまなざしに目を奪われ、圧倒される。ナディーン・ラバキー監督が原告側弁護士役を演じた以外は、主要なキャラクターのほぼ全員に、役と同じような境遇の素人を探してきて演じさせたという。いや、カメラの前で存在させたと言うべきか。劇映画でありながら、彼らの訴えや涙は本物なのだ。
レバノン映画と言えば、「判決、ふたつの希望」もまた、裁判が進むにつれ社会の深刻な事情が明らかになっていく構成だった。レバノンの映画人は、国の特殊な事情の中にある人類普遍の問題を、法廷映画のスタイルで世に訴える術を獲得したようだ。そういえばラバキー監督が主演も兼ねた「キャラメル」で恋人役を務めたアデル・カラムは、「判決…」の主演の1人だったし、国の映画界のつながりの中で互いに影響を与え合っているのかもしれない。
カペナウム
あらためてみると演出は冷静だった。裁判所で陳述がなされた後に、その成り行きがフラッシュバックのように描かれる。証言と過程が羅生門のようにセットで進行していく。
さいしょの両親の陳述の時には、既にすべてが済んだあとで、ゼインはじぶんを産んだことを咎めて両親を訴えている。
そこから倒叙でゼインの暮らしが描かれる。
木の銃で戦争ごっこをやりタバコをふかす。家主のアサドの仕事を手伝って家計を助ける。鎮痛剤のトラマドール塩酸塩をつぶして溶かした液を服に染みこませて刑務所の麻薬中毒者に売る。11歳の最愛の妹サハルがアサドに売られたことが不服で家を出る。遊園地でエチオピアからの不法労働者ラヒルに会い、幼い息子ヨナスの子守をするかたちで同居するがラヒルは当局に収監されてしまう。しばしトラマドール溶液を売ってしのいだがバラックを閉め出され、にっちもさっちもいかなくなって移住と引き換えにヨナスを移民ブローカーのアスプロに売る。帰宅してサハルの死を知る。婚姻してすぐペドフィリアのアサドに妊娠させられ大量出血して亡くなっていた。衝動的に包丁を持ち出しアサドを切りつけ刑務所へ送致される。ゼインは刑務所からテレビ番組に電話をかける。
『両親を訴えたい。大人達に聞いてほしい。世話できないなら生むな。僕の思い出はけなされたことやホースやベルトで叩かれたことだけ。いちばん優しい言葉は「出て行けクソガキ」。ひどい暮らしだよ、なんの価値もない。僕は地獄で生きている。丸焼きチキンみたいだ。最低の人生だ。みんなに好かれて尊敬されるような立派な人になりたかった。でも神様の望みは僕らがボロ雑巾でいることなんだ。』
本作は衝撃的内容によって名作になったというより技術と構成によって観る者の心を深くえぐる映画になった。叙情を抑えて叙事につとめた。冷静だった。
ロケの臨場感にこだわっていて街ではけっこうなカメラ目線があつまるのがわかった。ヨナスのベビーカーはスケートボードに鍋をのっけたものだ。それを小さく痩せたゼインが引いて歩く。12歳にして顔に悲しみが刻まれたゼイン。原題Capernaumとはかつては存在しイエスが多数の人々を癒やしたとされる伝道の村だが、今そこはボロ雑巾のように虐げられる町だった。
存在のない子供たちを見た同時期に21世紀の女の子(2018)という日本映画を見た。新進の若手女性監督によるオムニバス映画だった。持ち時間10分に満たないショートだが凡庸かつ未熟でいずれも早送りしたくなるほどつまらなかった。だいたいにおいて21世紀を標榜しておきながら新しい手法を使っているわけでもなかった。腹が立ち、以来しばしばレビューで21世紀の女の子を引き合いにして、こき下ろした。
言いたいのは女であることで品質が寛恕されることを目論んでいることへの下劣さ。能力もないなら何を汲んであげられるのか。
海外には実力と個性をもった女性監督が台頭している。つまり日本の監督はナディーン・ラバキーと資質を比較できるのかという話である。
