北の桜守のレビュー・感想・評価
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実写パートと舞台劇パートの重層性から生まれる意外な効果
吉永小百合主演の映画にしては珍しく、通常の実写で描くパートに、ごくごく簡素なセットの舞台での演劇でストーリーを伝えるパートが繰り返し挿入される。この舞台パートは、樺太での出来事など悲惨なエピソードをリアリズムで描くのを避け、ケラリーノ・サンドロヴィッチ演出で抽象的に表現している。 はじめのうちは実写と舞台の切り替わりに違和感を持ったが、それに馴染むと、この重層的に描かれる世界が「人工的に創造された虚構の物語」なのだというシンプルな事実を再認識させる装置として機能するように感じられてきた。 すると意外にも、たとえば吉永と阿部寛が演じる夫婦の見かけの年齢差も気にならなくなってくる。もちろん、滝田洋二郎監督の演出は的確で、吉永の女優魂とでも言うべき極寒地での渾身の演技にも圧倒される。しかしそれと同じくらい、この仕掛けが持つ意外な効果に感銘を受けたのだった。
日本人の辛抱強さの映像化
普通に映像にするには、余りに過酷な絵面になるから、舞台表現にして、絵を柔らかく、そしてその人の気持ちを観客目線で客観的に考えさせるための舞台表現なのかなと考えながら観た。
しかし、それを効果的でないと捉える人もいるようだ。個人の感想は自由で、それはそれで良いと思う。
ただ、ごくごく普通の樺太の家族が、内地では終戦しているにも関わらず、突然のロシア侵攻により内地=北海道に76kg歩いた後に船に乗り疎開することになり、離散してしまう。そして命からがら北海道内地にたどり着いた母1人子2人は、道中長男を亡くし、母と次男で砂を噛むような生活をなんとか生き抜く極貧生活に転じる。
この脚本自体はフィクションだが、戦争の影響はどこにでも誰にでも起こりうるし、生き残った罪悪感、大切な人を失った悲壮感をみんな噛み殺しながらどうにか生きる術を見つけて日々過ごしている。
現代の戦争を知らない人に近い目線で、アメリカ育ちの真理がお金に不自由なく育った帰国子女日本人の嫁として出てくるが、そのような者には計り知れぬ、入り込めぬ、苦難が沢山あった戦争経験者の方々に、無理矢理口を開かせる事などできない。でもそのぐっと堪えてきた想いを、今を生きる者達に伝えないと、平和をなんとしても守り抜く必要性はなかなか伝わらない。身近に戦争経験者が少なくなってしまっている現代人が想像力がないわけではなく、余りに過酷な戦時中の様々な立場の者達の想いを、普通に暮らしている生活で想像し推し量ることもまた困難。
こういった日本の現状に、使命を持って取り組んでいる監督や吉永小百合などの映画製作者達の思いには頭が下がる。
一方で、その方々も昭和の方々ゆえに、令和の若者までなかなか響かない台詞回しや作品構成になっているという指摘のレビューがあがるのもわかる。
いったいどうしたら良いのか、考えてしまう平成の人間な私。作中の堺雅人の孫の世代。生きたくも命から脅かされ食べる事もままならなかった世代がなんとか繋いでくれて命がある、桜の枝葉の世代。枝葉世代が自分らしくその花を咲かせられるよう、周りと心通わせて生きる事が、先祖の苦を労う事に繋がるのだと思う。
いつか何者になる、と堺雅人演じる修二郎の義父が話していたように、主人公修二郎本人も戦争に人生狂わされた本人。可愛い子が苦難の人生から抜けられるよう、心を鬼にして突き放した母親に、突き放された捨てられたという親の心子知らずな苦しみを抱えながらも、なんとか生きるために過ごしてきた人間。
何者になれるのかなどわからぬまま、どうにか職を得て食べられるようになり、まだ使命まで自覚していない。
