「外的制度に守られた関係に安住していいのか」月と雷 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
外的制度に守られた関係に安住していいのか
本作の原作者は角田光代氏である。現実を決まりきった様式では描かない角田氏の作品に登場する人々は、みなユニークな言動をするが、ふと考えるとそれがいちばん身近な現実だったりする。
同氏の「八日目の蝉」で心に残るのは、血や法律で結ばれていない誘拐女と幼女の絆が、いつかその人を支える糧になっていたという、普遍の愛への信頼とでも呼ぶべきものだった。それは「家族とは何か」をテーマとする疑似家族の物語といえる。
本作も同様、家族をテーマにした疑似家族の物語である。といっても「八日目」のようなドラマティックな展開はなく、家族を喪失して空虚な女性の下に、偶然訪れる疑似家族の人々のユーモラスな言動や、その人々との関係が作品の中心を占めている。
はじめは「おいおい、こんな何も起こらない疑似家族関係を真正面から取り上げて面白くできるのか」と心配してしまうのだが、それは杞憂に終わる。なぜなら、面白いから。その面白さは、登場人物たちの魅力的な設定から来ており、疑似家族は主人公の女性を確実に癒していく。
彼女は何故癒されるのだろう?
言うまでもなく失った家族の代替をしてくれるからだ。
寂しい時には肌を温めてくれ、実の母を探してくれと言えば探し出してくれる。
米のとぎ方も知らないので教えてあげれば喜び、今度は自分にご飯を炊いてくれたりする。中にはトラブルを抱えた人もいるので、その悩みの解決に付き合ってやったりできる。空疎な生活は温かいもので満たされる。
では、本当の家族はどうだったか。
実の母親は亭主の浮気をこれ幸いと娘を置き去りにしていくような人、実の父親は娘に新しい母親を探してあげるより家政婦をあてがうような人。
これから家族になろうという男性は、婚姻届で彼女を縛り付けることばかり考えている。
家族とは、やって当然という役割、居て当然という義務のようなもので形成されているものだが、愛情までは保障してくれない。
ところが主人公の周りに現れた疑似家族は、何時居なくなるかわからないが、愛情だけはしっかり伝わってくる。役割や義務からではなく、あなたと居たい、あなたが必要だと求めてくれ、癒してくれる。
主人公の幼児記憶に実母の姿がまったくないのに、疑似家族との体験がいつまでも残っているのは、義務や役割から離れた愛情の記憶こそ重要だからだ。では、愛情がないのであれば、家族とはいったい何の意味があるのだろう。
この逆転した家族関係の中、主人公は疑似夫が疑似妹(血はつながっているが、即席の家族)に好意を寄せているという嫉妬から、突然、何時居なくなるかわからない疑似母に、かつて失踪したことを責め、果たしてあるかどうかわからない実母の愛を奪ったと疑似妹を責め、みな出ていけと怒鳴ってしまう。
これは疑似家族に対して法律上の家族のような役割や義務を求めたのと同義で、およそ無理なことを要求しているから、疑似家族は解体せざるを得ない。
疑似母は主人公が宿した胎児について、「一度始まったものは止まらない。何とかなるもんだよ」と愛情に満ちた助言を残して去っていき、間もなく死んでしまう。疑似妹は海外留学に旅立っていく。
疑似夫だけは「普通にいられる相手だから」と同居を選ぶが、最後にはふらりといなくなってしまう。
しかしその時でも、彼女は子供の頃のように泣いたりせず、微笑むことができるようになっている。そこに疑似家族との癒しの生活の中で生まれた、愛情の絆に対する信頼を読み取るのは難しくない。
そして、やや教訓的に捉え返すならば、「家族のような外的制度により下駄履きした人間関係に安住していていいの?」という作者の声が聞こえてくるのである。制度の中に愛情を注がないと、枯れてしまうよと。