ガーウィグやビグローやソフィアコッポラやセリーヌシアマやエメラルドフェネルやクロエジャオなどなどと比較できるのか。
女性の社会進出が遅れているのなら性資本をつかったアピールをやめるべきだ。男社会が提供してくれた補助輪に乗ってみずからを女の子と言ってしまう姿勢に腹が立った。
そのようにして、存在のない子供たちを見たときに感じた懸隔・格差がある。とうぜんレバノンの貧民街と日本社会とくらべたときの差を強く感じたが、同時に映画づくりの能力差も痛感した。
ゼインの住む世界はわれわれの日常からは考えられないような過酷な世界だが、転じてじぶんが甘い世界を生きているような気分になったのであり、その気分を未熟な日本映画にぶつけたわけでもあった。
カンヌ映画祭の下馬評ではこの映画もしくはイチャンドン監督の村上春樹原作バーニングが濃厚との予測があがっていたが審査委員長ケイトブランシェットは是枝裕和の万引き家族を選んだ。依存はないが悩ましい選択だったと思う。ただし存在のない子供たちもパルムドール格とされる審査員賞をもらった。
存在のない子供たちの最終的な目的は貧困や内戦やテロや内政の混乱からくる普遍的な理解だと思う。サバイバルを物語の中心に据えることでゼインとヨナスは火垂るの墓の清太と節子のようにも見える。ゼインは困窮に懸命になって対処しようとするがサハルが売られみずからもヨナスを売って諦観の境地へ入ってしまう。最後の最後にゼインが初めて笑顔をみせたとき、彼があどけない子供だったことを知って愕然となった。
imdb8.4、RottenTomatoes90%と93%。
俺たちは虫けらなんだ!! 少年ゼインがひたむきに生きた証を描いた作品
レバノンのスラム街で出生届も出されずに
育った子供たちがいたけれど、
自分の妹や、幼き子供たちを愛して生きてきた
人生の路、強い存在が感じられたストーリー
でした。
学校に通うことも出来ない、小さな体で
過酷な労働を強いられながら、ひたむきに生きる少年ゼインの姿がありました。
ゼインの妹であるサハルがアサードに売られて
しまったときのショック、傷付いた気持ちは
計り知れないものだったと思います。
不法就労、人身売買、証明書の偽造、薬物
人間が生きていくために
精神的に追い詰められていく状況を見て
心の痛む苦しさを思いました。
ゼインが証明書を取りに自分のアパートに
帰ったとき!
真実を知って自分を生んだ両親を恨む気持ちが少年のゼインの表情から窺うことができました。
裁判で争うことになった場面は
ゼインの父親のセリームの台詞が罪を犯さなければ生きていくことが出来なかった状況と
感情を強く感じ取りました。
ゼインが自分の母親に対して言った
『人の心が無いのか?』
という言葉が心に突き刺さりました。
社会の闇を見る人に訴えかけるストーリーでした。
傑作
ゼインの生活を知ってしまった以上、誰もがもうこの映画を観る前の自分に戻ることはできないだろう。
「愛」なんて入る余地がない過酷な状況の中、彼は小さき者を愛し守った。ゼインの愛と機知と勇気こそが、我々人類の光(神)だ。
カラマーゾフの兄弟のイワンの、矛盾を突いた名言を思い出す。“幼い受難者のいわれなき血を必要としている神など、絶対に容認するわけにはいかない”
“永遠の調和のためにこの幼児たちの苦しみが必要だというのなら、自分はそんなに高価な犠牲を払ってまでして入場しなければならない社会の入場券など突っ返したい”
虐待するだけで心のない両親へのきっぱりとした訴えは、そのまま、矛盾が爆発しながら放置する人類全体への訴えとして私は聞いていた。
圧倒的な環境に為すすべなく屈するのか、それでもできることを探し抗うのか。
子は宝。だが、”宝”の意味はそれぞれ違う。
