ラブレスのレビュー・感想・評価
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Europe before This Millenium's Darkness
Loveless is the story of a missing child set in Russia during the coming dawn of Ukraine's Maidan Revolution in 2012. While it was made during the war in Donbas, the film seems to foreshadow the coming Ukraine-Russia full scale war quite horrowingly. The director stated he is not a political director. Certainly he is not in the literal sense; but the images tell us much more than words can.
身近なところにも国際社会にも広がるラブレスの病
ロシアの名匠が撮り上げた本作は前半と後半とで違った表情をあらわにする。前半では愛をなくした親たちの姿を“子供の視点”から描き出し、後半ではそれが完全に逆転する形で、忽然といなくなった子の姿を探し求める“親の視点”が素肌に焼きつくような痛みを持って映し出される。だがどれだけあがいても、泣き叫んでも、その姿は見えず。
本作は特殊な構造を持ち、観客にも少しずつじわじわと事の重大さが認識できてくる。また、劇中には鉄骨むき出しの廃墟や寒々しい森の中など登場人物の心象を表したかのような描写が多いことにも気づかされる。どれだけ探しても愛が見つからない、見つかったとしても上着だけ。これほど「ラブレス」な状態を的確に表現した映画があるだろうか。ラスト付近でテレビに国際ニュースが映し出される。観ているようで観ていない。あるいは観ていても完全に他人事。ラブレスの病はかくも深刻に国際社会をも飲み込んでいるのだ。
全てがラブレス…言葉にならない
ロシア映画はほとんど観たことないが、各方面で評価されていることとテーマに興味をおぼえ鑑賞。
終始暗めの心寂しい雰囲気ではあるが、映像的には景色や室内にいたるまでかなりきれいに撮れているのが印象的。
ただし、ストーリーとしてはまさにラブレスで、冷めきった夫婦の強烈なほどの憎しみ合いが生んだ犠牲は言葉にならない…というより言葉にしたくないほど苦しい。特に子供の暗闇での忍び泣きや朝食時の涙ぽろりは本当に胸が締め付けられる。当然大人の事情はわかるのだが、これは酷すぎた(涙)
その他印象に残ったのは、祖母役女優の強烈な演技とラストシーンの木の枝にかかったままのテープのなびき。
全くストーリーとは関係ないが、お部屋の案内場面も興味深く、おいくらで売れたのかも気になってしまった。
いずれにしても、完成度高い作品だとは思うのだが、あまりに切なくもう一度観たいと思うには少し時間を要しそうだ。
真相は闇の中
ロシア映画だと知らずに鑑賞。
ひたすら暗い…。子どもが聞いてるそばで、子どもを押し付け合っている会話をするなんて、ほんまどんな神経してるんやろうか?そりゃああんな家出たくもなるよね。
冒頭から感じてはいたけれど、誰一人幸せになってないという。結局、子どもの行方もわからずじまい…ただ、ラストシーンのリボンが、死を暗示しているんやろうなと私は解釈した。川の調査はしてないものね。
それにしても、警察の対応があまりにも杜撰すぎて。話もほとんど聞かず、捜査も他の件があるからとどうでもよいという雰囲気が伝わってきた。日本の警察ってかなり優しいんやなとあらあめて思った。
観なくてもよかったかな…。結局なにを訴えたいのかよくわからずただただ陰鬱な気持ちになった。
ロシアを愛してるぜ(棒で叩きながら)
脚本も担当しているズビャギンツェフ監督は政治問題に口を出すつもりはないと言っているが、ロシア政府はそうは思わないだろうな。だってあからさまにモロ出し批判なんだもの。
