「家族のあり方について考える」万引き家族 映画好きさんさんの映画レビュー(感想・評価)
家族のあり方について考える
是枝監督は数々の作品で、これまでも「家族のあり方」について問題を提起してきたと捉えている。
『そして父になる』や「海街diary』。
今回のそれも、同じく家族のあり方について考えさせる作品であったと感じた。
とある歪な、一見「バラバラ」な6人が一つ屋根の下に暮らしているーーー。血の繋がりはないし、年齢も性別もバラバラだ。家計は苦しく、生計を立てる手段として常態化しているのが万引き、紛れも無い「万引き家族」だ。
作品が進むにつれ、そこには色々な形の愛があり、確かな家族がそこにはいたのだ。
しかし、つまらない定規によって簡単に家族はバラバラになり、突如として歪さが露わにされる。
この作品に出会うまで疑問にも思っていなかった定規。見終わった今となっては、それは本当に信じるべき定規だったのだろうか...。
その定規によって、一つの家族がつまらない「集団」という括りにされるのであれば、その定規は手放していいものなのかもしれない。
なぜならそこに愛はあったのだから。
家族の存在意義は、家族に伝播させ、残るものがあるかどうかだと思う。
しょうたが興じたビー玉遊びはゆりの中に活きているし、6人で身を預けた海の青はまたゆりの脳裏に強烈な思い出として焼き付いている。
作中で描かれた愛は書ききれない。
ゆでたてのトウモロコシから立ち上る湯気、花柄のワンピース、音だけ見上げた花火、ラムネの中で転がるビー玉...セミを追いかける少年の背中にかけられる「お兄ちゃん」という声、触れ合う肌、賞賛の言葉、存在を肯定する言葉たち....。
愛を受けた者はおそらく人に愛を与えることができるのだと思う。
傷ついた人に愛を与えることは実は難しいことではない。
それは例えばそっと傷口を撫でてあげることだったり、抱きしめてあげることであったり。
簡単に思えることも、時として難しく簡単でないことを知る。
対極的な存在として描かれる“じゅり”の実の父母の登場でそれには突如気づかされる。
一見外見は所謂「バエ」たビジュアルで登場する彼ら。しかし一度蓋を開ければ、あくまで愛を表現するために、彼らの傷口に触れればそれは禁忌行為であり、娘を抱きしめることさえこの人間には難しい。
簡単なことは時として難しく簡単ではない。
なぜだろう。改めて、今私はやはり、信じてきた定規でくくったこの歪な家族が、貧しくて卑しいように思えるはずなのに、私は今愛しくてたまらないのだ。