告白小説、その結末のレビュー・感想・評価
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結末までイライラする。
そう言う事かとわかるまでイライラする。 主人公は次の作品がなかなか描けない小説家。 そこに若くて美しいファンが近づいて来る。 客観的に見てもこの女、なんか偉そうでムカつく。 それなのに主人公は信用して、 ネタは見せるは一緒に住みだすは、 メールも勝手に出させるし、 パソコンのパスワードも教える、 ノートも開けっ放しだし、 日記も手の届く所に、 ミザリーの現代版と思って観てた私は、 主人公!お前が全部悪い!何が起こっても同情しない!と 思ってたら、大間違い。 そこには大きな理由がありました。 流石のポランスキー。 すっかり騙されました。 最後にようやく分かりました。 自分の読解力のなさが嫌になりました。 ただ、イライラするのでもう観たくはない。 やっぱり不自然過ぎるもの。
女の目的は
ゴーストライターの女が女流作家に近づき、全てをコントロールし、毒を盛ってまでも、自分の目的を達成するストーリーなのでしょうか。それとも、全て妄想?
不思議な余韻が残る映画でした。
途中から女流作家のエマニュエル・セニエが平野ノラさんに見えてきて・・・
私には難しい映画でした。
有名な女流小説家が、ある女性と出会い意気投合。同居することになるが、その女性の言動を影響され始め・・・という物語。 一言で言えば不気味な映画です。少し精神的に病んでいる小説家、その小説家に言葉巧みに近寄る女性エル。エルの不気味さがとても良く表現されていて秀逸です。 ラスト、大きな謎を残してのエンディングは個人的には好印象です。 ただ、上記の批評は鑑賞終了後のもの。実を言うと鑑賞中は「つまらない」「鑑賞するのがつらい」と感じていました。正直、似非映画愛好家の私には難しい映画だったのかもしれません。
『ミザリー』風かと思っていたら・・・
終わってみると色んな解釈が出来そうな作品。こういった映画を観終わった後でカフェに入って語り合うのがいいなぁ。でもココアなんかに殺鼠剤は入れないでね!
小説家の熱烈なファンというだけで、『ミザリー』を思い出してしまうのですが、もっと精神的な葛藤があり、主従関係が逆転したりして、最終的には彼女“ELLE”は何だったの?と小説家の妄想世界にやられてしまう。
もしかしたら、ELLEというのがデルフィーヌの分身であり、彼女本人の世界を乗っ取ってしまったような二重人格による不条理も感じられる。顔や年齢がとにかく違うのだから、“成りすまし”なんてのもあり得ないし、パスワードを教えたりノートの存在を教えたりと人を信じすぎる主人公。「ノートが・・・ない」なんてのもわざとらしい。結局はネタに苦しんだスランプ状態が引き起こした架空の存在と想像できるし、骨折したり毒を飲んだり側溝に落ちたりと、自虐的行動も面白かったりする。。
このようなサイコサスペンスはまるでフランソワ・オゾン監督が得意とするもので、ポランスキーの名前を隠していたらオゾン作品だと信じてしまいそうだ。いや、オゾン監督だと打ち明けられていたら、「またかよ!」となりそうだが・・・
スターチャンネル無料放送鑑賞。 なんやねんこの女、何を企んでるんだ...