あまりのことに思わず最初に書いちゃったけど、とりあえず政府批判のことは置いておいて、表面的に見えることから順に書こうと思う。
同監督の作品はこれが2作目だが、全体的にスローで静かなのは変わらずだった。
それでも「父、帰る」のときの、何を感じればいいのかわからない感覚はなく、非常に入り込みやすかったのは良かった。
音楽なのか効果音なのかわからない印象的な音使いも効果的で、不思議な緊張感の高まりは見事だったと思う。
親からの愛を受け取れなかった父ボリスと母ジェーニャは、息子のアレクセイを愛することが出来ずに自分のことばかり考えている。
対照的に愛することを継承している親子の姿も描かれている。
この辺の描写の細やかさ、丁寧さは、クドイほどで、過剰描写ではないかという気持ちも出るけれど、後半の変化していく兆しを見せ始める夫婦の揺らぎに対してボディブローのようにじわじわ効いてくるんだよね。何かあるんじゃないか、何か変わるんじゃないか、という期待に逆説的に効くって感じで。
それで、普通に面白く観られたんだけど、愛されなかった子どもでも愛せる大人になれるのではないかと、愛の継承について軽い嫌悪感が出たところで、これは人間の話ではないですよとドーンと来ちゃうんだからビックリするよね。
ソ連の本体が今のロシアで、ソ連の一部だったウクライナがソ連の子どもだというならば、ウクライナはロシアの子どもだ。
ロシアはウクライナに愛を注げているのかと問いかけているわけ。失ってから気付いても遅いぞと。
エンディングの場面でロシア軍がウクライナに進攻しているのだから愛を注げているわけないんだけどさ。
ボリスとジェーニャがロシアで、アレクセイがウクライナだったんだ。
何か変われそうだけど結局何も変わらない、自分のことばかりで他を愛せないロシアを夫婦二人が表していたわけだね。
つまり、もっと旧ソ連の国々を愛せとロシアを批判しているのだが、さすがにラストシーンのジェーニャに「RUSSIA」の文字が書かれたジャージを着せるのはやり過ぎだったと思うな。メッセージがモロ出しすぎるでしょ。
「政治問題に口を出すつもりはない」監督談。これもまた皮肉かジョークの一種なのか?
ズビャギンツェフ監督はロシア政府から映画製作の資金援助を受けられないそうだけど、まあ、そりゃそうだって感じだよね。
だけど、この人からはロシア愛を凄く感じるんだよな。「俺はロシアを愛してるぜ!」みたいな。
ちょっと愛情表現がひねくれてるけどさ。
ロシア政府が破壊した人間感情
自然に沸き起こる感情にフタをしてしまうような社会主義国家の怖さを見せられた。
どんなに綺麗な自然があろうともこんな国へは一歩たりとも立ち入りたくない。
監督もそんな事を伝えたかったのだろうと勝手に解釈した。
映画としては、
無駄と言うか下らない描写が邪魔であり、折角の想いテーマがリセットされた感が否めなく、音楽も効果音的なものに徹しているのに勿体ない。
なので、評価は少し辛めですが、記憶に残る作品でした。
【"利己的人間の愚かさと、無償の献身をする人々の姿を、シニカルな視点で対比的に描いた”愛亡き”作品。両親に愛されず行方不明になった少年と、ウクライナの民の哀しさがダブって見えた作品でもある。】
<Caution 内容に触れています>
□利己的人間
・言うまでもなく、愛無き結婚をして、12才のアレクセイを悲しませてきた、会社での自分の保身を考えるボリスと、スマホ依存症のジェーニャ夫婦である。
しかも、二人はそれぞれ愛人がおり、定期的に愛し合っている。
アレクセイは、ある日、両親の言い争いを聞いてしまい・・。
ー あの、涙でくしゃくしゃになった顔は忘れ難い・・。そして、彼が友達が一人しかいなかった理由も垣間見えるのである。
彼の捜索中に、ジェーニャが言った言葉
”子供なんて、欲しくなかった”
物凄く、腹立たしいシーンである。ー
□無償の献身をする人々
・言うまでもなく、頼りにならない警察の代わりに、リーダーの元、統率の取れた組織編成で、整然とアレクセイを探す姿。
ー ロシアって、あんな組織があるんですか? 警察が頼りにならないから??
