劇場公開日 2019年11月15日

「マーベル嫌い」アイリッシュマン かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5マーベル嫌い

2019年12月14日
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タランティーノは“シャロン・テート惨殺事件”をモチーフにして、昨今のウォーク・カルチャー一色に染まりつつあるハリウッドの凋落ぶりをブラックな笑いで丸焦げにしてみせたが、かつて格好のアメリカン・ゴシップ・ネタにされてきた“ジミー・ホッファ失踪事件”を題材に選んだ本作で、マーティン・スコセッシは観客に何を伝えようとしたのだろう。

一介の食肉運搬業者だったアイルランド系アメリカ人フランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)。ひょんなことからイタリアン・マフィアの重役ラッセル(ジョー・ペシ)と知り合い、その縁で全米トラック運転組合=ユニオン委員長ジミー・ホッファ(アル・パチーノ)からも気に入られユニオン支部長に抜擢される。ニクソンへの献金を妬まれケネディ兄弟にマークされたホッファの信頼すべきボディーガードとしても働いたシーランだったが、年金流用でマフィアと対立しはじめたホッファ暗殺をラッセルから依頼される・・・

長年謎とされてきたジミー・ホッファ失踪の真実を、その死後を待って出版された実在の人物フランク・シーランの暴露本を元に製作されたという本作。劇中意味深に登場する日本語のテロップ“家のペンキを塗る”とは、射殺時に死体から家屋に血飛沫が飛び散る様を形容したスラングだ。長年ファミリーのため組織のためその手で赤いペンキを塗ってきたシーランの生き様が重厚に描かれたスコセッシお得意のギャング映画のような気もするが、従来のシリアス路線とはひと味違った演出に着目したい1本である。

(アイアンマンにかけた)“アイリッシュマン”とはタイト
リングされながら、演じているのはこてこてのイタリア系ロバート・デ・二ーロ。通常なら別の俳優を使うところを、76歳のデ・二ーロにわざわざ特殊CG処理を施して若き日のシーランを演じてもらったというから驚きだ。この映画、介護サービス付病院で車椅子にのったシーランの回想シーンで始まるのだが、あのオスカー受賞作“グリーン・ブック”を彷彿とさせる(アリバイ工作のための)長距離ドライブをメインに、そこからさらに男ざかりの時代を回顧させる二重構造が、何かしら監督の“企み”を感じさせる演出なのである。

ロンドン映画祭に出席したスコセッシが、本作に関する記者会見で次のようなことを述べていた。
「マーベル映画のようなテーマパーク映画は、また別物の体験です。前にも言いましたが、あれは映画ではなく別物。好きかどうかにかかわらず、別物だし、我々はそちらに侵されてはいけない。これは大きな問題です。劇場主は、物語を語る映画の上映を強化すべきです。」
「ある意味、すでに私たちには(映画界に)十分な居場所がありません。あらゆる理由から、この映画を作る余地はなかったんです。それでも、作品に干渉しない、作りたい作品を作っていいという企業が支援してくれました。ただしその代わり、ストリーミング配信になり、それに先がけて劇場公開をすることになる。今回のプロジェクトの場合、これはチャンスだと判断しました」

この記事を読んで気がついたのは、本作のジミー・ホッファやフランク・シーランは、やがて消え行く運命の古き良き映画文化のメタファーであり、監督マーティン・スコセッシの分身にちがいないということ。なによりもユニオンが大切なホッファはその旧態依然としたやり方が災いしてユニオンやマフィア(ハリウッド)から鼻つまみ者扱いされる。そして、愛する家族を守るためマフィアから依頼された暗殺(プログラムピクチャーの監督)に長年手をそめてきたシーランは、愛娘ペギーに嫌われ疎遠になる孤独な晩年が劇中詳細につづられている。

それは映画を愛し守ろうとした言動が逆に映画界からバッシングされ、ハリウッドの中に居場所をうしなったマーティン・スコセッシの立ち位置とぴたり重なるのである。映画は、シーランが頑なに口を閉ざし守ろうとしたマフィアの面々が高齢でみな亡くなっている事実をシーランが知り呆然となるシーンで幕を閉じる。かつて大統領の次に権力を持っていたと伝えられるジミー・ホッファも、歴史の流れの中で現在ではその存在を知る者さえほとんどいなくなっているという。CG処理を施したデ・ニーロが守ろうとしたホッファが歴史から消え去ったように、スコセッシが守ろうとしている古き良き映画文化もいずれ幻と化すのかもしれない。

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