劇場公開日 2019年6月14日

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「演技の「強度」と「精度」」旅のおわり世界のはじまり ウシダトモユキさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5演技の「強度」と「精度」

2019年6月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

笑える

怖い

役者の演技の(上手い / 下手)を測るモノサシは2種類あって、ひとつは「演技の強度」というモノサシと、もうひとつは「演技の精度」というモノサシがあると思ってる。

「強度の演技」は、泣いたり怒ったり叫んだりという、いわゆる“熱演”と言われるものや、キメどころでバシッとキメるという“カッコ良さ”で観客を魅了する。昔の映画や俳優は比較的この「強度」というモノサシ優先で設計されて作られたり、評価されてきたような気がする。演じる男優や女優がイケメンだったりキレイだったりすると、その要素は「強度」に加算される。だから現代に評価されている昔の俳優は、二枚目や美人が多いんだろうと思う。

「精度の演技」は、例えば悲しみと怒りの中間の感情とか、好きと嫌いの混ざった気持ちとか、登場人物の微妙な心情を、目線やまばたきや表情のニュアンスで精密に再現する。「目は口ほどに物を言う」なんて言葉があるけど、例えば「目の大きい俳優」がスクリーンでアップになると、スクリーンのうちの「目」が占める面積は大きくなり、その面積が大きく見開かれたり、細く伏せられたりすると登場人物の心情がより観客に伝わる。僕が個人的に「精度の演技が上手いな」と思う俳優は、目や他の顔のパーツが大きい人が多かったりする。

正義のヒーローや、絶世の美女や、凶悪な犯罪者というようなキャラの濃い登場人物は、「強度の演技」で見せられるのが面白い。

普通の社会人や、冴えないおじさんや、その辺にいそうな若い娘というような登場人物は、「精度の演技」で見せられるのが、リアルで感情移入しやすい。

「強度」と「精度」のどちらがエライとかいうわけではなく、それはその映画が登場人物にどちらの要素を求めるかによって変わってくるのだけど、多くの観客が理解して評価しやすいのは「強度」のほうであると思う。

『旅のおわり世界のはじまり』は、「精度の演技」がスゲー!と唸った映画。

「普通じゃないはずの前田敦子の、演技の精度がスゴすぎて、“普通の女の子”にしか見えない!」

これがこの映画のイチバンの見どころであり、絶対の成立条件なんだと思う。
「前田敦子が“素”で演ってるだけじゃね?」なんて言う人がいるかもしんないけど、“素の前田敦子”なんて元AKB不動のセンターだもん、普通の女の子なわけねーよって話。

「じゃあ、普通の女の子連れてきて“素”のまま演らせたらいいじゃん」って言う人もいるかもしれない。でも映画を撮るっていう異常な状況の中で、普通の女の子が普通でいられるわけがない。ドキュメンタリですら普通の人は普通じゃいられないのにって話。

つまり、劇映画のスクリーンに“普通の女の子”を再現するのはスゲー技術が要ることで、それが普通にできてる前田敦子はスゲーって話。

そもそも“普通の女の子”って何だよ?って。そんな定義はないはずなのに、スクリーンに映ってる前田敦子は普通の女の子にしか思えない。それはつまり“概念としての普通の女の子”を「精度の演技」でもって具現化してるってことだと思う。

中でも僕が特にスゲー!と唸ったのは、序盤に出てくるグルメリポートの場面。ウズベキスタンのチャーハンみたいな料理を食レポすることになるんだけど、店のおばちゃんがグズって、ちゃんと加熱してないお米がカリカリのチャーハンが出てくるの。で、スタッフが感じ悪く料金倍増しして交渉するんだけど、結局、そのお米カリカリチャーハンを食レポすることになる。

