劇場公開日 2018年8月24日

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「「終わりとは、新たな始まり」」検察側の罪人 みねおさんの映画レビュー(感想・評価)

2.0「終わりとは、新たな始まり」

2018年8月29日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

笑える

 最初に言っておこう。不条理をベースに映画全体が構成されているのかして、始めから終わりまで見終わったあとスッキリしない感が残る。例えて言うと「尿が出きっていない感じ」、「尿が残っている感じ」のような気持ち悪さを感じられる映画だ。気持ち悪さを感じられたならアタリだ。

 さて、ラストシーンに何を見る?
 天を仰ぎみて叫ぶ沖野。彼の叫びは何だったのだろか。断腸の思いが叫びの声となったのだろうか。はたまた、憤怒に震え叫びの声を上げたのだろうか。それとも一連の出来事を通じ―断腸の思い―憤怒―により共振・共鳴。それが、彼の心を揺らし、声を上げさせたのだろうか。
 否、そうではないのかもしれない。
「……君が本当に救うべき人間を見つけて、力を注いでやってくれ。俺じゃない」最上の言葉で沖野は気づいた。人が人を裁くということ自体が罪である。己が罪人であることを自覚した瞬間ではなかったか。罪人沖野の誕生。と、みるならば彼のあの叫びは産声だったのではないだろうか。

「Waaa!」

以下参照:不条理演劇(ウィキペディアより一部抜粋)

不条理演劇では、登場人物の行動とその結果、時にはその存在そのものが、因果律から切り離されるか、曖昧なものとして扱われる。登場人物を取り巻く状況は最初から行き詰まっており、閉塞感が漂っている。彼らはそれに対しなんらかの変化を望むが、その合理的解決方法はなく、とりとめもない会話や不毛で無意味な行動の中に登場人物は埋もれていく。ストーリーは大抵ドラマを伴わずに進行し、非論理的な展開をみせる。そして世界に変化を起こそうという試みは徒労に終わり、状況の閉塞感はより色濃くなっていく。

みねお
みねおさんのコメント
2018年9月6日

カメレオン。変幻自在。くるくる変わる。
わたし、最上毅の妻桜子役のキムラ緑子さんを注視していました。作中の彼女の演技に何か不自然さを感じませんでしたか?“知らぬ顔の半兵衛を決め込む”ようなシラーっとした演技。映画を見終わっても彼女のことが気になって。家に帰ってから緑子さんでちょいググってみました。するとね、この映画が封切られる少し前に「銀魂2掟は破るためにこそある」が上映。キムラ緑子さん、大家のお登勢役で出演中。わたし、思わず膝を打ちましたよ。ヤラレタとね。これが、最上の妻桜子役を演じている女性と同一人物なのかと思うと、目がパチクリ。静と動を上手くキャラ立たせている。どこからか「お主も悪よのうー」と言うセリフを交互に口にする原田監督と福田監督の姿が見え隠れしてきませんか?それぞれのタイトルで、予告してあるのかもしれませんね。キムラ緑子さんを忍び込ませることで「検察側の罪人(緑子)」「掟は破るためにこそある」双方が活きる。面白い取り組みですね。

みねお
みねおさんのコメント
2018年9月3日

執筆者は最上の娘にあの場面でボウズ頭を出させることで、娘から父へのメッセージの投げかけともう一つ被筆者から鑑賞者へのメッセージの投げかけをしている。子どもは(=執筆者)、言葉を自由自在に扱えるわけではなく。そこでいろいろな表現を用いて、語ったり訴えたりする。髪型や服装なども自己表現の一つであり、彼、彼女らなりのメッセージの発し方があるんでしょう。最上の娘は、義父である最上に自分の思っていることを言えないでいる。ボウズ頭をみせることで彼女なりのSOSのサインを送っていた。しかし、彼は気づかない。住み慣れた土地を離れ居を移し人種のるつぼのような街東京に身を置き暮らす少女が、何を思い、何を考え、日々過ごしているのか、そのことについて深くは立ち入いって聞くこともない。子どもとどう接するべきか分からないのか、上手く話せないのか、放任なのか、無関心なのか。検察官を職業とする人であれば、人の話を聞き理解しようと努めることには長けて いようはずが、こと親子となると勝手が違うのだろうか。
 一方、執筆者は鑑賞者に何のメッセージを送っているのか?

