「個人的ラストの解釈」累 かさね 野々原 ポコタさんの映画レビュー(感想・評価)
個人的ラストの解釈
土屋太鳳さんの演技、ダンスに魅了され劇場で3回鑑賞しました。
そのあと、劇中劇の『かもめ』と『サロメ』の舞台演劇を実際に鑑賞したり
さらにはオスカー・ワイルドの著書や
聖書のサロメをモティーフに多くの作品を残した
象徴主義の画家、ギュスターヴ・モローの展覧会にも足を運んだりしたのちに
改めて本作『累 かさね』を見直しました。
「最後はスッキリしない」「モヤモヤする」と
おっしゃっている方もいますが、わたしもなにか引っ掛かる。
なにかしら違和感を抱いていましたが
極めて個人的な意見ではありますが
ひとつの解釈に至りましたので、ここで発表させて下さい。
ラストのクライマックス前に、累とニナが揉み合ってビルから落ちて
累はニナと顔を入れ替えて舞台に戻ります。
ニナは重傷を負って血だらけで救急車で搬送されるところまでを
描かれていますが、そこでのニナのセリフ、
「お願い、殺して…」
あのニナが死を願うなんて…
ここがわたしの感じた違和感となり
【口紅】の設定を考え直すきっかけになりました。
〈もし顔を入れ換えている最中に片方が命を失ったら
その時、顔は本来の持ち主に戻るとしたら…〉
これがわたしの想像した新しい設定であり
ニナが最期に仕掛けた企みな訳です。
だとしたら、拍手喝采の観客の前に立っていたのは
はたして“ニナ顔の累”だったのか
はたまた“累本来の顔”だったのか…
そんな、とんでもない含みをはらんだ
最高のラストショットだったのではないのでしょうか?
…というのがわたしの解釈です。
ちなみにわたしはまだ原作を読んでないので
(もちろんいつか読みたい)
本来【口紅】にどんな設定が組み込まれているか知りません。
が、原作ではすでに累本来の顔で演劇をしていると聞いたので
この思考に至りました。
あくまでも個人的見解ですので
もし気を悪くした方がいらっしゃいましたらゴメンなさい…
※ちなみに鑑賞直後に、ドメスティックなサイトに上げたわたしの感想です
表現と自己顕示欲への渇望 ~ 累 と 響 の類似点 ~
(投稿者:ポコタ)投稿日時2018/09/21 19:42 評価4つ星
最初、私は本作を全くもってノーチェックで視聴する気はなかったのですが…
ほぼ同時期に公開していた『響 ひびき』を先に視聴して考えが変わりました。
「この2つの作品はきっと私の中で何かが繋がる」そう直感したからです。
そしてその読みは見事に当たりました。
私のつたない文章で思う様、共に描かれている類似点を書き連ねるに
狂気にも似た天才の存在と取り巻く人々のあいだに起きる…
嫉妬、嫌悪、不理解、劣等感、優越感、認知と周知
そしてそれらの欲望を内包しても尽きることのない
『表現と自己顕示欲への渇望』
あと、「響」のレビューで最初に記したのですが
●オスカー・ワイルド繋がり
(「響」という作品を紐解く上で私が思考メソッドに置き換えて勝手にこじつけただけ、
「響」には直接関係ありません)←今では無関係じゃなかったと確信しております!
●表現者繋がり
●タイトル漢字一文字繋がり(今となっては偶然とは思えない、制作が同じ東宝ゆえ)
…と類似点を挙げましたが逆にこの2作品の決定的な違いを考えてみましょう。
私は主人公が『偽っているか、いないか』の違いだと思います。
「響」は偽りのない自分を突き進みます。
そこにシビれる憧れるぅー!でも同時に底知れない恐怖も覚えました。
「累」は顔を偽り、他人を偽りそして自分をも偽っていたと思います。
母親の亡霊に取り憑かれながら「私はサロメにはならない」と思っているものの
サロメそのものにならざるを得ない性なのでしょう。
主演の二人、芳根京子さんと土屋太鳳さんはまさに「二人二役」の演技でとても見応えがありました。
土屋さんの表現者としてのポテンシャル、劇中劇の「七つのヴェール」の印象的なダンス
そして『あぁ…わたし、あなたの唇に、キスをしたわ…ヨカナーン!』
という言葉が呪詛のように作品の中にも、私の中にも深く沈殿して行くのでした…