カメラが回って前田敦子は、「お肉がやわらか~い!野菜の甘みが・・・」とか頑張って食レポする。この時の前田敦子の「演技の精度」がハンパない。

スタッフに雑に扱われてる悔しい気持ち、
やるしかないから開き直ってる気持ち、
ゴネてるおばちゃんにイラッとする気持ち、
ていうかこの米のカリカリは「ないわ〜」という気持ち、
でも自分の芸能活動の成功に向けて頑張ってる気持ち、
でもその頑張りもいいように利用されてることが薄々わかって情けない気持ち、

そんないろんな気持ちを言葉で伝えるようなモノローグはない。
しかも口に出せるセリフは「お肉がやわらか~い!野菜の甘みが・・・」って食レポ。
さらにスゴいのはその食レポが“微妙に下手”っていうこと。

いったいいくつの感情の表現を同時にやってんの!!?って。

1ミリたりとも良い場面じゃないのに、僕は感動しちゃった。

「黒沢清監督の新作映画」としてはどうだったか?
全体としてはちょっと意外な仕上がりの「白い黒沢映画」だったけど、「オレの見たい黒沢節」はシッカリあった。
黒沢清監督独特の、「コワさ」と「おかしさとヤダ味」の演出。

「コワさ」としては、前田敦子が夕食の買い出しにバザールに出かける場面に顕著。その帰り道の暗いこと、コワいこと・・・。別に幽霊的な何かが映り込むわけでもないし、ギャング的な何かが襲いかかってくるわけでもない。ただ裏通りに入った瞬間の「黒い暗さ」!コワい!!
子どもっぽい歩き方、車道を横切る時の危なっかしさ。前田敦子が“普通の女の子”だからヒヤヒヤ心配!!

「おかしさとヤダ味」については、冒頭から序盤、件のチャーハン場面も含めたTVクルーたちのキャラが、おかしいくらいに淡々としていて最高にヤな感じ!
前田敦子を置き去りして、遅れて来た前田敦子を誰もチラリとも見ない。リポートに対するダメ出しも冷酷なくらいに無感情。過酷な撮影後にまずチェックするのは、前田敦子の体調じゃなくカメラの状態。別にスタッフ誰一人として前田敦子に意地悪でもなく、罵声を浴びせるでもなく、ハラスメントしてるわけでもないのに、笑えてくるくらい感じワルイのが絶妙。あの遊園地のアトラクション(?)の場面なんて、直視するのがキツイくらいの残虐さだった。地獄!!

でも本作はホラーでもスリラーでもない。だからコワさやヤダ味の「黒沢節」は、この映画のメイン要素じゃない。それゆえ「いつもの黒い黒沢映画」を求めて観た人にとっては「物足りない」とか「コレジャナイ」とか、なんなら「つまんない」という印象を持つかもしれない。

本作の物語は「普通の女の子が、自分の進みたい道に歩き出すまでの話」。タイトルになぞらえて言うなら「“ここではないどこか”を探す旅が終わり、周りの人を認めて自分の足を地につけた世界がはじまるまでの話」。大きな事件(東京湾は別にして)も、不可解な謎も、ラスボスとの対決もない、登場人物も多くないシンプルな物語。それを120分の尺で描くと、どうしたって淡白な映画になるし、飽きちゃう観客もいるだろうと思うし、実際映画サイトで叩いてるレビュアもいる。

でも僕が120分を退屈することなく楽しめたのは、前田敦子をはじめとする加瀬亮、染谷将太、柄本時生の「演技の精度」がスゴかったからだ。しかも加瀬亮も染谷将太も柄本時生も、登場人物として身体も感情も「あまり動かない役柄」だから、その分「動いて物語を牽引する役柄」は前田敦子が一手に背負うことになる。

起伏の少ない物語が、120分という尺の中でダレがちになりかねない“間”を、前田敦子の演技で見せ切っているということだ。

これは黒沢清監督にとって、けっこうな賭けなんじゃないかなと思うし、それは役者に対する信頼と自信があるからだと思うし、その賭けに対して前田敦子はキッチリ応えてる。

「演技の精度」というモノサシを持参して、是非劇場で楽しんでもらいたい作品だと思う。

ウシダトモユキ(無人島キネマ)