最上でモガ。ファッション。数珠繋ぎ。

狂気の20年代。過去への誘い。戦争責任。

2010年の公訴時効改正
2010年4月27日、第147回国会において、
「刑法及び刑事訴訟法の一部を改正する法律」
(平成22年法律第26号)が成立し、同日公布された。

被害者意識に針が振れ時効撤廃へと。
これって、歓べることなのだろうか?
膨れ上がる被害者意識に歯止めがきかなくなっていることに畏れこそ感じる。人間は欲深き生き物。ひとつ願いを叶えると、その上を願ってしまう。欲望は底なし。敗戦国日本、今なお戦争責任を問われる。
憎しみの感情が人を心の囚われ人にする。

―1920年代の女性たちのスタイルとアバンギャルド―

太平洋戦争後の藤田嗣治とその戦争責任
―藤田に対する日本美術界の戦後処理と評価―

みねお
みねおさんのコメント
2018年9月3日

いぱねぱさん、

レビューでお書きの益々『?』マークに注目してみました。

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犯人の、口を鳴らす仕草、娘のいきなりのボウズ頭、これだけシリアスなのだから、何か後々にこの小ボケが生きてくるんだろうと思いきや、何も唸らせない。益々『?』マークが脳裏を駆け回る。意味がまるで見えてこない。

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 確かに、重要参考人松倉の口ポンは何なのか。ポポポポポンなら桃太郎侍しかり悪を裁くヒーローのお出ましの合図ともなりましょうが、松倉の放つポンの一音。麻雀でもしていたのでしょうかね?ポン切りまくってアガリで釈放?…まさかね。それはさておき、娘のいきなりのボウズ頭をなぜここでインサートしたのかもう少しみていきましょうか。

みねお
みねおさんのコメント
2018年9月3日

 いぱねまさん、応答ありがとうございます。

 それでは、いきます!

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今作品、最後のニノの咆吼は、単なる誕生日占い?誕生日性格判断?というそれだけの思考でこの事件に巻き込まれてしまった事への理不尽さへの言葉にならない叫びだったのではと。

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 「あら、どうしましょう?」

 「巻き込んじゃいましたか?」

 「くる、こない、かえらない、かえる」

 「おおっ!?」と、チョイチョイチョイ

 「ちょいっ!!と、おまちなさいな」

 「まあまあ、ここへおかけなさい」

 「いかがなされましたか?」

 「…ものおもい」

 「ほっほー、それはそれは」

 「ひとつみてみましょう」

 「あたるも八卦、あたらぬも八卦」

 わけのわからなさから、人の心の内にある恐怖心や不安が日増しに大きくなる。すると、何でもないものまで恐ろしいものに見えたり思えたり。“幽霊の正体見たり枯れ尾花”とはよく言ったものだ。心が生み出す幻影に惑わされていたとしたら、それは一人相撲。

 「ハッケ、ヨイッ!」

 肩透かしをくらって、ふわっ、と体が宙に浮く。スローモーション。ゆっくりゆっくりゆっくり動く体。ふわっ、ふわっ、ふわっ。あれよ、あれよと言う間もなく「ドスンッ!」と、地に落ち。寝落ちしていたことにハッとする。

 「Waaa!ここはどこだー!?」

 「おかえりなさい」

 「かえってきましたね」

 「待ち人来る」

 「ハッケ、ヨイッ!」

みねお
いぱねまさんのコメント
2018年8月31日

はじめまして、みねおさん。コメントありがとうございます。整理された文章ではなく、読むに耐えない駄文をみて頂き大変感謝しております。
ご推察のインパールの件、大変面白かったですw 私はもっとゲスなこと考えついてしまったのですがw 真珠入りの○○○をインサートって・・・大変失礼しました。

今作品は相当小説と映画のラストが違うようです。なので、あくまで映画制作側の作品ということで感想を述べた方がよいですね。
貴殿の仰るとおり、制作側の観客への挑戦状ということも大変興味深い話です。

今作品、最後のニノの咆吼は、単なる誕生日占い?誕生日性格判断?というそれだけの思考でこの事件に巻き込まれてしまった事への理不尽さへの言葉にならない叫びだったのではと。キムタクは松重豊という”メフィストフェレス”を手に入れ、極悪人にがベルを打ち込むように私刑にしていくでしょう。まぁ、必殺仕事人と、法治国家の番人が、その立場の逆という皮肉も含めて、対決してゆく序章というか、ファーストシーズンというか、あれ?シリーズ化?w やっぱり、『HERO』ですねw

いぱねま