年老いた母親と共に、思い出すのも辛い過去を振り返る機会があり、お礼めぐりの名のもとに、当時は分からなかった母親の気持ちと目線で母と過去を辿り、伏せたい過去の呪縛から自己を解放して、妻とオープンに向き合えるようになる。
きっとわかってもらえない、ではなく、わかってもらえなくて当然だけどこんな想いを抱えていてさ、と分かち合いながら人の心は成長し、協力して持ちつ持たれつしながら、できることも大きくなっていくのが人生だと思うので、今の若い世代が自分を探し使命を見つけるまでも、温かく見守って待てる年配者でありたいなと思う。
作中の母を助けていた信治も山岡さんも、綺麗事だけでは生き抜けなかった辛さを奥に秘めながら、時代変化に合わせて仕事を変え生きていたのが印象的だった。
母てつだけは、高度成長期の3Cすら取り入れず、テレビ洗濯機冷蔵庫もないまま掘立て小屋で長年独りでおにぎり屋さんをしなんとか生計を立てていたが、それは長男を亡くした罪悪感ゆえ。
結局次男の仕送りも、小さなスナックママに持っていかれていたわけで、ひどいキャッシュフローだが、それもこれも、親のボケに気付くのが遅かったから。
作中では、網走の極寒貧困から抜け出させるため、母は次男を追い出すように網走の外に送り出し、それゆえ次男は母に距離を取られた気まずさゆえに足が遠のいていたわけだが、そこまでの環境下にいない者が殆どだろうから、「親とは連絡をまめに取りなさい」という啓蒙に感じた。詐欺も多いし。
中村雅俊の「歳を取ったら子供に面倒を見て貰いたい」の台詞が実際年老いたら気持ちの本音なのが人間なのだろうけれど、核家族共働きしないと育児も厳しい現代。それを言ったら押し付けと捉える人も沢山いるだろうなぁと思う。難しい時代、難しい問題を日本人は抱えすぎだと思う。
戦争に負けたばっかりに、あんまりだ。
そんなこと作中では台詞にないが、そういう想いの日本人の気持ちが溢れていると思う。
エンタメ内に、日本人を感じられるだけで、充分なのかも。あまりに何もかもの資本が日本以外に変わってしまっているから。。
生活の楽を考えれば、母てつは信治さんと再婚した方が楽だったに違いないが、ソ連の捕虜に取られて生き別れた夫への想いを忘れず、白い喪服で再婚を断る姿が印象的。そんな極貧暮らしで白い喪服を準備できないでしょうよとご都合主義フィクションに面白さも感じたが、戦前は白の喪服も普通だったようなので、万が一のために疎開荷物の中に含めて運び、ずっと取っていたのかもしれない。
それを着たということは、夫の戦死を受け入れる意味も持つ一方で、再婚もしませんという意思表示。
とても奥ゆかしい意志の伝え方で、言葉なく見た者の瞳に通達が焼き付けられる。
最初の場面の、咲いた桜をみんなで囲み写真を撮る時間が、夢のまた夢の幻になってしまったそれぞれの人生が悲しい一方で、辛く惨めで理不尽な子供時代を生き抜いた修二郎の息吹がちゃんと引き継がれ、子が産まれ、江連の表札は守られた。
桜と命が重ねられて展開される作中で、墨と糊を混ぜて桜の木の穴を塞ぎに出掛けるボケ始めた母てつは一見異様に映るのだが、その半生と堪えてきた苦難を思うと、守れる物は守りたい。同じように吹きっさらしで孤独と空腹に堪える苦難を他の者にはさせたくないという経験者だからこその強い意志を感じる。
守られ引き継がれ受け継がれた命のバトンだからこそ、再び戦争などに脅かされるなど以ての外だし、その使命をゆっくりと見つけて、全うする人生をそれぞれが歩み、他の命と心通わせ、次の世代にまた命を分けて繋げていく必要がある。
人類は過ちを繰り返す
やはりいい役者が揃うと、いい映画になりますね。 ロシアの日本侵攻が舞台の映画ですが、ちょうどウクライナ侵攻最中に観たことはタイムリーでした。なぜ人類は過ちを繰り返すのでしょうか?
