ドッグマン : 映画評論・批評
2019年8月20日更新
2019年8月23日よりヒューマントラストシネマ渋谷ほかにてロードショー
本作が映し出す“小宇宙”は、個人のレベルを遙かに超えた“世界そのもの”だ
まず、冒頭の異様な光景に唖然とさせられる。海辺に打ち捨てられたビーチリゾートの残骸。生命を感じない緩慢な地獄。これはナポリの北西約30キロにある“パルコ・サラシェーノ”という廃墟で、マッテオ・ガローネ監督は「ゴモラ」などの過去作でも好んで撮影に使ってきた。そして「ドッグマン」ではこの不吉なゴーストタウンが、登場人物たちが暮らす“閉ざされた小宇宙”となる。
主人公は“ドッグマン”という犬のトリミングサロンを営むマルチェロという中年男。犬と娘を愛し、ご近所の誰にも愛想がいい人畜無害な存在だが、シモーネという札付きの乱暴者のせいでたびたびトラブルに巻き込まれてしまう。
このシモーネという巨漢は、マルチェロだけでなく、門外漢であるはずのわれわれ観客をも威圧し、萎縮させてしまう。隆々たる筋肉、他人を歯牙にもかけない凶暴な態度、「人の物は俺の物」という身勝手な要求の数々。シモーネは“理不尽な暴力”として、この寂れた町で猛威を振るう災厄そのものなのだ。
しかしマルチェロは、シモーネに対して従順な飼い犬に成り下がり続ける。主体性がない弱者であるマルチェロにとって、シモーネの圧倒的なパワーは憧憬の対象ですらあるのだ。しかし大切にしていた日常が壊され、シモーネに向けた愛憎入り交じる感情すらも否定された時、本作は冷え冷えするような復讐劇へと舵を切るのである。
本作は現実に起きた陰惨な事件から着想を得ているが、ノンフィクションや再現ドラマではない。ガローネ監督は人体実験のように主人公をこの町に閉じ込め、観察し、「純粋な暴力は人間にどんな影響を及ぼすのか?」という命題を考察している。ラストの展開も脚本には書かれておらず、撮影を進めながら決めていったのだという。
馴染みのある例えを挙げれば、本作は「ドラえもん」からのび太とジャイアンの関係性だけを抽出し、圧力釜で煮詰めた暗黒バージョンだ。人間の弱さ、卑小さを戯画化するアプローチは時にギャグの領域に達しさえするが、われわれ自身の身にも覚えがあり過ぎるだけに、底知れぬ恐怖がじわじわと湧き上がるのを抑えられなくなる。
しかもガローネ監督は、本作にさらに多くのレイヤーを重ねている。例えばシモーネが着ているジャケットの背中に描かれた「Uncle Sam」の文字。「アンクルサム」とは超大国アメリカを象徴する存在であり、また別の住人はキリスト教モチーフの服まとっている。つまりこの映画の人間関係は、そのまま“現実社会”や“世界”の暗喩であると捉えるべきなのだろう。ガローネ監督は「解釈は観客に委ねたい」と語っているが、生半可な解釈など許してくれなさそうな、実に噛み応えのある怪作である。
(村山章)
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