子を働かせて、子を売る親。
ゼインの両親は、私たちから見てそう見える。
それでも、彼らにとっては、代々続いてきた生き延びるための知恵。
両親とも、IDがなく、正業に就けず、商店主・アサードの情けにすがっている。
アサードは、この地の風習として、少女婚をごく当たり前のことと思っていた。体が成熟していないうちの妊娠・出産が、母体と胎児にどんな影響を与えるかわからずに。
ー 日本だって、『源氏物語』の頃は、サハルくらいの年で結婚していた。初潮があると、裳着の式を行い、結婚できる年齢になったことを周知して、婿が来るのを待つ、もしくは入内。中世のヨーロッパだって…。だから、母が出産後の肥立ちが悪くて亡くなり、世界中、こんなにも継子いじめの物語が多い。
両親も、娘を”売った”という意識はないだろう。持参金をたくさん払える男に嫁がせる。持参金をたくさん払える=生活資金がある、生活が安泰ということだ。日本での婚約指輪も同じ発想。また、アサードの舅・姑になることで、”情け”を確実にもしたかったのだろう。自分たちの地位のための姻戚関係なんて、日本でもざら。結婚による口減らし。木下監督の『楢山節考』でも、後妻は「あちらで食べさせてもらえ」と早急に嫁がされてきた。
貧乏の子だくさん。子は労働力。だからたくさんほしい。乳幼児死亡率も高いだろうし。
ジュース売り。大人が売るより、子どもが売った方が売れる。『スラムドック$ミリオネア』を思い出した。
店の手伝い。子どもの方が賃金が安いから、雇われやすい。
という、事情があるにしろ、父は…。
母は母なりに、子どもの面倒は見てきたのだろう。7,8歳くらいにしか見えないゼイン。栄養状態が悪く、実年齢より小さい。栄養状態どころか、衛生面でも不安なこの家で、病気等で亡くした子はいない。子どもたちの中で、サハルが初めて病院に行ったというように、大きな病気をせずに育ててはいる。
とはいえ、「出ていけ!」と言われたのが一番やさしい言葉というようなやり取りとは。
IDはともかく、誕生日も覚えていない両親…。弟妹のと混乱しているのではない。
ゼインを拾ったラヒル。
偽造IDを買って、子を育てながら働く。母国に残してきた母に送金し養うために不法労働している。
不安定な状況は似ている。しかも、ヨナスの父は、ヨナスの写真を見ることもなく「迷惑」と言い切る。母国の母にも仕事が変わったことを言っていない。電話での会話や裁判の証言からすると、ヨナスのことを自国の母にも言っていないのでは…。
そんな苦しい不安定な中でも、ヨナスの誕生日を祝うラヒル。ラヒルとヨナスのやり取りは、見ているこちらも幸せになってくる。
そんな、ラヒルとヨナスを見て、ゼインはどう思ったのだろうか。
不安定ながらも続くと思った生活。でも…。
帰ってこれない事情を知らないから、帰ってこないラヒルにイラつきながら、ヨナスの面倒をみるゼイン。たくさんの弟妹を育ててきた経験が役に立つ。
母の母乳しか受け付けないヨナス。氷に粉ミルクをまぶして与えるゼイン。TV。自家製乳母車。etc. なんて賢い子なんだ。材料の調達法はともかく。
ゼインがかってにつけたTVのアフレコが悲しい。ああいうやりとりしか知らないのだろう。
ゼインは、どうしてヨナスを見捨てないのか。小さきものへの愛?ヨナスにサハルの姿を見ていたのか? ラヒルへの思いからか? 自分を慕ってくれる者、自分が大切に思うもの、誰か(ラヒル)が大切に思うものを守り抜こうとするゼイン。
そうやって頑張っているのに追いつめられる。
援助対象の哀しい格差。なりすましがやりきれない。
なんとか合法に暮らしていこうとしたが、だが…。
すぐに違法行為に手を出していないところが、ゼインを抱きしめたくなる。
メイキング映像・特別映像等を見ると、