人生は舞台劇
不思議な映画でした なんなんだこれは?と序盤は斜めに構えて観ていました さらに抽象的な舞台劇が始まると、一層これは何なんだろう?と混乱しました 1971年のシーンの狸小路もそうです とても具象的にセットは作り込まれVFXも駆使されて細部に至るまで神経を払ったものだとわかります それなのに、何だかとても作りものぽい ふわふわしているのです 特にミネソタ24の店内はそうです きっとわざとそう撮っているのだと思いました ところがソ連の戦闘機による機銃掃射のシーンや被雷して沈みゆく船のシーンでは現実感を徹底的に追求しています ストーリーが後半にすすみ、いよいよ物語の構造が明らかになってくるに従って、それらの疑問がするすると胸の中で腑に落ちていくのです まるでパズルがはまっていくように うまく説明はできないけれども納得していく自分がいるのです 最後のフィナーレの舞台劇、そしてそれを客席で観て拍手を贈る息子夫婦の姿 そのとき大きな感動が訪れていました 人生は舞台劇なのです 具象的なものじゃないのです 誰だって人生を振り返った時、映画のように具象的に隅々まで克明に記憶なんて残されてなんかいないのだと思います 抽象的な舞台劇のような表現方法こそ、人の記憶の実態に合致しているものであったのです 親の一生ともなれば、この息子夫婦のように舞台劇を観劇するようなものでしょう 素晴らしい感動のフィナーレでした 自分の人生にも同じような感動のフィナーレが訪れることを願いたいものです 満月の下の北の桜の満開の幻想的なシーン 実はそれこそ一番具象的な映像であったのです 吉永小百合は老女なのに可愛い 恐るべき俳優です 決して演技が上手いわけではないと正直思います けれども問答無用で観客を感動でねじ伏せてしまう希有な力があるのです その底知れぬ力がそのシーンで炸裂していたのです 昔、釧路で北の桜を見かけたことがあります 本州の桜のように白くはなく、そのシーンでの桜のように濃いピンク色に見えるのです 稚内にも行ったことがあります 札幌から旭川まで特急で2時間、乗り換えてさらに4時間もかかりました 旭川をでて森のなかをどこまでも北へ一直線に列車が進んでいきます 1時間ほど居眠りしても風景は少しも変わらないほど深い森です 真夏なのに、どんどん気温が下がりTシャツ1枚では羽織るものが欲しくなるほどになります それなのに、ようやく稚内に着くと当地の男子高校生たちが今日は暑いべさ~とタンクトップ姿でアイスクリームを舐めていたのには仰天しました 駅からさほど遠くもないノシャップ岬までいくと遥か水平線の向こうに樺太の山並みがうっすらとみえます 氷雪の門という慰霊碑がそのノシャップ岬に建っています 樺太で終戦前後何があったのか碑文で少し知ることができます 「樺太1945年夏 氷雪の門」という映画があります 樺太で何があったかもっと知りたい方はそちらをご覧になられると良いと思います 本作はそれをご覧になられることでより一層感動が深まると思います
いやはや、不可思議な作品ですね
見どころは、堺雅人が安田顕に怒鳴りつけて土下座させるシーンだけです、半沢です。 まず、時代考証が無茶苦茶です。 シナリオもセリフも支離滅裂です。 吉永小百合をはじめとしてみんな大根役者のようです、演出のせいでしょうか、上手く使えば良い演技なのに、惜しい惜しすぎる。 戦争中のシーンで余りにも嫌な展開が有りましたが、触れるのも嫌なのでノーコメントです。 なんだろう監督のセンスだろうか、最低の感性ですね、吉永小百合に免じて3点、土下座して受け取れ。
【第二次世界大戦末期、極北の地で母に捨てられたと思っていた息子が15年ぶりに再会した母との溝を埋め、悲しき記憶を取り戻しながらも、仄かな明るい未来を感じさせる物語。】