スターチャンネル無料放送鑑賞。 なんやねんこの女、何を企んでるんだ、エル。 作家も作家や、何でこんな奴信用すんねん。簡単にパスワード教えんなよ!何、同居開始してんねん! この不可思議な二人の女の関係が終盤まで謎のままに続く。イライラすんで! そしてラスト。なるほど…しかしなんとなくスッキリせんなぁ。もっとスカッと驚愕させて欲しい。フランス🇫🇷系の映画には無理な要求だな(笑)
まあまあ
エヴァ・グリーンのこういうシリアスで美しい役がなんかめちゃ妖美でいいと思った。熱狂的なファンが自分の思い通りの小説を書かせよう?と思ってめちゃ猟奇的な行動を取ってなんか怖いけどなかなか面白かった。
【エヴァ・グリーンの蠱惑的な魅力溢れるサスペンス・ミステリー作品の佳品】
エマニュエル・セニエを完全に脇役にしたエヴァ・グリーンの蠱惑的な魅力溢れる佳品。 デルフィーヌ・デリュー(エマニュエル・セニエ:今作監督の、ロマン・ポランスキー監督の現在の奥さんですね・・)は売れっ子女流作家。 新作の構想も進まないデルフィーヌはサイン会を早々に切り上げ、出版会の会場で出会った”熱狂的なファン”だという美しい女性に会う。意気投合した二人。デルフィーヌが本にサインをしようと名前を尋ねると、その女性はエル(Elle)と名乗る・・。”Elle ” :フランス語で”彼女”・・・。 デルフィーヌの家には、彼女を非難する匿名の手紙の文面。その内容は彼女と亡くなった母親とのつらい記憶を蘇らせる。 電話番号を教えていない筈のエルから電話が入るが、会って話をするとエルの機智に富んだ会話に引き込まれていくデルフィーヌ。 スランプが続くデルフィーヌ。そんなある日、エルが彼女の向かいのマンションに越してくる。そして、エルの誕生日会に呼ばれるが、デルフィーヌ以外誰も来ない・・。 (何だか、不穏な空気が凄いのだけれど・・) デルフィーヌの公私を支えるような立場になっていくエル。 家主から、急遽立ち退きを迫られたというエルは、デルフィーヌと同居することに・・。もはや、エルなしではいられないデルフィーヌ。徐々に、デルフィーヌの私生活に入り込んでくるエル。 そして、徐々に精神の均衡が破綻している様を見せ始めるエル・・。 (怖い、怖い、エル綺麗・・デモ怖い・・。脳内リフレイン・・。) エヴァ・グリーン演じるエル(Elle)の、美しいが多くの謎を身に纏うエレガンスな姿、特に吸い込まれそうな、瞳に魅了された。 彼女は一体何者だったのか。 色々な解釈ができるストーリーも、私は大変面白かった。 <2018年10月5日 劇場にて鑑賞(セカンド上映)>
人は印刷された言葉を信じる
映画「告白小説、その結末」(ロマン・ポランスキー監督)から。
主人公の「エル」が実在したのか、妄想なのか?
彼女が、実在したのなら「デルフィーヌ」に接近した目的は?と、
一回観ただけでは、私の疑問は解決できなかった。(汗)
いつものように、ストーリーと外れるけれど、
気になるフレーズをメモして振り返ったら、
「人は印刷された言葉を信じる」と
「どんな作家も3面記事を題材に。なぜだと思う?
信頼できる情報だからよ」が浮かび上がった。
それだけ、印刷された書物や新聞記事の影響は大きく、
講演会で聴いたいい話やラジオ、テレビの放送とは違うことを
端的に表現していたと思う。
最近、映画の冒頭で見かける「事実に基づいた物語」のフレーズも、
この人間の心理を引きつけるには申し分ない。
たとえそれが「フィクション」であっても「ノンフィクション」だと
勘違いしてしまうほどの力を持っている。
だからこそ、誰もが気にも留めない新聞の三面記事であろうと、
実際に起きた事実だからこそ、作家は題材にしようとする。
そういうことなんだろうな、この作品で言いたかったことは。
どこかで観ました
ポランスキーなので、もっとこう「えっー」みたいなものを期待してましたが、皆様のレビューにもあるとおり、私も「ファイト・クラブ」と「スイミング・プール」そのままだと思ってしまいました!主人公の苦しみの描写は「ファイト・クラブ」に勝るものは今のところないと思っているので、物足りなかったです。
あるようでない進展
ロマン・ポランスキー監督独特の世界観というか、日常を描いているのに雰囲気が異常 というのはやっぱりあるなぁと思いながら観ていた。
エバ・グリーンがセクシーで、いつも身なりが美しくてため息が溢れるほど!こんな女性に擦り寄られたら、同性でもころっといっちゃう。
でも、そんな簡単に軟禁状態に迄なりますか?というのも腑に落ちなければ、エルに意外とヒステリックな程の熱意があるにも関わらず結局主人公とどうなりたいのか、どうしたいのかが見えてこないまま明確でないエンディング(そもそもELLEは存在したのか?)を迎えて、サスペンスと呼ぶには肩透かしを食らうし、かといってエロティックですかと聞かれると決してノーだし…。いまいち分からないけど、再度見返すモチベも湧かないかな。
2通りの解釈が並存可能
主人公の前に現れた謎の女性,"Elle(エル)"は,主人公の妄想に過ぎなかったのだろうか。それとも実在する女性だったのだろうか。