ゼイン役のゼイン君が「子どもを見捨てるようなそんな人たちがいっぱいいるよ」「子どもを頼っているような人たち」…「育てられないのになんで子どもを作るんだ」と本気で言う。 自分の身の回りにいた人たちを参考にして演技したそうだ。
父を演じた人が素で子どもたちのことを語る時の眼差し。アスプロを演じた人が「私たちの人生を表現してくれた」という。母を演じた人が「私たちの苦悩を語った」という。
「誰が欠けてもこの作品は作れなかった」この映画に関わった人たちが、本気でこの映画の意義を認めて参加した作品。思いがたくさん詰まった映画。
ゼイン君自身は、ラヒルのような両親に育てられたのだろう。スウェーデンに家族と一緒にいくと喜ぶ。
それでも、「映画の人たちは僕を人間として扱ってくれた」という。ゼイン君にあんな眼差しをさせる、圧倒的現実。何を見て、経験してきたのだろうかのだろうか。
その中で、現状を受け入れあきらめてしまった映画の中での両親。
あがきながらも、道を見つけようとするゼインとラヒル。
せめてものラストがうれしい。
でも、現実は映画の中でのゼイン君のような子どもたちはたくさん存在する。
★ ★ ★ ★ ★
これは、ベイルートの話で、遠い国の話のようだが、日本にだって
”大人に頼られている子どもたち”はたくさんいる。
昔流行ったアダルトチルドレン:子ども化した親の代わりに、子ども時代から大人の役割をさせられて、子ども時代に”子ども”として過ごせなかった人たち。実際に大人の代わりに家事をした等というだけでなく、心理的に大人を支えた子どもたちも含まれる。
そして、今、福祉・教育の現場で大きく取りざたされているのが、ヤングケアラー。こちらは、大人も頑張っているが、子どもも介護や保育等の担い手として、”子ども”としての時が持てない子どもも含まれる。本当は友達と遊びたいのに、祖父母の面倒をみないといけないから遊べないとか。いわゆる”手伝い”の範囲を超えて、責任を持たせられている状態。
どちらも、親から頼りにされて、家族の中での地位を得て、本人が自己効力感を得ている場合もあるが、それでも子ども時代に経験するべきこと:大人に安心して頼り、場合によっては、甘えられないことが、その後の人生に大きな障害となって現れることが多いので、今、問題視されている。
また、「生理用品も買えないくらいの貧困」も取りざたされるようになって久しい。
派遣等の不安定収入の場合もあるし、病気等で働き手がいない家庭もいるし。”育休”取得が取りざたされて久しいが、それ以前に「保育園に預けた子が熱出したので早退を」と気軽に言えない職場。場合によってはリストラ対象になる社会。
教育は無償化の方向に進んでいるが、学用品費の納入がなくて、肩身の狭い思いをする子どもたち。場合によっては授業が受けられない。給食が1日のメインディナーであっても、それは給食費が収められてこそ。ブラック企業に勤めてしまい、課税申告ができずに、減免制度が使えない親。パチスロ等に使ってしまう親…。
虐待。身体的虐待が解りやすいが、心理的虐待:ゼインが両親から言われていたような言葉を浴びせられて育つ子のなんと多いことか。
ゼインと両親のように初めから基本的安心感の関係がない子どもも今は多い。思春期・青年期の自我ができてからの暴言と、自我ができる前の乳幼児期・学童期にこれらの言葉を浴びせられて育つのとでは、自尊心の持ち方が全く変わってくる。人との関係の持ち方が全く変わってくる。
そして、親のために生きる子どもたち。
その受験は何のため?誰のため?自分の力を試したいからと、受験やアスリート他、困難に挑戦する子ども、それを応援する親ならまだわかる(それでも『ファーストポジション』の、子に奉仕する自分に酔っているミコの親は毒親だと思うが)。”点”がすべてなのか?