警察よりも、余程頼りがいがある。
”政府組織は頼りにならないので、民は自警する・・”ということかな・・。ー
<冒頭と、ラストのシーンの繋ぎ。
年は経て、貼られたアレクセイの捜索願は風で飛びそうだ・・。
そして、モノトーンのショットの中、枯れ枝に引っ掛かった冒頭でも映されていたビニールテープも風に靡いている。
下には、冬枯れの景色の中映し出される池。
再後半、TVから流れるウクライナで起きた事件。泣き叫ぶ母親。
TVのニュースが流れる中、無表情でランニングマシーンの上で走る”ロシア”と大きく書かれたジャージを着たジェーニャの姿。
暗澹たる気持ちになるが、アンドレイ・ズビャギンツェフ監督が発するメッセージは、しっかりと伝わってきた作品である。>
憎悪の噴出
人には裏表の二面性があり、どうしようもない悪意も抱えている、映画は普通の社会人が実は悪人でもあることを執拗に見せ付ける。
しかし、
そうは荒廃しないはずの心が破綻し、自分勝手な思いに支配されると、愛情は居心地が悪くなり、生まれた子の行き場がなくなる。
"子はかすがい"というのは落語の中の話であって 現実はそんな生易しいものではない。
東ウクライナの紛争をバックに、やりきれない憎悪が噴出する様を、監督は執拗に表現して潔い。
熟年層には共感できるかも、悲しい愛のかたち。
男と女の愛、親と子の愛、理想や夢に描いた愛と現実の乖離。
こんなはずではなかった。あの時こうしていれば。この愛は本物だ。など、愛に迷ったときの苦しみや、言い訳、自己嫌悪、対人嫌悪、虚無感、そういうものを上手に描いている。
【総評】テーマが重いし、ストーリーもテンポを必要としない中、だらけることなく上手く纏まっている。 文学作品といった感じ。
何故このような映画が作られるのか
どうしてだろう。
愛を与えられなかった子供。
子供を愛せなかった親。
彼らはきっと一生愛を探し続ける。
見つからない愛。それはもしかしたら幼少期に受けなかった親からの愛かもしれない。日常で他人から受ける些細な愛かもしれない。どちらにせよ、彼らは愛に枯渇している。
この物語は、大事にされない子供の物語だけど、これを見て我が子をより愛してあげようと思える親はもうとっくに親であるし、気づかない者はきっといつまでも気づかない。
この物語の終わりは何を生むんだろう。
結局、望まれない子供は、生まれなくてよかったのか。いなくなったとていくらかの時間探し回って、後悔して、あとは一生のうちに何度か思い出して、罪悪感に苛まれるだけ。いてもいなくても変わらないのであれば、自分で家族を探せばいい。そんな物語をわたしは観たい。
タイトルなし
互いに既に別のパートナーがおり、離婚に向け、住んでいた家を売るなど、会えば互いに罵り合う夫婦は双方息子が邪魔。母親は自分の母親に預けたいが、その母親も全く愛がない。タイトル通り子に対する愛が両親共になく、子は疾走してしまいラスト迄見つからない。結局見つかってもあの夫婦と暮らすのは不幸だろう。
責任
この夫婦ら自分のことしか考えてない責任感のなさが恐ろしい。子どもがいなくなって、彼らはどこまで本気で探そうとしていたのか。安置所で泣き崩れた夫婦の姿は生身の感情が表れたものだったのかなあ。
鑑賞後、友達がおらず、1人で下校しながら遊んでいた主人公が帰宅後、家の外で遊んでいる同世代の子どもたちを眺める冒頭なうつろな顔が、残像としてしばらくこびりついていた。
引っ張りがうまい
一つのシーンに対して回答が、2つ3つ先のシーンにあるのでずっと興味が持続する。
ラブレスというタイトルにふさわしく登場人物の誰にも愛が無い。唯一愛があったのはボランティアのリーダーの、遺体の前で泣き崩れる両親への鋭い視線だった。
ところで遺体は結局本当に息子ではなかったのか。結構息子は見つからなかったとの解釈のレビューがあるが、あのリアクションは息子の死を受け入れられないという描写にしか見えないのだが。
ところどころ、え?って思う皮肉がある。
最後の子供をポイっと柵の中にしまうボリスは、映画史上に残る最低親父っぷりだった。
