万引き家族のレビュー・感想・評価
全235件中、81~100件目を表示
レビューを書かずにいられない
感じ方は人それぞれだしあまり人の意見は否定したくないけど、正直「犯罪が肯定されている」って理由で低評価をつけている人には憤りを覚える。これを観て真っ先に出てくる感想がそれ?
この映画は(愛や家族の形までが)規律でがんじがらめになった息苦しい世の中への警鐘を鳴らすために、家族の絆や愛情を世の中で嫌悪されるようなゆがんだな家族の中に根付かせて表現している。(と感じる)彼らはニュース番組で見ると意味不明で不気味で不幸な家族。(家族ともいえないかも)結果として世の中の固定観念によって「あるべき」とされる姿に無理やり戻されてしまう。
彼らはみんな世の中で孤立していて普通には暮らせない。お金を稼ぐ能力も乏しく、頭も悪い夫婦は万引きを繰り返す。そしてそのままにしておくと亡くなってしまったかもしれない子供たちをバカだから誘拐してしまって、彼らなりの精いっぱいの愛情かけて身を寄せ合って、貧しくそれでも幸せに暮らしている。
金が稼げなくて頭が悪くて、でも思いやりや純粋な愛情をもった犯罪者家族を一体どうして「でも犯罪でしょ?」の一言で全否定するの。あなたは彼らのように思いやりのある幸せでいつも笑顔な家族が作れるの?虐待から一時でも女の子を救った事実はどうなの?
犯罪の被害にあったらそうは言えない?彼らが盗んだのはいつもカップヌードルやシャンプーやお菓子だよ。そんなに全力でたたかないといけない事?他に生きる方法をしらなかった人たちをただ「犯罪者」で済ますのってあまりにも心がない。
そこを見逃す人ばかりになってほしくない。
とってもいい映画です。どうかあなたにも人を思いやる気持ちをもって作品を見てほしい。
是枝監督の次回作も楽しみにしています。
グランプリはどうかと思うが良い映画だ
評を読むと皆さん清廉潔白に生きていらっしゃるようで、人生に一度も犯罪を犯したことがないようである。
この映画のテーマは現代の家族の稀薄性もあるが、親の立場で見ては本題にずれてしまう。ラスト子供二人で終わっているように、子供にとっての家族の存在意義を問いているのである。いや、もっと言えば親の在り方だ。
子供にとって家族とは血で繋がっている必要性はあるのか?犯罪者であろうと親の資格はないのか?私はラストの子供がこれからどうなってしまうのか、幸せになれるのかホトホト心配になった。犯罪集団にとどまっていた方が幸せになれたんじゃないのかと。
警察の捜査(=正義)を法治国家なんだから当たり前だと思ってるだけの人は可哀想な人である。
もちろんだからといって犯罪を犯してよいわけではないけどね。
邦画の中では好きな映画です。
この映画は凱旋上映を含めて2回見てきました。家族全員が血縁がない家族で万引きをしないと生きていけない、そんな悲しい家族を映画にしていて虐待を受けていた子供を守るために誘拐する部分がとても感動的でした、樹木希林最後の遺作をもう一度スクリーンで見ることができてとても幸せでした。出演者もリリーフランキーや安藤サクラ、松岡茉優等の演技派がそろっており、特に松岡茉優の体当たり演技が良かったです。あとは安藤サクラの演技がずば抜けていました、今まで見てきた邦画の中では1番好きです。個人的な評価は10点中8点です。子役の演技もよくて松岡茉優や樹木希林の演技に高評価です、欠点は最後に虐待を受けていた子供の最後があまり触れられていなかったのでとても惜しい映画でした。
個人的には是枝監督の中でも上位争い
樹木希林さん安藤サクラさん。もっともっと共演して欲しかったと心から思います。
樹木希林さんの最期の砂浜での表情と、
お母さんと呼ばれたかったの?と聞かれた安藤サクラさんの表情が忘れられません。
エンタメではないので
仕方ないっちゃあ仕方ないが、想像する以上の展開を見せなかったのも事実。
監督の考える着地点というのを提示せず、世間で起きている問題をそのまま見せて放り投げている、という見方もできます。
解決できない問題をそのまま提示するのであれば、ドキュメンタリーでもいい。
フィクションならではの着地点を提示しなかったことに、若干の不満も覚えます。
この絶妙な隔靴掻痒感→終わったあとも観客に考えてもらいたい、という監督のメッセージなんでしょうけど、劇映画には劇映画なりの落とし前が必要なのでは?