ー1945年5月 南樺太で暮らす江蓮家の庭に、本土から種を運んで植えた桜が満開の花を咲かせた。 喜ぶ、夫徳次郎(阿部寛)と二人の幼き息子、セイタロウと修二郎(堺雅人)。けれど、一番喜んだのは、徳次郎の妻てつ(吉永小百合:今作が120本目‼の映画である・・)であった。 が、8月、本土では敗戦の色濃くなる中、極北の地にはソ連が樺太を占領しようと、迫って来ていた。徳次郎は”本土で会おう”と言い、樺太に残り、てつとセイタロウと修二郎は網走へ渡る舟へ乗り込んだ・・。- ・時は、一気に1971年に飛び、修二郎はアメリカ資本の”ミネソタ24”というホットドックチェーンの日本一号店の社長として開店準備に忙しい日々。 ー詳しくは語られないが、彼は戦後、アメリカに渡り苦労しながらも、”ミネソタ24”の日本オーナー(中村雅敏)の娘マリ(篠原涼子)と結婚し、日本に帰国し、札幌で店を開く・・。店長(野間口徹)以下、店員に対しても厳しい指示を出す。当時はそのような時代だったのだろうが、違和感を感じる。- ・開店直後、網走の市役所から修二郎に電話が入る。そして、網走に行った修二郎は15年ぶりに母てつと再会する。母は、かつては繁盛していたみすぼらしいおにぎりやを今でも営んでいた・・。母に捨てられたと思っている修二郎は母に対する態度がぎこちない・・。が、てつの様子がおかしい事に気付く。 ーてつが、鏡に映る自分自身に語り掛ける姿・・。世話をしていた山岡(岸部一徳)から事情を聞く修二郎。彼は母を札幌の自宅に連れ帰る。- ■ここまでで、時折挟み込まれるケラリーノ・サンドロヴィッチが手掛ける舞台劇にやや、違和感を覚えつつ、鑑賞続行。- ・妻のマリは、てつに対しては表面上優しく接するが、不満を夫にぶつける。庭で釜で米を炊き、近所からクレームが出たりしつつも、思った程売れないホットドックの状況を見て、母のおにぎりを店で出すよう指示を出す修二郎。 ー中々に、展開が粗いぞ、滝田監督・・。- ・修二郎は迷惑が掛かるから・・と家を出て、”お礼参りに行く”と言う母に同行する。 ーどんだけ、凄い場所にあるのだ!、お礼をするお社。それに、修二郎さん、開店直後ではないのかい?- ・てつと修二郎は”白滝駅”で、且つて闇米売りをしていたシンジ(佐藤浩市)とイワキ(毎熊克哉)を思い出す。そして、客の居ない居酒屋でお酒を酌み交わす。 ・一方、マリは忙しい中居なくなってしまった夫への不満をオーナーであるパパに不満を漏らすが、パパは修二郎に優しい言葉を残す・・。 ー中村雅敏さんだからねえ・・- ■1945年8月22日未明 ・てつとセイタロウと修二郎が乗船していた、網走へ渡る船に魚雷が命中し・・。”それまで一切、劇中に出て来なかったセイタロウの姿が初めて映し出される・・” ”あの出来事を思い出した、母てつは・・” ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ーおにぎりが保健所から指摘を受けて、製造中止になったり、山岡がシベリアに送られた15人の中で、唯一生き残った理由が語られたり・・しながらー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・てつは、雪の舞う寂びれたバス停で再び、鏡に映った自分の姿に話しかけ、雪の舞う中、外に出て、ふらふらと歩いていく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ■2年後 ・修二郎の元へシンジから”てつ”らしき人が見つかったと電話で連絡が入る。母の元へ駆けつけた修二郎に対し、白髪になったてつは ”お帰りなさい、お父さん・・”とにっこりと笑う。 満開の桜の中、二人を見つめる、マリと幼子、シンジ、山岡たち・・ <失われた記憶を追い求める親子の旅の果てには、何があったのか・・。 不思議な舞台劇を合間に挟み込みながら、北方領土から、生き帰った人々の戦後の姿を描き出した作品。> ■蛇足 ・滝田洋二郎監督が北の三部作を手掛けると知り、どうするんだろう‥、と思っていたが、イロイロあって劇場鑑賞を見送った作品。 ケラリーノ・サンドロヴィッチの劇中に挟み込まれた舞台劇をどう見るか・・、であろうなあ。 脚本も相当粗かったような気がする作品でもある。