役者は全員素晴らしかった
ラブレス
色んな意味合いをもったラブレス。
やりたいだけの父親
自分しか興味がない母親
それはアレクセイや新しい恋人が居ようが居まいが関係なく死ぬまで続くのだろう。
愛の本質を知ろうとしない人たちの無限地獄。
捜索ボランティアの手際の良さは素晴らしい。
人間の「無責任さ」がしっかりと描かれている
ロシアは基本共働きが主流だが、ロシア人男性は女性が家庭を切り盛りすると思い込んでいる人が多い。裕福な暮らしをさせてるのだからいいだろうという男の身勝手さに、自由を我慢して私も仕事しながら子供を見てるんだけど!?というジェーニャの気持もわかる。こんな男の身勝手さを12年受けて蓄積されて、子供を厄介者として見てしまった部分もあると思われる。
終盤で、ソファでテレビを見るだけで子供と遊ばないボリスが、ジェーニャとアレクセイのときの12年もそうだったのだろうと推察させる。
家庭内にヒビを齎したのは、盛りのついたオス・ボリスだと思われ、終盤、ボリスが我が子と遊ばずケージに入れるシーンは胸くそ悪かった。
ラスト、ジェーニャがカメラ目線になる演出には、この映画の意味を感じた。
「あなたは?」と問いかけているような。
オチの川が映ったシーンでは、息子アレクセイは、映画冒頭のロープみたいなやつを取ろうとして恐らく川から転落したのだろうと容易に想像できる。家に『自分の居場所』がなくなった子供は、通学路や、廃墟の地下や、ちょっと遊んだ川辺に居場所を求めて彷徨っていたのだろう。そう思うと胸が苦しくなってやりきれない。
好き・嫌いを包む「愛」ではなく、好き・嫌いで推し量る「恋」をする人間しかいない。それはとても子供っぽく、責任を伴わない。時間が経てばすり減って行く好きという感情のままに結婚や子づくりをする。時間が経ち、好きが薄れただけで嫌いが色濃く見え、飽き始める。そして、また同じようなことを繰返す。
ラストシーンは、もう一つ「私がわるいの?」と問いかけているようにも見えてくる。
全員が、誰にも愛されない結末。なんとも後味が悪い。どんな時に見たらいい映画かわからない。しかし、ウィキペディアを見るにロシアの方々には、鋭い風刺的な意味を持つっぽい。
世界の終わりは来なかった
2012年10月10日に失踪した息子アレクセイ。元々できちゃった婚であったボリスとジェーニャの夫婦はすでに別のパートナーがいるため、息子を互いに押し付けようとしていたのだ。うっかりそんな夫婦のやり取りを聞いてしまったアレクセイは翌日失踪してしまう。
愛のない夫婦。息子に対しても全く愛情が感じられない。妻の実母にいたっては、自分のところに連れてくるなと叫ぶほど毛嫌いしている。テレビから流れるニュースではウクライナの内戦と、「世界の終わり」を告げるマヤの予言ばかり。まるで厭世観漂う世紀末の様相をも示していたが、とにかく個人主義に徹する愛のない世界。こんな現実もあったんだな・・・とにかく寒くなる映像ばかりで冷房要らずでした。
『父、帰る』は満点をつけてしまうほど衝撃的な作品でしたが、この映画ではあとからじわじわと来る寒さが印象的。愛がないことのつらさ。戦争ではさらに愛する者が奪われていく。マヤの予言がまた一層人間を変えていってしまう。捜索しても見つからないモヤモヤした気分はそのまま答えのないエンディングに終息してしまう・・・
どこにも愛が見つからない
ストーリーは
2012年、セントペテルスブルグ。
高層ビルが建ち並ぶ郊外に、12歳の少年アレクセイの住むアパートがある。見渡せば森がどこまでも続いている。その眺めの良いアパートは今、売りに出されている。両親が離婚して、それぞれの愛人と一緒に住むために、処分しようとしているからだ。そしてアレクセイを両親のうちどちらが引き取ってそだてるのか、互いに養育権を放棄していて争いが続いている。しかしアパートが売れるまで、夫婦は今のアパートで顔を合わせなければならない。会えば少年のことで口汚い争いが避けられない。