「スイミー」がモチーフなら、やはり力を合わせて大きな魚に立ち向かうところが燃えるのでは?
事実を基にした「タクシー運転手」がフィクショナルな「盛り」を加えたのとは対照的。だからって鑑賞後には重たいものが心に残らないわけではないので、私はそっちの方が肌に合うなあ。
映画としての偏差値は韓国映画に引けを取らないと思うので残念です。
その意味では「三番目の殺人」の方が楽しめましたが、あれではパルムドールに届かないのですね…。
これを高級リゾートであるカンヌで、お金の唸っているセレブ達が観て涙している…と想像すると、なにやらうそ寒い光景ではあります。
たとえばですが、実家に戻されたりんちゃんが死んでしまい、それが社会にどう波紋を投げかけるかというところまで描いても良かったのではないでしょうか。
安藤サクラの背中のラインが美しい
もう何も言えることはない。
きっと現実にない訳じゃない物語かと思うと目をそらしたくなるほどの。
いわゆる幸福から見放された人々が血縁なしに寄り添い支え合って暮らす重く救いようのないストーリーと結末。
印象に強く残ったのは、リリー・フランキーの「俺には他に教えるものはないから」のセリフの重み。
あまり可愛いと思っていなかった安藤サクラがものすごく美人に見えた作品。
負の連鎖、唯一の救いはそこから抜け出せるかもしれない子供、若者
この映画にメッセージがあるとすればこれだと思う。私はそう受け取った。
複雑な現代社会の中で身を寄せ合って生きる擬似家族、その絆が素晴らしいとかそんなことではない。子供の時に教育を受けられなかったり、愛を与えられなかったりするなどの事情があり、彼らなりのやり方で生きてゆくしかない不器用な大人たち。正直、見ていて辛くなるし、後味も悪く、見なければよかったとさえ思った。しかしこういうことは現実にあるのだ。
幼い時に、十分に愛されないということは、決定的に大きなハンディキャップである。それを自分の努力で埋めることはとてつもなく難しい。治は正統な努力の仕方がわからなかった。もう変わることは難しいオジサンだ。オジサンは難しい。信代は母になることで変われるかも、と思っていたのかもしれない。でも、「ウチらには無理だった」と言う。亜紀はまだ若い。似た境遇の青年と出会ったことは彼女にとって良いことかどうか?必要な経験だろうか。希望の星は祥太。賢く、学ぶ力もあり、自ら別の環境に行くことができた。りんはひと夏の想い出を胸に、ここではないどこかへ行きたいと思いながら育つのだろうか。
信代が、りんのおねしょを臭い、というところからの下りが一番キツく、胸が痛んだ。幼少期に虐待を受け、過去に正当防衛で人を殺しそれを悪いと思っていないということで彼女が少し解った気がした。常に生きるか死ぬか、やらなければやられる、という環境で生きてきて、他人への思いやりや愛の表し方を知らない。しかし彼女には生きる力があり、全ての罪を自分がかぶるという選択をした。彼女にもまだ前途があると信じたい。
カンヌへの思いが見え隠れ
全体的な感想は、構想も俳優も良いのに演出が残念だった。
日本人には敢えて説明不要なシーンがちょこちょこ入ってくるので、その都度シラけたし、外国人が分かりやすいように演出されているのが見て取れた。
俳優さんの演技が素晴らしいのに、撮影と演出の影響なのか、その良さを最大限に活かせてないのが残念。影響が少なかったのか、それともそれを上回る演技力だったのか、松岡茉優さんと城桧吏くんの演技には際立つものがあった。
樹木希林さん演じるお婆さんと城桧吏くん演じる祥太、それぞれ別のシーンだけど、口の動きで気持ちを伝えるシーンは敢えて表情のみで伝える方がよりインパクトが残ったのになと思う。