また、友達親子。親の手のひらから抜け出せなくなってしまっている子どもたち。子どもの方が上手な場合もあるが。
親の価値観の中で生かされる子どもたち。
児童扶養手当をもらうために、子どもを産み続ける夫婦。世話は長じた子どもに任せている。
親の都合で戸籍ない子どもたち。
「離婚後の法律のせいで」という主張はもっとものようだが、離婚が成立してから子を作ればいいだけだと思う。離婚がしづらい状況は様々ではあるが。
他にも、信条・宗教がらみで、本来他の子と同じように享受できる権利を奪われている子どもたち。
国の施策に翻弄されて、戸籍がとれない難民…。
★ ★ ★ ★ ★
この映画のような圧倒的現実を前にすると、自分の無力さを感じてしまう。
ゼインの両親のように、圧倒的な環境に為すすべなく屈するのか、
ゼインやラヒルのように、それでもできることを探し抗うのか。
砂漠に水をまくような本当に本当に小さな関り。
その子の環境の抜本的な解決にはならない。
それでも、滝平二郎氏著『半日村』みたいになるかもしれない。
やらないより、まだましだろうと思う。
この映画を生み出してくれた方々、届けてくれた方々に謝意を表します。
リアリティがある
実話ではないが、実際に難民だった子供をスカウトして主演にしたらしい。
こんな可愛い子たちがこんな悲惨な目に、、
親が反省してないのが悲しい。
「育てられないなら子供を産むな」
12歳のこの言葉は重い、、
ゼインがまともな家族に産まれてたらどんな人生だったんだろう。めちゃくちゃしっかりした親顔負けの子育てしてた。
赤ちゃんのお母さんが牢屋でゼインを見つけた時は泣けた。
2人とも無事でよかった。
重そうな映画だが、実際希望のある終わり方だったから落ち込むような映画ではない。
存在感のある子供たち
子供が少な過ぎて国の一大事になっている国があれば、子供が増えすぎて満足に育てられない国もある、世界とは実に歪な構造を成している。
世の中は不公平であるといっても埒が明かない。子供はどんな国で生まれ、どんな親に育てられるか選択ができない。劣悪な環境から抜け出そうと努力をしても、ほぼ絶望という状況だってある。
少女の強制結婚、子供の人身売買、不法移民など、この映画で扱われている社会問題は、日本には馴染みの薄いものだが、育児放棄や虐待のニュースが後を立たない日本の現実を考えると、決して他人事ではない。子供を労働力としかみなさず、愛も教育も与えない親がいる国で起きていることは、形を変えて、世界のすべての大人の責任を問いただしているように思われる。
不法移民であるシングルマザーの幼児の面倒をみることになった少年が、スケートボードに鍋を括り付け、さらに、その鍋の中にベビーカーのごとく幼児を座らせ、街を移動する姿は、壮絶である。少年も幼児も存在のない子供たちである。少年は両親が出生届を出さなかったため、幼児は母親が不法移民のためであるが、たとえ戸籍はなくても、映画の中での存在感は際立ち、並の人間を凌駕している。
ドキュメンタリーを超える、ゼインの眼差し。
とにかく胸が苦しく、辛く、悲しくなる作品。それだけリアリティがあり、よく出来ている作品ということ。
幼いゼインの過酷な日々、そんな中で唯一の心の拠り所だった妹との辛い別れ。家を出た先で出会った母子との、穏やかな日々も長くは続かず、また更に残酷な現実が待ち受けている。絶望の淵に立っても、それでも諦めず、なんとか生き抜こうとするゼインの強さと優しさに、本当に強くこころを打たれた。
中高生に見て欲しい
学校で、避妊とか、望まない妊娠とか色々授業を
眠りそうになりながら受けたが、
この映画を見れば、
私にはより突き刺さると思いました。
あくまで、私ですが…
タイヤの乗った屋根の連なる街が
映る場面が特徴的でした。
ゼインは、別に生意気な子供でも、
大人から見て可愛くない子供でもない。
子供として生きることを許されなかった
1人の人間のような、
疲れたような眼差しだった。
それでも嘘をつくところなど、
本当に子供な部分もありやるせなかった。
最後の彼の言葉も突き刺さった。
彼の合間に見られる笑顔救われてしまう私は
やはり日本という恵まれた場所に生きて、
笑顔を見せれば幸せになれるという
甘い価値観を持っているのだなと思う。
12歳のゼインが、カッコいい
「僕を生んだ罪!」。
12歳の原告ゼインは法廷で訴える。