高層アパートから一歩外に出ると、そこにはまだ美しい森があり、大きな湖がある。アレクセイは、学校の帰り、遠回りして森を通って家に帰る。冬が終わりつつある。森を歩けば雪が溶けた後の落ち葉が、乾いた音を立て、湖は静まり返っている。アレクセイは落ち葉に埋もれていた赤と白の長いテープを拾い、小枝にからませて、エイヤと高い大きな樹に向かって投げる。テープは手の届かないずっと高い枝にひっかかって風になびいている。
母親のゼ―ニャは街の大きな美容院のマネージャーをしている。高給取りや中流階級の妻たちが顧客だ。彼女の愛人、アントンは離婚してテイーンの娘が外国留学をしている。彼がひとりで住むアパートは、近代的で広々としていて居心地が良い。
父親ボリスの愛人マーシャは、母親と一緒に小さなアパートに住んでいて、出産まじかだ。赤ちゃんが正式なボリスの子供として生まれてくることができないので、不安を抱えている。ボリスが泊まりに来るときは、マーシャの母親が、叔母の家に泊まりに行かなければならない。
売りに出ているアパートを見に、若い夫婦が訪ねて来た日、再びボリスとゼ―ニャは大喧嘩をする。アパートが売れたらサッサと息子を連れて出て行ってよ。なんてことを言うのだ。子供には母親が必要だ。うそ、子には父親こそ必要でしょう。何だったら寄宿舎のある学校に転校させて、そのあと軍に入隊させればいいじゃない。もううんざりよ。
ゼ―ニャは席を立ち、ドアをあけたままの洗面所に入り排尿し、乱暴にドアを閉めて、寝室に閉じこもる。その開けたままだった洗面所のドアの陰には、声を出さずに泣きじゃくるアレクセイが隠れていた。大写しのアレクセイの顔。翌朝、アレクセイは朝食を取らずに学校に走っていく。
2日経って母親は家にアレクセイが居ないことに気付く。互いに愛人の家で過ごしていて、相手が家に帰っているとばかり思っていたので、学校から2日間登校していないと連絡があるまでアレクセイが家に帰っていないことに、誰も気がつかなかったのだ。ゼ―ニャは警察に連絡する。事情聴衆の後、郊外に住む、アレクセイの祖母、ゼ―ニャの母親の家に行っているかもしれないので、確かめるように、警察に言われて、夫婦は3時間運転して、祖母の家に向かう。しかしゼ―ニャの母親は、彼女に輪をかけたような自己中心の寡婦で、アレクセイのことを心配するどころか、夫婦の突然の訪問を非難するばかりだ。再び夫婦は家に向かう。醜い口論が果てしなく続く。警察の人手が足りないので、捜索にボランテイアの力を借りることになる。約40人のボランテイアが警察の指導のもとに、森に捜査を広げる。
アレクセイの友達の情報から、森の奥で打ち捨てられた昔の工場跡にボランテイアが向かう。その地下室でアレクセイのジャンパーが見つかった。しかしアレクセイの姿はどこにも見つからない。しばらくして警察では、身元不明の姿かたちを留めないほど傷だらけの遺体が見つかり夫婦が呼ばれる。しかし二人は、それをアレクセイだとは認めない。DNA検査も夫婦は拒否する。
捜査は打ち切られる。時間が経ち3年後。人々はアレクセイのことを忘れてしまったかのようだ。ボリスは、赤ちゃんの父親になり、マーシャが母親と一緒に住む狭いアパートで一緒に暮らしている。ゼ―ニャは、恋人の初老の男と暮らしている。
森の、アレクセイが学校帰りに通った湖畔。大きな樹の枝にアレクセイが放り投げて、枝に引っかかったままの赤白のテープが、風にゆれて空を踊っている。
そこで映画が終わる。
映画の初めの方で、両親の諍いに身の置き場がなく洗面所のドアの陰で泣いていたアレクセイが翌朝駆け足でアパートの階段を下りるシーンを最後に、二度と映画の中で姿を現さない。雪の舞う廃墟になった工場でジャンパーを脱いだアレクセイは、そのまま姿を消してしまった。生きていないことだけは確かだ。彼の傷ついた魂は、大木の枝で風に舞い、空に向かって羽ばたくテープのように自由に飛んで行ったしまった。