祥太をパチンコ店にあった車内から連れ去ったことを夫婦が告白するシーンでは、その背景にある社会問題を説明しないと外国人の観客には、それがどうして夫婦が祥太を救ったことになるのか意味が分からなかったと思う。強いて言うなら、それはラムネのビー玉のシーンを冗長するよりはもっと大事なことだったように思う。
観客はこの監督が思っているよりも洞察力があるので、説明しすぎず、観客の想像力に任せることも必要かなと思う。パチンコ店で祥太を連れ去った話のくだりはもう少し掘り下げた方が良かったように思う。説明が必要な部分はモノローグではなく、流れの中で自然に伝えられているところは素晴らしいと思った。
徐々に明かされていく。
ふと『理由』とか『きみはいい子』を思い出す。
外側から常識的に見たら、池脇さんたち刑事の目線と同じになるのだろうが…。
家族それぞれの物語も映画1本作れそうな重さをはらんでいるのが垣間見えるが、クドクド説明しないところがいい。
松岡さんが目立たないくらい周りがすごい。
捨てた絆で紡いだ絆
かれこれ4か月前に鑑賞し、今更のレビューになってしまったけれどどうかひとつ。
単なる“感動作”とは決して呼べない、深くて重い映画だった。
レビュー内容もかなり長め重めなので、読みたくない人は読み飛ばしてください。
様々な要素が絡む映画なのでどこから書いたものかと途方に暮れたが――
まずは映画レビューとしてシンプルに、各キャラクターについて綴ろうと思う。
…
安藤サクラ演じる〝お母さん”・信代。
どれだけ優しくても、最後まで〝お母さん”と呼んでもらえなかった彼女。
「何なんだろうね」と自問するように何度も呟き続ける場面は胸が苦しかった。
本当の親以上に親身になってくれる人がいても、
心のどこかで血の絆を求めてしまうのは本能なのだろうか。
愛してくれない親でも、顔すら知らない親でも、初めの初めは自分を
そのお腹の中でしっかり包んで守ってくれていたはずで、その頃の
温かさと安らぎをどうしても人は忘れられないのかもしれない。
決して〝お母さん”にはなれないと悟った彼女が祥太に向けた、
明るいけれどどこか他人行儀な笑顔が悲しかった。
リリー・フランキー演じる〝お父さん”・治。
彼は一家の長と呼ぶにはずいぶんと情けないし、
そもそも子どもに万引きを教える時点でアウトだし、
自分可愛さに子どもを見捨てて逃げ出そうとしたりもする。
それでも憎めないのは、ふつうなら躊躇してしまうような時でも、
赤の他人に救いの手を差し伸べることができる人だからである。
誰よりも優しいけど、その優しさの責任をとれない弱い人。
城桧吏くん演じる祥太と、佐々木みゆちゃん演じるリン。
2人の自然な演技が素晴らしい。(是枝監督作品の子役の演技には毎度舌を巻く)
特に、妹ができたのをきっかけに自分たちの“稼業”に疑問を抱き始める祥太。
自分のせいで駄菓子屋が潰れてしまったのではと怯える場面をはじめ、
彼の迷いや戸惑いがしっかり表情から伝わってきた。
松岡茉優演じる亜紀。
彼女と〝4番さん”との関係が寓話的過ぎると感じてしまったのが
自分の中での本作における一番の不満点ではあるのだが、
家族の中でも大人びて見えた亜紀が、幼児帰りしたような声で冷たくなった祖母を
揺らす場面は未だに忘れ難い。泣き叫ぶよりもずっと彼女の悲しみが伝わってきた。
ああいった仕事をしていた彼女にとって、祖母の隣は、
無邪気な子どもに戻れる大切な場所だったんだと思う。
祖母を演じた樹木希林。
いつもおどけているように見えたり、嘘を並べて小銭を稼いだりするけれど、
「あたしはあんたを選んだんだよぉ」と、時々冗談のように本音のようなことを呟く。
海辺で“家族”を眺める彼女の、あの満ち足りたような表情――。
…
主人公たちはみな、家族や世間から“捨てられた”、
あるいはそう感じて生きてきた人々だった。
人間誰しも親は選べないし、育つ環境も、才能も、性格も選べない。
そうして世の中との折り合いがつかず爪弾きにされたとしても、
