希望の灯り : 映画評論・批評
2019年3月26日更新
2019年4月5日よりBunkamuraル・シネマほかにてロードショー
無機質な世界さえ愛おしく感じられる、われわれの眼差しを優しくさせる映画の力
「なんとドイツ映画にホアキン・フェニックスが!」と目を疑った人間はわたしだけではないはずだ。どれだけ似ているかは本編で確認していただくしかないのだが、少なくとも何か場違いの所に生まれてしまった居心地の悪さや、にも関わらずどこかで周囲の人間の心を捉えて離さない秘められた優しさのようなものと、彼を閉じ込める「居心地の悪い」閉じられた社会をその優しさによってゆっくりと変えてゆく力のようなものを、ホアキンと同様にこの映画の主人公からも感じられるのではないかと思う。
舞台となるのは巨大スーパーマーケットの店内。映画の8割くらいがその中で語られていく。その「閉じられた社会」に主人公が雇われるところからこの映画ははじまるのだが、もちろんこの映画の主人公は無法者でもスーパーマンでもなく、社会への適応不能者に近い存在で、つまり彼の社会的な「無能さ」が周囲にちょっとだけさざ波を起こすと言ったらいいか。彼に仕事を教える男、彼を見初める女性従業員など、彼が何もしない、できないことによってはじめて彼と関わりはじめる。「何もしない」というアクションを、彼は無意識のうちに行っているのだと言いたくもなる。
その中で彼らの背景が少しだけ見えてくる。もちろん多くは語られない。背景がほのめかされるくらいなのだが、それで十分なくらいに閉じられた社会の向こう側の世界の広がりが一気に見えてくる。ドイツの歴史、人類の所業、現代人たちの抱える悩み。主人公とともにそれを垣間見たわれわれが次にスーパーの風景とそこで働く人々の姿を見たとき、商品はいつものようにそこにあり、人々はいつものようにそこを動くだけにも関わらず、でも何かが違う。少しだけ垣間見たそれらの背景が、われわれの眼差しを優しくさせるのだろうか。無機質だった世界の姿が愛おしく感じる。それこそ今われわれに最も求められていることなのではないだろうか。映画はいつもこんなやり方で、われわれと世界を救ってくれる。
(樋口泰人)