劇場公開日 2018年2月10日

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ぼくの名前はズッキーニ : 映画評論・批評

2018年1月30日更新

2018年2月10日より新宿ピカデリー、YEBISU GARDEN CINEMAほかにてロードショー

宮崎アニメにも通じる“寓話性とリアルな社会的視点の合体”

まるでこちらに何かを訴えかけるかのように、大きく見開いたまん丸な瞳の人形たち。とてもシンプルな作りなのに、いや、シンプルであればあるほど、その表情は観る者の想像力を刺激し、多彩で奥深く、この上なく人間的でチャーミングに見えてくる。一度そう感じたらもう、この奇妙でユーモラスなストップモーション・アニメーションの虜になることは請け合いだ。

ただしその外見とは裏腹に、物語はかなりシビアである。主人公の少年イカールは母子家庭に育ち、ひょろひょろとした彼を「ズッキーニ」と呼ぶ母親はアル中。凧をくれた父親は、「若い雌鶏を追いかけて」どこかに行ってしまった。孤独な少年のちょっとしたいたずらが母を死に導き、施設に預けられる。そこには同じように「誰にも愛されていない」子供たちが集まっている。この世界で頼れるものもなく、もっとも無力で弱い立場の、悲しみを抱えた子供たち。

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本作を作るにあたってスイス人のクロード・バラス監督が意識した映画に、トリュフォーの「大人は判ってくれない」を挙げているのは、大いに合点が行く。ここには身勝手な大人たちの世界と、その犠牲となる子供たちの過酷な運命が描かれているからだ。息子の面倒をまったく見ない母親や、扶養手当欲しさに子供を強引に引き取ろうとする親戚など、彼らを取り巻く大人たちはどうしようもない人間が多い(中には心優しい大人もいるが)。

だが、トリュフォーの作品と異なる点は、そこに救いがあることだろう。行く場所がなくたどり着いた施設は、ふつうならいじめの派生する陰湿な社会の縮図として描かれそうなところだが、ここでは子供たちが外界から身を守るコクーンのような場所として機能する。ズッキーニが恋するカミーユは彼に、「ここに連れてこられなければ、あなたに会うこともなかった」と言う。彼らは仲間と出会い、これまで味わうことのなかった感情を経験し、生きる喜びを見出すのだ。

現実の社会に対する厳しい批判が込められつつも、希望を感じさせるところに、監督のあたたかな人間性を感じさせる。寓話性とリアルな社会的視点を合体させた点では、宮崎アニメにも通じるものがあると言えよう。ヨーロッパから、また新しい才能が誕生した。

佐藤久理子

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