人はどうにか生きようとする。時にはモラルをかなぐり捨ててでも。
無論、万引きで店を潰されたり、置引きで大事な金を失ったりして人生を
狂わされる人もいるわけなので、そういった犯罪は断じて肯定できない。
だが肯定できないことと、それが現実に存在することは別だ。
捨てられたものでも生きていかねばならない。
信代が吐き捨てるように語った言葉。
「拾ったんです。捨てた人ってのは他にいるんじゃないですか?」
…
彼女たちがリンや祥太や亜紀を“拾った”のは何故だったのだろう。
映画の刑事が言う通り、お金の為というのも理由だったと思う。
だけど、それが一番の理由では無かったとも思う。
それはきっと、ただただ単純に、
ひとりぼっちでいるその子が可哀想に思えたから。
そして一緒なら、自分もひとりぼっちでいなくて済むから。
捨てられたものを拾い集めて、拙い手で繋ぎ合わせてできたのは、
不格好で脆いし、所詮は偽物だけれども、
ずっと夢見ていた、温かい家族。
…
映画を観たほんの数日後だったと記憶しているが、
親から虐待を受けて亡くなった5歳の少女のニュースを聞いた。
本作の最後のシーンが脳裏に蘇ったのは言うまでもない。
どんなにむごい仕打ちを受けようと、幼い子にとって親は親でしかない。
助けも逃げ道もなく、乞う必要も無い許しを乞い続けた彼女を思うと涙が出る。
政府の偉い人たちが言うには、景気は上昇傾向なんだそうだが、どうなんだろうか。
物質的にも、精神的にも、この国はどんどん貧しい方向に向かって行っている気がする。
貧しいから心が荒むのか、心が荒むから貧しいのか。鶏が先か卵が先かは分からないが、
ただ分かるのは、怒ったり苛立ったりするのは物凄く疲れる。他人も、自分も。
みんなで怒っているよりは、みんなで笑っているほうが良い。それなら、
せめてもう少しだけ、自分以外の人に優しくできる自分になれないものか。
夢見た家族のようにとまではいかなくても、せめてもう少しだけ。
<2018.06.02鑑賞>
.
.
.
.
余談:
樹木希林が亡くなった。
本作はこれまでの是枝監督作品以上にたくさんの方が
鑑賞・レビューされていたし、考察も随分為されていたと思うので、
もう別に自分はレビューを書かなくてもいいかな、と思っていた。
けれど、彼女の訃報を聞いて気が変わった。きちんと記録を残さねばと。
どの作品でも、年老いた小さなあなたが映像の中に佇むだけで、
どうして映画に生命力が漲るのだろうと、いつも不思議に思っていた。
『海よりもまだ深く』で、階段の上から手を振り微笑むあなたを覚えている。
『わが母の記』で、暗闇から真っ直ぐこちらを見つめるあなたを覚えている。
たとえ亡くなっても俳優は映画の中で生き続ける、だなんて
気休めを口にしてみても、おどけたような、達観したような、
あの飄々とした言葉の数々があなたの口からもう紡がれない
というのは、とてもとても寂しいです。
長い間お疲れ様でした。ありがとう。ゆっくりお休みください。
家族を失った男の物語
この映画は、優しいだけで父親としての資格はあるのか?という思考実験なのかもしれない。
そして、その答えとして、優しいだけの男は家族を失った。
以下激しくネタバレ
この映画は、今の日本にありそうもない不思議な家庭が舞台になっている。開始5分で、松岡茉優演じる女性のような聡明そうでいくらでも金の稼げそうな女性がこんな家族の一員に留まって、さらに何もしていないのはおかしい、と思ったが、開始20分での展開が腑に落ちると同時にショックを受けてしまった。この映画は、そんななさそうであるリアリティがしみ込んでいるような映画だ。
男は、社会的には最底辺ともいえるような存在だ。
仕事に対しては、放棄しない最低限の責任感はあるが情熱も何もないし、題名の通り、万引きを子供に教え込んでいるような倫理観のゆがんだ人間だ。