むずかしい
なんだかとても難しいお話でした。 劇と実写と珍しい映画。 ラストが予想出来ない展開。 そして時期的にコンビニの経営会議が半沢直樹さんにしか見えなかった💧 奥さんは全然ハケンさんに見えなかったけどね~💦💦💦 桜、綺麗でした🌸
タイトルで損している作品。中身は凄いよ。
ストーリーは「あらすじ」に記されている通りです。 この映画は、吉永小百合と堺雅人という名優二人の演技を味わうための至福の2時間だと思います。 収穫が、堺雅人の少年時代を演じた子役の役者さん(土屋慶太)。 素晴らしい名演技で感心しました。 この映画では要所要所を舞台芸術として演出しています。 私は舞台芸術をほとんど観たことがないので、舞台であればこれが当たり前なのか、それとも出色の出来なのかを評する資格がありませんが、私の知らなかったもう一つの芸術が有する「底知れぬ力」に驚き、感動させられました。 いずれにしても、たとえば「三部作だ」などと宣伝されてしまうと、「前作を観てないから観るのはやめようかな」、と躊躇するものですが、特に前作(なにか関係があったの?)とやらの知識がない私でも、心から楽しめました。 桜守……という言葉のもつ陰鬱なイメージも、この映画を観たあとなら理解できるものの、知らない時には鑑賞をためらう一つの要因になっていて、ちょっと損しているのではないかと感じた次第です。
脱走が得意な吉永小百合
舞台劇の織り交ぜる潔さがいい。ケラリーノ・サンドロヴィッチの舞台演出は非常に冴えていて、実写パートを凌ぐ美しさを感じました。で、どうなんでしょう?この北海道ロケと編集の杜撰さは。満月の夜の桜の満開というテーマもあるのに、他は季節感がない・・・ 樺太については全く知識がないのでわかりません。たしか小学生の頃の地図帳には半分は日本領土となっていたのに、もうそんな色分けはされてないのですね。多分、1971年当時には渡航するのも難しかったのでしょうし、今後も気になる点です。 そんな設定の中、樺太から網走へと移り、極貧状態でも健気に生きてきた江蓮たき(吉永小百合)。息子修二郎がアメリカから成功して帰国し、札幌にミネソタ24というチェーン店1号店を開く。母のことを聞き、網走へと迎えに行くのだが・・・ とにかく逞しくて、周囲の人にも愛されて、生きている幸せさえあればいいと思っているてつという女性。札幌の修二郎に引き取られてからは生活習慣の違いから自分の居場所ではないことを悟り、逃げ出すのだ。 各エピソードも断片的なため、あまりに繋がりがなく混乱してしまいそうになる。戦後混乱期の様子だけは見事で、特に白滝駅のシーンにおける列車の到着するVFXが素晴らしかった。多分、今は無い駅なのでしょうけど、鉄道ファンならロケ地巡礼したくなる場所だと想像できます。 映像は輸送船のVFXを含めまぁまぁだったのですが、子役の演技とか、阿部寛の演技もださかった。そして最後の急展開も、急すぎる!満開の桜に酔いしれようとしてたのに・・・。とりあえず、北の三部作をようやく見終えてホッとした。
吉永小百合が、痴呆症の役 → こんな映画に出演は、残念
・場面の途中で、①回想シーン、②屋内の舞台、の変換が多くて観辛い ・吉永小百合が痴呆症の役か、少しさみしい こんな映画に出て欲しくなかった ・堺雅人は話す時、①口が半開き、②目が笑わない、③見下すのが上手 この役者に善人役は不向き ・映画で気になった場面 他人が居ない淋しい場所で、おにぎりを貰おうとした次男に 「みっともない事するんじゃない」の大声発言は、相手を刺激し過ぎ、 ・案の上、兄貴分=「腹一杯にしてくれたら、私の身体で、だろうが」 弟分=「それは名案だ、いい女だ、やっちゃいましょうや」を誘発 ・その後のシーンで、母子2人はトラックの荷台に乗ってる 次男は、おにぎりを食べてる 母親も泣きながら、おにぎりを食べた ・「母親は、性交した?」