ベイルートの貧民街で、妹を、親がわずかなお金で売り渡してしまい、妹は弄ばれた挙句病死する。ゼインは激怒しその男のところに行き、ナイフで刺してしまう。
この世に生を受け、社会人へ最初の一歩を導くはずの親が軽蔑と憎悪の対象なのだ。
ゼインは家を飛び出し街をさまよう。バスに乗る。大人に言葉をかける。頼みごとをする。身構え、はったりやウソもつきながらさまざまな大人に出遭い、いろいろ経験する。
それらの大人たちに悪意や狡猾さだけ感じるのではなく、ゼインの目には大人たちの哀しさややさしさも映る。
場面がすすんでいくうちに、私はゼインが本当の生きる力をもったカッコイイ「大人」になっていく姿に感動していた。
何処の国の人の話?!反出生主義的な諸問題。
内容は、レバノンの🇱🇧難民地区に住む人々の様々な貧困問題を主題に、12才ぐらいの少年を主人公とした生活の社会問題を映画化。好きな言葉は『心を無くしてしまったの?!』で少年が自身母親に刑務所の面会で話す場面。大人よりも大人らしい少年の内面からの叫びが痛い。でも、それを考え行動出来る事が少年の運の良さであると思うし感謝するべきです。当たり前の様に物語が進んで行きますが、そう感じました。好きな場面は、最後の刑務所に入る時に初めて自分の身分証明書が造られる事への微妙な喜びからの複雑な引き攣った笑顔の場面が印象的です。存在のない子供達が、存在を認めてくれるのは社会的犯罪に手を染めた時という事が非常に心苦しい限りです。原題の犯罪街。神様に見捨てられた街を暗喩している様で深い。貧乏は状態で貧しく困る貧困問題を解決しなきゃ何にもならない様に感じました。貧困問題が難民地区含めて全てのそこ深くにある様な気がします。様々な国の人が行き交う中東という地域的に複雑な土地では、島国日本には🇯🇵考えられない異国人問題があり、自己主張として自分が何人かと説明出来ない人々が大勢いるのは、自分自身の常識に一瞬の複雑な風を吹かせるのを、最近急に小さくなった世界で思わされました。
もう他の映画を観なくてもいいと思えた素晴らしい作品
私は世界で起こっていることを何も知らないんだと思い知らされた。
実際にシリアの難民だったというゼイン少年。
国から子供をたくさん産めといわれ、育てる能力もないくせに安易に子供を作りあげく、売り飛ばす無責任な親。けれど彼らもまた社会の被害者なのかも。
強者が弱者から搾取する社会。
映画を観終わったあとしばらく放心状態だった。
何かしなければ、と思うが何をしたらいいのかわからずにいる。
辛い
辛すぎて一気に観ることが出来ず、数日に分けて観た。
主人公はスラム街に住む家のシリア難民の少年。クシャッとした髪が可愛い男の子だけど、その幼さとは裏腹に大人以上に一生懸命自分の人生を生きようとしている。
俳優達は実際に役どころと近い境遇の素人を使ったそうで、この主人公の少年も実際にシリア難民だったそう。主人公役の少年は今はノルウェーに家族と移住し、学校にも通い、また、新しい作品にも出演しているそう。180度違う生活になった事だろう。
育てられもしないのに無責任に子供を沢山作る大人達。
本当に、何故そんなに子供を作るんだろう…。
涙なしには語れない
中東レバノンの幼児虐待、人身売買、児童労働、難民、不法移民、不法就労、
不当搾取を鋭利に描く社会派ドラマです。
■「両親を訴える―僕を産んだ罪で。」
両親を告訴するという衝撃的なオープニングから心を鷲づかみ。
■小さな男の子のたくましい姿に泣ける
中東の貧民窟に生まれたゼインは、両親が出生届を出さなかったために、
自分の誕生日も知らないし、法的には社会に存在すらしていない。
学校へ通うこともなく、物心ついた頃から兄妹たちと路上で物を売るなど、
朝から晩まで両親に働かされている。
そして家を出てから1人で生きていこうとするゼインのたくましい姿に
心を打たれます。
■子供が赤ちゃんの面倒をみるなんて・・(´;ω;`)
しかも他人の赤ちゃん。お世話になった人の赤ちゃんではあるけれど。
自分が生きていくのにも必死なのに、赤ちゃんまで。。。
自分と同じ状況の赤ちゃんを放っておけなかったのかも。
小さな身体で赤ちゃんを抱っこしながら歩く姿を見て泣けてくる。
■赤ちゃんに癒される
とっても可愛い赤ちゃんヨナス♥
めちゃくちゃ可愛いくって無邪気な表情を見ると
この笑顔を守ってあげたいと本気で思います。
■実話ではないけど、キャストは近い境遇の人が演じている!