現代社会で夫婦が別れ、互いに子供を押し付け合っているというどこにでもある話。とても単純なストーリーなのだが、見ている観客は胸に鋭利な刃物を当てられたようなインパクトを与える映画だ。映画の始まるシーンでは、冬のおわり、寒空の下、乾いた空気と枯れ葉の映像が写される。かすかにピアノの音が聞こえてくる。低い Eの音の連弾。この音が段々大きな音になって響き渡る。呼吸が速くなって、恐怖感が増してくる。音が最大限まで大きくなって緊張感が最大限まで高まる。そうして映画が始まる。映画の最初のシーンで、もう監督は観客の緊張感と集中力をわし掴みにしてしまうのだ。
少年が誘拐されて血に染まったり殺人犯に切り刻まれる訳でもなく、どこの目鼻があるのかわからないほど殴られ虐待されるわけでもない。映画の中で、血が一滴として流れるわけでもないのに、これほど恐怖心が湧き、心が痛む映画も珍しい。ひとえに監督の作り出す映像の手法の巧みさにある。
監督は「現代には濃いかたちで存在する愛がない。そのラブレスな状態を見せたかった。」「AIに職業が奪われていくような時代です。我々は他人を犠牲にしなければ生き抜けない。狂気じみた生存競争のなかにいる。芸術家は時代を切り取る者。今の状況を映す映画や文学が多く生まれるのは当然のことです。」と言っている。この監督は2014年にロシアで、国内の官僚による腐敗を告発するフイルムを作って、その発表を政府に止められた経緯がある。それを同情する映画界の国際的な支持があって、この映画がカンヌ映画祭で審査員賞を与えられた、といわれている。政府の内部告発が、現代社会への告発にぼやけさせられた、そんな形でしか映画が作れなかった、ということかもしれない。
ゼ―ニャはいつも携帯電話を見てばかりいる。恋人とデイナーテーブルに付いているときでさえこれを離さないで、グにもならない写真を撮っては自己陶酔している。アレクセイが居なくなって3年経って恋人と一緒に暮らすようになっても、二人の間に会話はなく、彼女が幸せそうには見えない。
夫のボリスもゼ―ニャが妊娠して結婚せざるを得なかったように、新しい恋人マーシャが妊娠して再婚したが、そのことによって彼の人生が変わったわけでも、新しい結婚生活に愛が溢れているわけでもない。赤ちゃんが泣くわめくと、ベビーコットの中に無理やり押し込んで、赤ちゃんが泣くわめこうが抵抗しようがお構いなしだ。
ゼ―ニャと母親とのやり取りも見れば、ゼ―ニャが母親から充分に愛されることなく孤独な子供時代を送ったことは容易に想像できる。おそらく夫のボリスも同じだろう。どこにも愛がない。愛など見つかる筈がない。
愛情をもって育てられなかったアレクセイがどれほど心に深い傷を負っていたか。映画の初めで彼が夫婦喧嘩を聞かされた翌日に姿を消し、2度と姿を現さなかったことで彼の心の傷の深さを思い知らされる。
自分以外の人を愛せない人は、結婚相手を変えてみても、子供を変えてみても,愛は見つからない。なぜなら、愛はどこかに落ちているものではなく、それを持っている人と一緒になれば得られるものでもなく、自分で見つけて、育てるものだからだ。相手の生き方の中に入って行き、自分と違う相手を発見して、そのことに喜びを見出すことだ。自分と違う相手の存在を喜び、共有できるものを相手と一緒に探すこと、そういった努力を伴う行為が愛であり、人も自分も幸せにすることができる。
ラブレスという親から子への虐待を止めるには、愛が欲しいと相手を変えて見たり、別の土地に移って見たり、愛が欲しいと叫んでみても、かなえられない。ラブレスは親から子へ虐待という形でおこり、その子供が再び同じように、次の子供に虐待を繰り返す社会的な不幸の連鎖を招く。愛を見つけるには、自分を見つめることだ。自分でなく相手との違いを喜び、共感することを喜ぶことだ。愛する人が居るということが、どんなに大きな生きる支えになるか、喜びも悲しみも、怒りや驚きや笑いや、憎しみさえも愛に値する人がいるから起きてくる感情だ。愛するもののためにどんなことでもしたいと思うとき、生きる価値も出てくる。