しかし、拾ってきた子供に対する優しさ・愛情は本当に見える。
わが子を虐待するような子供の元の両親とは対照的に描かれているが、男は極めて貧しい環境にあるにもかかわらず子供たちを飢えさせるようなことはしないし、可愛い服を着せ、拙い手品で子供たちを楽しませようとするようなシーンも印象的に描かれている。
ではなぜ男は家族を失ってしまったのか。
男の生き方が、社会の標準的な生き方と乖離してしまったため、
育つにつれて自我が確立してきた少年と相容れないものが生じてきたということもあるだろう。
しかし、少年は男に万引きをやめさせようと思っても、家族の一員でなくなろうとはしなかったのだと思う。
少年が最終的に彼をあきらめてしまったのは、男が、入院した彼を簡単に見捨てて逃げてしまったことだ。
男にとってみれば、逮捕されるかもしれない自分より、警察と病院のお世話になっていたほうがいいという気持ちもあったと思うが、
あそこで少年を見捨てたことが、拠り所のある家というものを家族が信じることができなくなり、家庭が崩壊する最終的な契機となってしまった。
優しいだけでは家庭は維持できなかった、のだ。
社会で生き抜く力、我慢する心…そういった自己犠牲のようなものが必要なのではないかと、
この思考実験は結論付けているような気がしてしまう。
最終的にバラバラになった家族の印象が強烈であればあるほど、
家族で海水浴に行った幸せな思い出が、より幸せに感じられてしまう。
『教えられることは◯◯◯くらいしかなかった』という寂しさの衝撃
難解なイメージもありますが、問題提起と回答は明確な作品だと感じました。「万引き家族」というキーワードの前半「万引き」が目立つので貧困や犯罪や日本社会にも思いを巡らせましたが、メインの問題提起は「家族」の方かなと思いました。この家族の大人は収入がありますので、本当の貧困だから万引きをするわけではないのだと思います。コロッケは普通に買っているし。
これは万引き(もしくは他にも明らかになる犯罪)によってつながっていた家族の物語です。
【問題提起】
家族の絆とは何か?何によって人と人はつながるのか?
【回答】
お互いが家族であることを確認しあうことで家族はつながれる、というメッセージなのだと私は読み取りました。
この映画を見ていると様々なパターンのつながりが示されています。
血のつながり、
金のつながり、
身体のつながり(男女関係だけでなく子供をぎゅっと抱きしめるスキンシップも含まれる)、
一緒に食事したり海に出かけたりという時間を共有するつながり、
助け合うことによるつながり、
教える/教えられるのつながり
そして犯罪を共有するというつながり。
「万引き家族」というタイトルそのものかもしれないけど、万引き以外にも過去に犯罪を共有しているという衝撃、そんなつながりもあるのか、と、驚いた。
しかし、血以外では全てつながっている治(リリー・フランキー)と祥太は、最後まで家族になりきれなかった、と、私は読み取りました。でも、その理由は血がつながっていなかったからではありません。
「お父さん」と呼んでほしい治も、わざと見つかるように万引きをして警察から家に連絡させる祥太も、お互いが家族であることを確認しあいたいのだと思うのです。
駄菓子屋(柄本明)の言葉に動揺する祥太は、悪いことだから万引きを辞めたいのではなく、治に父親として世の中のことを教えてほしいのだと思います。「お店に売っているものは、まだ誰のものでもないから万引きしても良い」という理屈と同じように、車上荒らしをやっても良い理屈を治から教えてもらうことで、祥太は安心したかったはずです。ですが、きちんと祥太と向き合わない治。