主人公を始め出演者のほとんどは、演じる役柄によく似た境遇にある
演技未経験者が集められました。
すごくないですか?ド素人なんです。なのにこの素晴らしい演技は?!
ゼインくんも妹役のサハルちゃんもシリア難民。
ラヒルを演じた女性は、戦乱のエリトリアからエチオピアに逃れ、
働き口を求めてレバノン入国した不法入国者。
ヨナスちゃんは、レバノンで出会ったナイジェリア移民の男性と
ケニア移民の女性の間に生まれた子。
■監督も弁護士役で登場
監督は女性で、後半に弁護士役で出演しています。
■平和ボケしていたことに気づかされる
こういう作品を観ると、日本がどれだけ恵まれているのか分かります。
だってこの映画は2018年制作です。古いお話じゃない、つい最近の映画。
世界に目を向けなければならない・・と思った。
映画でこんなに泣いたのは久しぶり。
感動の涙じゃなくて・・とにかく悲しくて、心が痛いです。
私は過去にセーブザチルドレンに寄付をしたことがありますが
平和な世界になるように私たちがやれることを、もっと考えたいです。
多くの人にこの映画を知ってもらいたいと思いました。
ミスリードですかね
育ちの悪いクソガキが旅に出る、癇癪を起こして逮捕され、悪いのは親が原因だ!という胸クソ悪い映画。
多くの方は子供環境についての評価が多いです、悪い結末にはなってますが貧困家庭では幼い娘が裕福な家庭へ嫁ぐことは良いことだと思います、日本では農家に嫁ぐ境遇と似ている気がします、中には姑から労働力として扱われ不遇扱いをされたりと良くは無いが生きることはできると思います。
ゼインは学校へ行くこと、労働することもできるが神様(イスラム教?)次第だと父親は言う。もしかすると親は学がなく学校へ行くことで貧困から抜けれる可能性を分かっていないかもしれないが周りの境遇を自分に置き換えたり、親を訴えるほど頭が良い少年が自ら望まないのが引っかかる。
タイトルからすると黒人女性のラヒルの違法就労や赤ん坊のことをフォーカスしたいのだろうけどゼインのクセが強すぎて話が入ってこない、どうしても主役をゼインとしてみてしまうので難民の子供について掘り下げれてないなーと思った。
「僕を生んだ罪で、両親を訴えたい」
主人公の少年の天才的な演技と、まるでドキュメンタリー映像と思わせる様な手法でドンドン引き込まれていく。
育ちの環境は、後々の人生に大きな影響を与えるが、子どもは自分の育つ環境を自ら選ぶことができない。
本来、社会の仕組みの中で、子どもたちの育ちの環境を保障するべきだが、移民、貧困の中で出生届けすら無く、貧困から抜け出すための多子家族の中で、親からの愛情が無い中で子どもたちは育っていく。
果たして日本はどうだろうか?
7人に1人の相対的貧困家庭、年間の虐待相談対応件数は19万件。
親と暮らす事ができない子どもたちは45000人。
その多くは児童養護施設で生活している。
子どもたちの育ちの環境を保障する社会には程遠い。
この映画を通じて日本の社会で身近に出来ることは何か、改めて考える機会になった。
印象に残る映画
レバノンが舞台?なのかな。貧困層の居住区なんだろうけど、まず町並みとか生活環境に目を奪われた。
予告無しで観始めたけど、あらすじを読んでから観た方がわかりやすいかも。
世界的には人身売買というのが実は社会問題になっていて、遠く離れた国ではこれは日常事なのかとも思えてしまった。
今と過去が交錯する展開だけど、混乱はしなかった。
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