「朝子は「追いかけたい人」だったんだと思う。」寝ても覚めても ウシダトモユキ(無人島キネマ)さんの映画レビュー(感想・評価)
朝子は「追いかけたい人」だったんだと思う。
亮平と朝子が並んでベランダに立って、その先にある河を眺めている。
亮平は「汚い河だな」と言い、
朝子は「でも、綺麗。」とつぶやく。
ラストシーンのセリフはこんなカンジ。
同じ「河」に対しての2人の見方は違うのか。そもそも映画的にはこの「河」って何なのか?主題歌のタイトルが『RIVER』ともいうだけに、この物語に対して河は大きな意味を持つようだ。
じゃあ、この「河」を目的地として、まずは本作『寝ても覚めても』というタイトルから考えてみようかな。
言わずもがな、「寝ても東出昌大、覚めても東出昌大」という意味だと思う。寝たり覚めたりするのは朝子なので、この映画は朝子の物語だ。「寝ても覚めても」を「夢と現実」、もしくは「理想と現実」と言い換えてみると、「理想の東出昌大と現実の東出昌大」の話となって、二役に当てはめてみれば「朝子にとって理想の鳥居麦と、現実の丸子亮平」の話ということになるんじゃないかなと思う。
「朝子が何を考えているのか、その行動原理がわからない」というようなコメントを目にしたけど、そもそも恋愛において、ちゃんとした行動原理で行動できることのほうが少ないものだと思う。それが苦しくもあり楽しくもあるのが恋というものなんだろう。当事者にだってわからないものを、相手方や第三者がわかろうとするのは難しい。だからそういうわからないところもひっくるめて相手を受け入れていくっていうのが、恋から愛へのステップだということも、よく語られることだ。
でも僕は、本作の朝子については、わりと理解しやすいというか、一貫した心の流れがあったように思えた。もちろんそれはただ僕が、わかったような気になりたいだけなのかもしれないけれど。
朝子はたぶん、「追いかけられて追いつかれるのではく、追いかけて追いつきたいスタイルの人」なんじゃないかなと思うんだ。これは僕がラジオ版で話したところの、「自分 “が” 100%で好きな相手と、自分 “を” 100%で好きになってくれる相手と、どっちを選択するか?」という問いに基づく考えになるのかな。僕はもう恋愛について考える際に、「マウントを取る/取られる」というモノサシで測るクセをいいかげん卒業しなきゃと思ってはいるんだけど、本作の朝子についてはそのモノサシを使うと理解できるような気がしてる。
朝子にとっては、
「ふんわりと逃げてしまいそうな鳥居麦を追いかける恋が理想」であることに対して、
「しっかりと追いかけてくる丸子亮平を受け入れる恋の現実」が苦しかったんじゃないかなと思う。
無条件に人を愛することって、なかなかスゴいことのように思えるけど、実は迷う必要がない分、楽しくて甘美だとも思う。
逆に無条件に人に愛されるのって、かなり嬉しいことのように思えるけど、ホントは自分の悪いところや醜いところを無視されているようで、けっこうしんどいんだと思う。
自分を無条件に愛してくれる人を愛し返したはいいけど、自分の悪いところや醜いところに相手が気づいたとき、自分が嫌われてしまいそうで怖いって、朝子はずっと迷ってたんじゃないかな。
丸子亮平はホントいいヤツ。朝子のことを本当に愛している、ように見える。でも「朝子が鳥居麦を好きだという負い目を踏まえて愛してくれてる」わけではない。だって朝子は話してないからね。で、話してみたら「自分が鳥居麦に似てたから朝子と付き合えたと考えれば、それはラッキーだ」と言う。大したモンだと思う、なかなかそんなふうには言えないよ。でもね、やっぱ負い目だと思ってる朝子にしてみれば、それは丸子亮平のやせ我慢で、朝子の負い目から目を背けてるだけかもって、考えちゃったんじゃないかな。朝子としては、自分の負い目に正面からぶつかって、爆発させて、消化して、その上で許されるところから、朝子と亮平の関係は初めて始まるって思ってたんだと思う。