治は寂しい人だな。取調室での「教えられることは万引きくらいしかなかった」と発言するシーンで、私は最も寂しさを感じました。祥太を置いての夜逃げも、最後に「お父さんからおじさんに戻る」という告白も、バスに乗る前に引き止めるのでなく発車した後に追いかけるところも、寂し過ぎる。苦しい。辛い。
こうしてお互いを確認しあえなくて崩壊した家族は、この家族だけではなさそうです。貧困ではなく血もつながっているであろう、ゆりの家族も、亜紀(松岡茉優)の家族も、きっと同じ。どうやら、お互いが家族であることを確認しあえない原因は、貧困とは別のところにありそうです。
原因は、「教えられることは万引きくらいしかなかった」という言葉の奥にある治の自信の無さなのでしょうね。寒い日に外で凍えているゆりに気付いて手を差し伸べる温かさもある、遅くまで帰ってこない祥太を探しに行く優しさもある、しかも怪我をすれば(善悪は別として)高額なルアー万引きのような新しい稼ぎを思いついたり遺体を床下に埋めたりといった行動力もある頼れるおじさんだとも思いますが、きっと自分に自信が無い。
『でも、他にも教えられることはいくらでもあったでしょう?』って、治に言いたくなりました。そして、『祥太の不安を受け止めてやってよ!』とも。
いや、でも、あれだけ自分自身が寂し過ぎる治には受け止めきれないか。。。この自信の無さや寂しさを解消するには、やはり家族のつながりは必要なんだろうか。これでは理屈は堂々巡りだけど、そうなんだろうな。自信が無いから家族であることを確認しあえない、家族であることを確認しあえないから自信が無い。いつまでも寂しさのループから抜け出せない。そして、お互いが家族であることを確認しあえなければ、血がつながっていても、裕福であっても、家族は崩壊する。辛いな。
寂しさのループを抜け出したいのならば、まずは、お互いが家族であることを確認するところから始めていくのだろうな。
決して後味が良い映画とは思いませんが、いろいろ考えさせてくれる良い映画ですね。松岡茉優さんは、いつも通りカワイイです。
是枝さんの誠実さ、心で演じた俳優陣
主人公は擬制の家族。ただ、今流行りのシェアハウス的な気の合う者どうしで作る家族とは違い、治と信代以外は、なりゆき上一緒に暮らすようになった家族。
仲むつまじく暮らしているように見えながら、実はほとんどカネに関する会話しかしていない。いや、カネの話を明け透けにして、自らの釣果を誇りながらも、それを分け合う必要性を恋慕や慈しみによって認め合うことで、かろうじてギスギスしない。この関係こそ、仲むつまじさの正体なのだ。
そのことをさりげなく炙り出していく、是枝さんの細やかな作劇、俳優陣の心のこもった、それでいて自然な演技が、素晴らしすぎた。
星4つなのは、警察の聴取が家族の秘密を露わにしていくラストの展開。治の怪我や信代の解雇で露わになる綻び、祥太のスイミーの話を聞こうとしない治、治の手品の仕掛けを一人で知ってしまう祥太と、伏線はばっちりだったのに、なぜ最後の種明かしは公権力によってなされたのだろう。
確かに、あるべき家族像を押しつけてくる「常識」の象徴として、警察はぴったりだったかもしれないし、個々の共同性を公権力が壊しにかかっている現代の暗喩としては優れているのかもしれない。しかし、今の時代もっと怖いのは、ギリギリで生きている人びとの共同性が、目に見えない微細な力で内部崩壊を起こしてしまうことだ。この家族は、逮捕をもってしなくても、お互い疑心暗鬼になって離れてしまう爆弾を抱えていたのだから、より徹底した内面的な離反があってからの再生を描いた方が、観る者の心をより強く揺さぶり、明日を生きる糧にもなったのではないかと思う。
いろいろと考えさせられる作品です。
・今日の社会問題についていろいろと提議されている作品
・決して褒めることは出来ないけど、温かい人達のストーリー
・演者さん達の熱演が光ります
・音声の無いセリフのシーンは、熱くなった
家族共同体が崩壊した人達の築く家族共同体
