立ち去った女のレビュー・感想・評価
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『ショーシャンク』とは腹違いの兄弟
長尺映画の鬼才、ラヴ・ディアス作品は初体験ということで、相当に身構えて観た。4時間近い上映時間、基本的に長回しのフィックス画面で描かれる、深遠な復讐劇である。
ところが、重厚な画面に圧倒され、ねじ伏せられるだろうという勝手な予想は大間違いだった。緻密に構成されたフィックス画面、というよりも、敢えて完成度を追い込まないような隙のあるショットも多く、難解さも感じない。確かにテンポは速くないが、いつの間にか慣れてしまい、気がつけば長さもさほど感じなかった。
物語のベースはトルストイの短編小説で、実は同じ小説にインスパイアされてスティーブン・キングが書いたのが『ショーシャンクの空に』の原作だったりする。いわば『立ち去った女』と『ショーシャンク』は同じ父親を持つ腹違いの兄弟みたいなもの。それを踏まえてこの映画を観れば、おのずとハードルも下がるのではないだろうか。
人の世を立ち去って
30年間無実の罪で刑務所に収監されていた老女が、その元凶となった男に復讐を誓う物語。
老女ははじめから復讐心を抱いていたわけではない。彼女は看守長に告訴しないのかと尋ねられ、今はいい、と答える。それよりは息子の行方のほうが気がかりだった。娘によれば、いくら新聞やラジオに頼んで呼びかけてもらっても、息子は姿を現さなかったという。老女は息子を探す旅に出る。
老女は旅先でさまざまな人々と出会う。彼らはみな社会から零落し、忌避され、惨めな暮らしを送っていた。大家族を抱えるバロット売りの男、てんかん持ちのゲイ、知恵遅れの中年女性。老女は彼らとの交流を経る中で、次第に自分の人生を台無しにした元凶、成金ギャングのロドリゴへの復讐心を募らせていき、それに伴い息子を探すという本来の目的を見失っていく。
ただこれを、貧民に対する老女の連帯意識の増幅過程と断言するのはちょっと憚られる。老女は確かに彼ら社会的弱者に優しさを示すものの、そこには常に一定の距離がある。たとえば彼女はバロット売りの男に幾度となく「バロット食べるか?」と誘われるが、「今はいい」と断ってしまう。彼の子供の食費や医療費を与えることはあっても、彼から何かを受け取ることはない。
てんかん持ちのゲイにしても同じことだ。老女は彼女を介抱し、病院に連れて行きはするものの、彼女のほうから老女に干渉しようとすると、老女はものすごい剣幕で怒鳴り始める。老女の優しさは常に一方向的だ。
おそらく、老女自身もそうした自分の本性を自覚している(散々怒鳴り散らした後でゲイに謝る彼女の姿はまるでよくあるDV彼氏のようだ)。ゆえに彼女は焦っていたんじゃないかと思う。私は誰かと本当に繋がることができるのか?と。思えば獄中で唯一無二の親友だった女も、実は自分が着せられた罪の真犯人だったし、娘は自分が収監されている間一度たりとも面会に来たことがないし、息子は行方不明だし。
このとき、ロドリゴはちょうどいい材料だった。彼は老女の個人的怨恨の対象であると同時に、豪奢に溺れる資本主義の権化、すなわち貧民の真の敵でもあったからだ。同じ敵に同じ熱量の感情を向けることができるなら、そこには本当に対等な関係なるものが成立するのではないか?と老女は希望を抱く。
しかし彼女の計画は壮大な空転を迎えることとなる。てんかん持ちのゲイが彼女の銃を盗み出し、それでロドリゴを撃ち殺したのだ。彼女は「ある人のためにやった」と供述する。そしてその名を決して明かそうとしない。
復讐という唯一の希望を奪われた老女は街を去る。そして今更思い出したかのように行方不明の息子の捜索に本腰を入れ始める。
白い教会の前を彼女がうろつくシーンは示唆的だ。堂々と屹立するマリア像。それはきっと老女自身なのだ。人々に無償の愛を与え続ける聖母。しかし彼女が本当に欲しかったのは、もっと素朴で対等で人間的な繋がりだったことは先述の通りだ。
老女は街中を幽霊のように徘徊する。グルグルといつまでも同じ場所を回り続け、どこにも辿り着くことができない。それは終ぞ人間になれなかった女神に課された悲しい宿命なのだと思う。
アジア映画というと、日本、中国、韓国、台湾、香港、タイ、インド、イランあたりが注目されがちだが、四方田犬彦はフィリピン映画を「近年稀に見る鉱脈」と絶賛した。とはいえフィリピン映画はタイ映画にもまして国内に輸入されてこない。カンヌ・ヴェネツィア・ベルリンといった西洋主義にお墨付きを頂戴しない限り、我々は同じアジアの人々が手がけた作品さえまともに鑑賞することができない。
私が本作を見ることができたのも、もちろん本作がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を射止めたからに他ならない。もちろんそれは僥倖なことなんだけども。
長尺映画と言うより、フィリッピンで映画が作られていると言う驚き。
何よりも映画のタイトルに惹かれて観てしまった。
モノクロームの光と影、固定カメラでのワンショット、昼と夜の交差が人間の善と悪を内包する心を表す。何時しか時間の流れを無視して見続ける僕。完全にこの映像世界に浸り込んで身動きができなかった。人の哀しみには同調しずらい。それは、喜びと違って哀しみには人それぞれ大きく違うからだろう。想像だにできぬものはこの世にいくらでも存在する。30年に渡る冤罪刑期は復讐心を満足させることなどない。そんなことは明白。にも拘わらず計画を練る彼女の姿がこの国の人たちの感情を痛々しく表しているかのようだ。禅問答のような台詞のやり取りや、彼女の夜と昼の姿が変わってしまうことへの疑問符は、波間で浮き沈みする空っぽの空き瓶のように回答はない。
