「法務省のプロパガンダ映画なのか?」僕の帰る場所 Imperatorさんの映画レビュー(感想・評価)
法務省のプロパガンダ映画なのか?
浅川晃広という「入国管理局・難民審査参与員」が書いた、公式HPのテーマ解説では、「難民申請」という「センシティブ」で「政治的な問題」を、“ぼかして”正面から扱わず、「あくまでも一家族のライフヒストリー」にこだわったとして、本作品を称賛している。
「専門家から見ても、論点満載」なテーマを、「万人向け」に「多面性」を持たせた「恐るべき」作品なのだそうだ。
アホらしくて笑ってしまったが、それが制作側の意図なのだろうか?
だとすれば、「ルポ 入管」(平野雄吾著)、「となりの難民」・「ある日の入管」(織田朝日著)を読んで、“入管”行政の非道さを知ったことで、この映画を観に行った自分としては、がっかりさせられる。
確かに、直接に“入管”行政に抗議するような描写は抑えている。
しかし、
・入管に収容された“病気を診てもらえない”父親
・意味もなく長期間待たされたあげくに難民申請を却下される夫婦
・自宅にやって来た入管職員に毒づく父親
など、必ずしも“法務省のプロパガンダ”とは思えない描写もある。
公式HPの解説が書くように、「難民」という視点が「ぼかされている」がゆえに、よく分からない箇所が出てくる。
なぜ母親は問題なく帰国できて、父親は危険で帰国できないのか?
そもそも、なぜ難民なのか。
ミャンマーに帰国し、母子が仲直りした後、父親の故郷に行く。ガジュマルのようなスゴい木がある田舎だ。
途中で、キリスト教墓地がチラッと映る。ということは、父親は人口比6%という少数派のキリスト教徒であり、それが原因で弾圧され、日本に脱出したのかもしれない。
一方、母親は多数派の仏教徒であり、日本では父親のいないところで一人で礼拝し、ミャンマーに帰れば寺院に詣でている。
キリスト教徒と仏教徒の結婚だからこそ、母親が「あなた(父親)に付いてきたのは間違い」だったとなるのかもしれない。
しかし、「ぼかされている」がゆえに、ミャンマー通でない自分には分からない。
藤元明緒監督・脚本の“ドキュ・フィクション”は、東京国際映画祭で観た映画「海辺の彼女たち」(5月公開)もそうだったが、問題を切り取って提示して見せる“だけ”だ。
それでは、外国人の不幸をネタにした物見高いジャーナリズムに過ぎず、「多面性」とは言えない。
「多面性」とは、いろいろな“主張”が示されてこそだ。本作のような、“主張がない”こととは違うだろう。
本作の重要なポイントは、母親がミャンマーにしっかりと生活基盤を残していた、という点である。
難民の場合、こういう恵まれたケースは一般的とは思われない。では、何もかも失っている難民の場合はどうなるのだろう?
「僕が帰る場所」など、どこにもないのだ。現に、本日(4/19)もクルド人の難民申請者が「“入管法”改正案に反対」というニュースが出ている。
“政治”がテーマでなくていいし、自分も“政治”的映画を観たいわけではない。しかし、扱うテーマの深さに応じた、最低限の“主張”は必要なはずである。
もしも本作品の“主張”が、
・「難民の方は、“帰る場所”にさっさと帰って下さいね。」
・「この映画の通り、移民2世の子も送還された先で、次第に馴染んでいきますから大丈夫です。」
・「父親は気の毒ですが、一生、オーバーステイの日陰者として頑張って下さい。」
であったならば自分はあきれてしまうが、そういう“主張”ならそれでも構わない。
ファミリードラマでお茶を濁さず、もっと明確に“難民排斥”を主張すべきであろう。
藤元監督は、こういう「論点満載」なテーマを扱う以上、もう少し自身の“主張”を明らかにして描くべきではないだろうか?