序盤から中盤は万引きを日課としている下層の家族の日常が描かれる。しかしながら、翔太が父親であるはずの人をお父さんと呼ばなかったり、ゆりが誘拐報道されているなど、普通の家族ではない伏線がところどころにある。
終盤になると、それまで家族だと思われていた人達は血のつながった家族ではなく、それぞれの家族共同体が崩壊した人達の集まりであるということが分かる。万引き家族は疑似家族だったのだ。
疑似家族でありながら、一家団欒の食事シーン、海水浴のシーン、散髪のシーンなどの偽家族はとても幸福そうに見えた。家族共同体が崩壊した人達が家族共同体に飢え、そして欲しているようにも思えた。
期待通り
最終日直前、やっと見れた。話も知ってたし、名シーンも知ってたけど、やっぱり凄かった。ちょい役に名優たちを使うところも粋。安藤サクラの取り調べの泣くシーン、秀逸。寄せ集まった血の繋がらない家族、絆が強いとか言ってるけど、ボロが出てからは結局他人。でもそんなもん。りんちゃんやしょうた、あきの本当の家族よりはよっぽどマシ。一緒に住んでた時の幸せは本物だったのだろう。りんちゃん、大丈夫かな。これが日本の現実なのかな。
万引き
「捨てたんじゃないよ。拾ったんだよ。誰かが捨てたものを」って言葉が心に残っています。
人の家族を盗んで、その人がまた人の家族を盗んで、そうやって一緒に住んでたから万引き家族なのかな。万引きってほんとに悪いのかな。とか。
家族に必要なものとは
警察の尋問を受ける信代の言葉、
「棄てたんじゃない、拾ったんだよ」
これが本作のすべてを表しているように感じました。
万引き家族は、みんな棄てられた人たちなのでしょう。
治は祥太に自分の真の名前をつけました。自分を祥太に重ねて、経験できなかった父親の愛を体験したかったのだと思います。信代も治も棄てられた自分を救うために、祥太やリンを拾ったのではないでしょうか。
社会的に見れば、彼らは間違った家族です。実際、祥太のケガ以後に夜逃げをする姿を見れば、精神的なつながりもどうなのだ、と疑問も湧きます。
しかし、万引き家族には、家族として絶対に必要なものがありました。
それは団欒です。
みんなでカップ麺とコロッケを食べたり、リンの好物を理解しておふを食べさせたり、見えない花火を見たり、海に行ってジャンプしたり…
この団欒が存在していた意味では、万引き家族は真の家族でした。
このような日々があったからこそ、祥太は成長できたし、リンは海の絵を描くことができました。つまり、万引き家族には愛があったのです。
(責任はなかったけどね…)
信代はひとりで罪を被り収監されました。そこで吐いた「お釣りがくるよ」の言葉は真実でしょう。お母さん、とは呼ばれませんでしたが、お母さんとしての仕事は果たしたように感じました。信代は治と祥太、リンを救い、自分自身をも救ったのだと思います。愛されない、愛せない、自分の存在に価値を見出せない苦しみを生きることに比べれば、ブタ箱生活など「お釣りがくる」程度のものでしょう。
印象的なシーンもたくさんありました。団欒の場面はもちろんすべて良かったのですが、海遊びシーンは本当に安らかで喜びに満ちていました。俯瞰シーンがすべからく感動的で、夜に治と祥太が広場でジャレ合ったり、花火を眺めたりする場面は、なぜか胸に迫りました。
中でも白眉は、亜紀と4番の交流シーン。言葉にできないほど美しかったです。孤独な魂同士が惹かれ合い、一瞬繋がる姿には、えもいわれぬ切なさと煌めきがありました。
悪役的な存在の尋問役ですが、なかなかの名言も吐いています。
祥太に学校に行く意味を尋ねられた警官が、少し考えてから、「仲間ができるから、かなぁ」と答えました。家族も大事ですが、家族の外の仲間たちも大切なんですよね。特に祥太くらいの年頃の子どもにとっては。これは名言だったと思います。