映画ではアレクセイを探し出すためにたくさんのボランテイアが出てくる。実際にロシアで活躍するリーザ アラートという組織だ。頼まれてやるわけではない。自分の子供が突然居なくなったらどう感じるか、よその親の心配を自分の子供を心配するように思って、警察の捜査に協力する。集まって来るのは普通のおじさん、おばさんたちだ。素晴らしい人々。オーストラリアでも山火事の消防隊、ビーチでのレスキュー、山で行方不明になったひとの捜査隊、みなボランテイアで、彼らは人々の英雄だ。こうしたボランテイアの経験者は誰からも尊敬されている。人の為に生きること、それが自分のために生きることだ。このトルストイの言葉はいつも私を勇気付ける。
音楽がとても良い。ユージン ガルペリンと、サッシャ ガルぺリン兄妹の作曲だという。映画の初めのE音の連弾は、映画の最後でもこの激しい連弾で終わる。この迫力が素晴らしい。
どのシーンで使っていたのかとうとうわからなかったが、アルヴォ ペルトの曲も使われているらしい。エストニア生まれの宗教音楽、古楽、三和音などを得意とする作曲家だ。彼の音楽は鎮魂の音楽と言える。この人の世界が、この映画の湖や森の映像にそっくり重なって来る。
関係ないけど、一流企業に勤めるボリスの会社のランチシーンが面白かった。アメリカ映画だったら、女子はバナナ、リンゴとヨーグルトとかでゴリラのランチと同じような内容だし、ごっつい男なら野菜なしの骨付きステーキが普通みたいで、もう見飽きたけど、ここではさすがロシア。ボリスはでかいポテトがいっぱいと肉団子。彼と「離婚したら出世に響くかなあ。」などとしゃべっている同僚は、ブロッコリー山盛りと魚のシチューみたい。それにデザートらしき小皿がついていて、ふたりとも別の小皿に入った生野菜から食べ始めていたのには、感心感心。健康ですね。愛がないけど。
出てくるみんながラブレス
少年の泣き顔が衝撃的だった。
朝ごはんを用意したり
完全に母親を放棄しているようには見えなかった。
父親は会社のために家族が欲しかっただけなのかな?
息子を名前で呼ばず坊や(字幕だけど)と呼んだり、
話しているシーンがなく関係性がわからない。
失踪してからは少年は出てこない。
夫と妻の私生活が描かれていた。
ふたりとも愛を求めているんだと思った。
愛されたい、愛したい。
それが今の夫や妻、子供にはもてないから
やり直したい。
そんな風に見えた。
息子が行方不明になってふたりとも
心配しているように見えたけど
エンディング、あれから何年か経ち
ひとは変わらない。変われない。ことを
痛感させられる。
夫はまた自分の子を愛せず
妻も愛している人を見つけたのにもかかわらず、
会話もなく、またふたたび幸せを感じれずになっているように見えた。
なにが幸せで、なにが不幸なのか、それって
自分自身の感じ方次第なのかもしれない。
違った環境を欲するくせに
慣れてしまえばまた元どおり。
ひとが悪いんじゃなく
原因は自分だ。
愛は自分次第だなと思える映画だった。
唯一、あの紐の意味がわからない。
少年が投げたあの紐、、、。
なにかメッセージがあるんだろうけど
汲み取れなかった。
何か感じた方がいたら、教えてほしいです。
『無関心』が1番残酷
ただひたすらに怖かった。辛かった!
無関心で家にも帰らなかったくせに、居なくなった途端探し回り、泣き喚き。きっとこれは愛情などではなく、ネグレクトが明るみに出るようで都合が悪いからなんだろう…というのが手に取るように分かる、失踪後の両親の過ごし方。父母共に既に外に相手がおり、セックスに浸ってはふと虚無感漂う虚ろな目。人と理解し合う為にぶつかり合うわけではなく、苛立ちを放出する為だけにぶつかり合ってきた2人は結局ラストにも何も変わる事はなく、同じ事の繰り返しを示唆するような映像でエンディング。
子を持つ親には、たとえその人が幸でも不幸でもリアルに感じる映画作品だと思った。決して「楽しめる映画」ではないけれど、観る価値がある。
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