「感性的な人には小難しく、理性的な人には整然としすぎた東野節」人魚の眠る家 Naguyさんの映画レビュー(感想・評価)
感性的な人には小難しく、理性的な人には整然としすぎた東野節
東野圭吾らしいテーマの作品。"脳死"を巡る最先端テクノロジーとヒューマニティーの間に起きる矛盾を、気味が悪いほど冷静に客観視した印象だ。
不慮の事故で、5歳の愛娘が意識不明の"脳死"状態におちいる。日本の法律では、"心臓死"と"脳死"の2つの解釈が残っているため、肉親が"臓器提供"を申し出た時点で"脳死判定"が行われるという事実が知らされる。そうでない限り、延命措置が続けられる。
つまり、医学的には亡くなっているはずの"愛娘の死"は、法律では決められず、両親の判断に委ねられる。
人物設定が絶妙で、両親は離婚直前の別居中。夫は医療関係のテクノロジー企業の2代目社長。妻は娘(事故に遭ってしまった子)の小学校受験、いわゆる"お受験"が終わるまで、離婚をしない約束をしている。
ほどよくお金持ちで、それなりの学業をおさめた、一定レベルの常識を持ち合わせた一家である。そこに突如、降ってきた家族の"脳死"という、とてつもない障害。
また夫の会社では、人間生活をサポートをするためのロボットアームや、脳波から身体を動かす研究部門などがあり、それと、"脳死の娘を救いたい"という動機が結びあってしまう。
さらにここからの展開が、東野節である。この手の、大風呂敷を広げた設定は尻窄みになりがちなのに、この作品は違う。アッと驚く結末が用意されている。
これがボロボロ泣けるか?と言われると、人によるかもしれない。登場人物が全員、妙に理性的に動ける人(要するに理屈っぽい人)ばかりで、そこまで理解っているなら、なぜそうなるの、と首をかしげたくなる部分もある。
感性的な人には小難しく、理性的な人には整然としすぎていて、あまり共感できないのではないか。いつもの"東野圭吾臭い"のもそのへん。
しかしそれを補うのが、篠原涼子のキャラクターである。泣ける作品になりうるのは彼女のおかげである。いまさら演技力を褒めるまでもない。エモーショナルなシーンでの存在力は抜群だが、それよりも、失礼ながら時折、天然を覗かせる愛すべきキャラがちょうどいい。裕福な家庭の"勝ち組主婦"っぽくて、リアリティーがある。
もちろん堤幸彦監督の技も光る。フザケないときの堤監督は、"さすが"である。(フザけたときのブッ飛び方も面白いのだが)。
あまり中心的役割ではないが、ここでも川栄李奈のオラオラ演技が空気を変える。ふつうの演技をしているだけなのに目を引く。周りを喰っていく存在感は、やはり只者ではない。
(2018/11/17/ユナイテッドシネマ豊洲/シネスコ)