投稿された複数のレビューを読むと「エルは主人公の妄想」と断定するものが多い。しかし「どちらの可能性も、劇中で与えられた情報からは否定できない」というのが正しいと思う。どちらの解釈も許容されるようなやり方で,この映画は作られている。
例えば冒頭のサイン会のシーンを取り上げてみよう。
「エルは主人公の妄想」派は,次のような点を根拠にあげるかもしれない
① サイン会場には多くの人が訪れているはずなのに,エルの背後には誰も写っていない
② 会場には多くの人がいるにも関わらず,環境音が存在しない
③ サイン会は中断されたにも関わらず,エルはどうやって主人公の目の前までたどり着いたのか。どうしてエルはスタッフに静止されなかったのか
まず①に関して注意すべきことは,カメラの位置である。サイン会の場面では,カメラは基本的に主人公の顔の位置に固定されている。一般のファンは主人公の顔の高さまで身をかがめて主人公に話しかけるので,背後に列を作っている他のファンもカメラに収まる。しかしエルだけは身をかがめず,直立不動のまま,上から目線で主人公に話しかける。そのため座ったままの主人公の顔の位置にあるカメラは,エルを見上げるような角度で,天井を映し出すことになる。そのため背後にいる観客が仮に存在していたとしても,映し出されずに済むのである。エルが直立不動で主人公に話しかけていることは,主人公がわざわざ立ち上がって返答していることからもわかる。エルの背後に観客が存在していたかどうかは,視覚的情報からはわからないのである。
また②に関して「これは環境音を絞る演出である」という言い訳をすることができる。映画やドラマでは,実際は環境音が存在しているにもかかわらず,音が一時的に絞られることがある。例えばパーティに参加した主人公が女の子と目があって一目惚れするシーンなどである。この映画でも,主人公がエルを一目見た瞬間に何か特別なものを感じたことを強調するために,実際には存在する環境音を,主人公の意識が遮断し,エルの顔をじっと見つめていることを強調するために音を絞ったのだ,とも言えるのである。そのため音声情報からも,エルの背後に群衆がいたかどうかは判断できないのである。
③に関しては,「スタッフはファンを解散させるのに気をとられて,主人公の方を見ていなかった」とでも言い訳することができる。サイン会の中止が宣言されてからエルが主人公の目の前に現れるまで,エルと主人公が会話してから主人公が再び群衆に囲まれるまで,が描かれていないので,なんとも言えない。
サイン会のシーンと同じようなことは,他の場面についても言える。
・カフェの店主がエルに視線を向けず,言葉もかけないのは,エルが主人公の妄想だからである
・電車から降りた主人公を,乗客が見つめているのは,妄想のエルに対して主人公が独り言を言っていたからである
・エルのマフラーの色が,主人公のものと同じである
・Elleの机の上の道具の配置が,主人公の道具の配置と反転対称になっているのは,主人公の妄想だからである
・エルのブーツ,服装,髪型がだんだんと主人公と同じになっているのは,主人公がエルという妄想の人格に支配されていくことを表している↔︎エルは実際に存在し,主人公を支配していく
・ガソリンスタンドで,高校の司書は主人公に対して「講演をすっぽかした」「中止の連絡もしなかった」と言った。つまり講演は実施されなかった。司書はエルには声もかけなかった。エルは高校の司書の顔も知らなかった。それゆえエルは主人公の妄想である↔︎エルは実在し,高校の講演に行くと嘘をついて実際には行かず,主人公の評判を下げようとした。
・隣人と主人公,司書と主人公が会話するとき,エルは不在である
・主人公はギブスをしたままでも運転できるはずである↔︎運転は難しい
『ナインスゲート』『ゴーストライター』を思わせる,ポランスキーらしいミステリアスな作品だと思う。
参考映画
『ファイトクラブ』(1999)
『シックスセンス』(1999)
『複製された男』(2013)
『二重螺旋の恋人』(2017)
比較すると面白い
オゾン監督「スイミングプール」と仕掛けが似ている。
作家のスランプ、苦悩は想像以上のものなのだろう。
編集者がいてもパートナーがいても孤独の闇の中から何かを生みださなければならない。
ポランスキーのまさに逸品
プライオリティー・マックスのポランスキー作品。 調子を崩した女性作家がファンと称する女性にずけずけと踏み込まれ、心までも壊されていく。大変な悲劇を予感しつつ、どこまで行くんだ、どこで終わらせるんだ、とドキドキしながら観た。 「フランティック」で神秘的とも言える美貌を放ち、ポランスキーと結婚までしてしまったエマニュエル・セニエはやはり魅力的な女性だ。いい歳のとり方をしていた。 そしてエバ・グリーンがとにかく怖かった。彼女の強烈な個性は貴重だ。 ポランスキー、やっぱうまいわ〜
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