しかし、是枝監督は乗ってますね。三度目の殺人から1年経たずにこのレベルの作品をドロップするくらいですから。いやはや感服いたしました。
大人の更生は難しいだろうと思った。
色々考えることが広がって全然感想まとまらないので脈略なく吐き出しておきたい。とても素晴らしい映画だと思いました。
池松壮亮が出てきて、きゃっとときめいた。不意打ち。
サクラちゃんと松岡茉優ちゃんが姉妹でない察しはついたけど、おばあちゃんとサクラちゃんも赤の他人だったなんて…というしょぼめの衝撃を受けた。
松岡茉優は樹木希林の元夫が不倫して別の人と設けた息子の娘で、妹の名前を源氏名にしてJK見学店で働いている。4番さん(池松くん)となんだかつながりを見出している様子。
樹木希林演じるおばあちゃんは、元夫に逃げられていて(離婚はしなかったのかな?だから年金があるのかな?)、元夫がほかの女性と設けた子供(茉優の父)んちに月命日のお参りと称して訪問、せびるつもりかどうか知らんけど、茉優の父から金を受け取っている。茉優はどうやら両親と不仲。両親は世間体大好きっ子なので、家出した長女を留学中と称している。
サクラちゃんと子供ショウタはずっと親子なんだと思っていた。
母子の暮らしに変なおっさんが入ってきたからお父さんって呼べやんのやと思っていた。
こういうことかなと想像しながら見ていたけれど、実際は更に上を行く感じで、
客観的にみるとどえらい犯罪者夫婦(内縁)だった。
貧しくとも学校は通わせられるんちゃうんかなと思ってたけど、
誘拐した子ならばそら通わせられへん。
一人一人の収入は低くとも、リリーさん、サクラちゃん、おばあちゃんの年金があれば、もうちょっとましな生活、せめて食糧を万引きする必要はないんちゃうんかなって思った。
まあ、リリーさんほとんど働いてなかったし、サクラちゃんもクビになった腹いせ?に化粧品やら下着やら高そうなのを衝動買いしてたし、
そういう感じだから食糧に回すお金もないんかもって思った。
言葉にされていない部分でも、いろいろ想像が巡る部分があって、
サクラちゃんはきっと虐待されてたんだろうし、
子どもが産めない、産まない事情があったんだろうし、
切なくなった。
ショウタが万引きに疑問を覚えてくれたのは、ほっとした。
彼は与えられた環境の中で、出来る事の最良のことをした、と思う。
おじさんおばさんになってからだと、ずっと続けてきてしまった悪癖を断つのは難しい。
それ以外で生きていく術がないもの。
まともな収入も住居も手に入れられないし、類は友を呼ぶ以外の人間関係を築けないから、生活を向上させる術がない。
まともを自負する人たちは、リリーさんやサクラちゃんにチャンスを与えようという気にはならない。
周囲が見下し、嫌悪する立場を崩さないから、本人たちも助けてくれって言えない。
リリーさん、サクラちゃんが実際に居たとして、私も多分目もくれない。
触れ合うことがあったとしても、記憶にとどめる必要がないと判断すると思う。
ある程度の年齢がきたら自業自得でしょって断罪してしまうと思う。
それが正しいとは思わないけれど。
社会の底辺に追いやられた人を見下し目をそらす私が映画の隅っこにいた気がして、
情けないなとおもったり、でもどうにもならへんし、自業自得でしょって思ったり、気持ちの置き所が定まらなかった。
リリーさんとサクラちゃんは、機会や人やなんやかんやに恵まれていれば、
人を殺す必要がなかった人じゃないかと思う。
彼らは理由・手段はどうあれ、ショウタとゆりを慈しんで育てた。
健やかさのかけらは確かに持っている。
だけど。
ショウタとゆりが、将来リリーさんやサクラちゃんにならなくて済む方法は、なんだろうか、とも考えた。
パルムドール効果で普段のお客さん意外も観ているなーと感じました。
おめでとうございます。
全235件中、81~100件目を表示