鳥居麦がどういう人間か。それは実は朝子にとっても観客にとっても、どうでもよかったんだと思う。あれは恋に対する夢とか理想に、手足が生えて服を着てるだけの存在だったような気がする。鳥居麦が幻想的な人物だったのではなくて、鳥居麦に幻想を重ねていただけで充分だったというか、幻想を担わせる人物としてちょうどいいタイプだったというか。そういう、「人間」というよりは「概念」みたいな存在だったんじゃないかな。余談だけど、僕にとっても初恋の人は、もはや「人間」じゃなくて「概念」になってる笑。だから何年離れていても、ずっと好きなの、人間じゃなくて、概念だから。
でも、そんな鳥居麦が、人間という実体をもって、自分の前に現れちゃった。そりゃあとりあえずはテンション上がっちゃうでしょうよ。
あのレストランで鳥居麦の手を取って飛び出したのは、出来事としてはショッキングだけど、あんなの、出会い頭の交通事故で、事故の瞬間に運転手がハンドルを右に切ったか左に切ったかの違いに過ぎないと僕は思う(暴論?)。僕はあのレストランで暴かれたのは、「朝子の刹那的な愚かさ」なんじゃなくて「亮平、やっぱ朝子のこと受け入れ切れてなかったじゃん」ということなんだと思う。「ああ、そりゃあ丸子亮平だって、ああいう目するよね。」っていう。
そんなこんながあって、鳥居麦の運転する車は仙台に停まり、朝子はそこで鳥居麦と別れることにする。ここも「いったいなんやねん!」とか「コロコロ気が変わるやっちゃな!!」とか、朝子嫌われポイントになってる意見も目にするけど、ここで変わったのは朝子の気持ちじゃなくて、「鳥居麦が朝子を追いかける側」に変わってたってこと。そして「朝子が丸子亮平を追いかけるべき立場」に変わってたってことなんじゃないかなと僕は思ってる。
おそらく丸子亮平はその時、朝子の負い目に初めて正面から向き合って(向き合わされて)、爆発してる。鳥居麦は過去から自分を追いかけてきたけど、自分が未来に向かって丸子亮平を追いかけていける立場になった。そしてそんな丸子亮平に追いついて許してもらえたなら、その時にはもう鳥居麦への理想も丸子亮平への愛情に昇華されているはず。そこには友人たちの理解や応援や手助けはない。ようやく朝子は丸子亮平に対して、全力で無条件に愛せるようになったんだということ。
川沿いの道を走って逃げる亮平と、追いかける朝子。二人を照らす日差しが奇跡的な俯瞰のショットは邦画史に残る名場面だと思うけど、ようやく朝子は丸子亮平に追いかけられるんじゃなくて、亮平を追いかけられるようになった。そういう象徴的な場面としても素晴らしかった。
かくして朝子は亮平に追いついて、ベランダに並んで立つ。向き合う段階を過ぎて、同じ方向を見つめるというスタンスで並んで立つ。二人の目に映っているのは、これからの人生を暗喩する意味での「河」なのだろう。それはかつて亮平にとっては、自分を脅かすことのない、景色としての河だった。でも何かの拍子に増水すれば、自分が巻き込まれることもある、理不尽や矛盾や不信が渦巻く濁流になり得る河である。「汚い河だな」というセリフには、そういう想いが込められているのだろう。
朝子にとっては、その濁流が、理不尽や矛盾や不信を抱えて流れつつも、河が流れ続ける限り、それが日々の河の営みだと思えるのだろうし、いつかは濁りも流れ去ってまた穏やかな河になる未来が見えているのかもしれない。それを指して「でも、綺麗。」とつぶやいたのだと僕は思いたい。
朝子が「理想」にケリをつけて、「現実」を掴み取ろうとした話。結論としてはそんなシンプルな話なのかなとも言えると思う。
鳥居麦か、丸子亮平か。どちらが恋の正解なのかと問われれば、「両方と別れて新しい恋を探す」のが、僕は正解だと思う。でも、そのどちらであっても、自分が選んだことを正解にしていくこと、それが愛なんだと僕は思う。
ていうかね、男と女が共に生きていく河なんて、そもそも濁流なんだと思うよ。