優しさや献身は残酷なものなのだ。それは、快楽なのだろう・・・・。
生きていくというのは、そう言うことなのだろう。映像の力はやはりスゴイ。
復讐が似合わない女
映画界のロック・スターことラブ・ディアス。本国フィリピンではすでに神扱いされている映画監督さんらしいのだが、8時間ごえ9時間ごえという長尺作品が多く、なかなか商業ルートにはのりにくいせいか日本における知名度も今一つ。比較的短めの本作といえども放映時間は3時間48分の超長尺、映画の文法にあえて逆らったアバンギャルドな作品をお好みの方にはおすすめできるアーティスティックな1本である。
まず主人公のおばさん、どこぞの会社でCEOをしていたとかいう元女優さんらしく、本作が復帰第一作目になるということだが、はたして二作目も本当にやるの?といった感じなのだ。冤罪で30年間服役していたホラシアという元小学校教諭の女性を演じているのだが、獄中子供に勉強を教えたり、社会的弱者をいたわるシークエンスなどはともかく、自分を嵌めた男へ復讐するためキャップをま深にかぶった姿は、まさに被災地を訪問する小池百合子?。悪ぶった演技がこれほど似合わない人も珍しい。
モノクロのコントラストをきかせた映像で、誘拐事件が多発しているフィリピンの闇を描こうとしたのかなと思いきやさにあらず。教会の回りをうろついている知的障害の女、貧困家族を抱えたパロット(孵化しかけた卵)売りのせむし男、ゲイ(というよりオカマ)でてんかんもちの売春夫たちに施しを与えるホラシアの優しい姿がただ淡々と描かれる。宿敵ロドリゴへの復讐心をたぎらせるサスペンタッチのシーンなどもほとんどなく、酒をくらって眠りほうけているうちに別の男?に標的のタマ?をもっていかれるというありえないオチが待っているのである。
ワンシーン・ワンカットの長回しと対象を豆粒のようにとらえたロング・ショットが、アントニオーニやアンゲロプロスと比較されることが多いディアスだが、ねらった効果はまさに逆。長回しでは緊張の代わりにまったりとした弛緩を呈示、当初ロングショットでとらえていた社会的弱者Xたちも、映画後半にかけてカメラが寄りだすとともに、人相も素性も明らかにされていくといった変態演出。黒澤明が雨に墨を混ぜてなんとかカメラに映しこんだという雨粒も、このディアス、なんと掟破りの逆光(車のヘッドライト)を使って観客に目視させているのである。
ディアスの意図として、今までの巨匠たちが築き上げてきた既成の技法をあえて無視して、光によって闇を描き、闇によって光を描こうとした実験的作品だったのではないだろうか。社会的弱者に優しく接することによって神に許しを乞いながら、復讐を希望に生きる糧としてきた或る女の内面を、パラドキシカルに表現しようとした映画ではなかったのだろうか。その屈折した希望さえ奪われマニラに渡ったホラシアは、行方不明の息子を探すことを後生の支えにしようとするのだが…。憔悴しきった年配の女が最後、息子の顔を印刷した大量のビラの上をグルグルと周り続ける。希望という魂の束縛から逃れなければけっして自由にたどり着けないことを気づけぬままに。
〈彼の意識にある焔は、鉛色をした夢の続きか、狂気の沙汰なのか、彼の意識は自由なる世界を捨てたのか。もし彼が正気でないなら、来るべき自由よりも、いまを永遠に望むだろう。だが、どうする。許しを請う日を待っていたのでは? 真実を暴かれるのを求め続けたのでは? 彼の魂を浄化するには、それしかない、それが彼の魂を救う。それのみが…その瞬間、残された唯一の機会だと彼は気づいた。心を解き放ち、束縛を振りほどけ。自由になるときはいま。そして彼は、淵に沈む魂の力を残らず拾い集めた。疲れ切った手でドアを開けたとき、きらめいた光の音に驚き目を閉じた。彼を倒そうとして風が吹きはじめる。彼は力を振り絞り心に残された希望にしがみつく。そして、ふたたび彼は目を閉じた。 『漆黒の塔』より〉
長いからこその映画体験
フィリピンへ短期赴任する前に観ました。
非常に長い映画ですが、スクリーンの前に長時間座っていたら、映画の中に入りこんだような不思議な感覚におちいりました。
初めての感覚で、一見不必要にも思える長いシーンがたくさんありますが、やはり全て必要なシーンなのだと思いました。
粒子の細かい映画、という感じがしました。
白黒でひんやりしたイメージだったので、実際に訪れたフィリピンは一年中30度超えで、なかなかこの映画のイメージと結びつきませんでした。
気合いを入れて見るべし
長くて派手さは全くない。それは不要な要素をそぎ落とした結果だと捉えることができる。
キャラ設定、シナリオ、光と影、それだけでこの長編を最後まで興味を削がれることなく見続けることができる作品は、非常に希だと思う。
出だしのシンプルな白黒映像と長回しを見た限りでは、正直、これは最後までは無理だなと感じたけれど、最後まで意識は作品に向いていた。おかげで見ているこちらの体が蝕まれたような感じで、見終わった後、体調を崩してしまった。それを作品のせいにするのはお門違いだとは思うけれど、そう思ってしまうぐらいのパワーを感じる作品だった。
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