を想像させるシーン → 残念だ ・吉永小百合の映画は、15~23才頃までは、 「明るくて、楽しくて、未来は希望に満ち溢れている」 を予感させる映画が多かったが、 40才を過ぎた頃からの映画は、 年令が増える毎に、悲しい結末の映画が増えてきた感じ → さみしい ・映画単独でも、後半・終盤に向けて、 解決とかハッピーエンドを予感させるのではなくて、 悲しい結末や、さみしい結末を予感させる作品が多い気がする → 残念 ・吉永小百合のファンとしては、それでも観てしまうのだが ・年齢を重ねても、楽しい結末の映画に出演して欲しい → 例=森光子は晩年でも、楽しいものに出演してた ・吉永小百合が、「楽しい映画に出演したい」と言えば、 反対できる人は、少ないと思うのだが ・その場合、相手役は、浜田光夫が良いな 吉永小百合の楽しい映画、観たいなあ ・なお、この映画の評価は、星3つとします
男ならば、母ならば...。
日本の戦争絡みで古くさくて最初嫌だなぁ~。あるあるの話かと思って観進めた。 ところが、子と子、親と子、妻と夫、人と人との繋がりを描き出し、あぶり出されていく。 ラストの「これしか残ってない...」には、号泣した。 往年の女優吉永小百合さん、ここにあり!といった作品だった。 和の心。日本人の心の強さ。思いやる気持ちといったものを嫌味なく描き出している。 久し振りに本物のヒューマンドラマを魅せて貰った。
北へ北へー失われた記憶に向かって二人は歩き続けた
2020年5月10日 映画 #北の桜守 (2017年)鑑賞 #吉永小百合 主演映画 #滝田洋二郎 監督作品 「吉永小百合主演」、こう言えばだいたい映画のイメージは分かるだろうという感じの映画でした。 途中、舞台ミュージカルシーンを挟んでくるところがありましたが、それは必要だったのかなと感じました。
桜はね、満月の時、満開になるの
映画「北の桜守」(滝田洋二郎監督)から。
阿部寛さんと吉永小百合さんが夫婦役で、
ちょっぴり違和感を感じたが、それはさておき(笑)
1945年、樺太のシーンから物語が始まる。
ソ連軍の侵攻によって、父親役の阿部さんが出兵する直前、
子どもたちに、こう呟く。
「満月の日、内地で4人揃ってきれいな桜を見よう」と。
「えっ?」と驚く子どもたちに、
今度は母親役の吉永さんが、そっと教える。
「桜はね、満月の時、満開になるの」
2度も繰り返され、観ていた私も「えっ?」と驚いた。
その後のストーリーよりも、そのフレーズが気になってしまった。
だって、南のほうから桜が咲き始め、少しずつ「桜前線」が北上し、
今年の満開はいつだろうか?と予想していたのにも関わらず、
こうもはっきり「満月の時、満開になる」と言われると・・と、
その根拠が知りたくなっていると、ラストでも、
(2年後)「見事に満月の夜に咲いたね」という台詞があった。
う~ん、リアルさに欠けた物語になってしまったなぁ。
この構成 どうなんだ?
何のために舞台を挟むのかなあ。
好き好きかも知れないけれど、いい効果を生んでるようには思えない。
戦後の混乱期を少し過ぎた頃の話は
もれなく戦中から戦争直後の悲哀を引きずる。
終戦時、樺太 及び北方領土に住んでいた日本人の苦労は筆舌に尽くしがたいもののようだ。
この一家も夫をシベリア抑留で、長男を引き揚げ船の爆破で亡くし、戦後を母と次男で生きて来た。
そういう物語性、題材を
もうちょっと違う形にしてくれても良かったのにと思う。
幻想的(?)な踊りを含む舞台が
入り込んでいる気持ちを すっとしらふに戻す。
まず面くらうのは
吉永小百合さんと阿部寛の夫婦設定。
最初 息子と母親なのかと思ったほどだ。
ラストに夢のように現れる夫の姿を息子に見るのだが、それを引きずってるものだから、なんだか入り込めない。
この物語が実話であろうがなかろうが、このような悲惨な家族は実在した事だろうに
一つ一つの感動場面(壮大な音楽付きで)が唐突過ぎて
感情が追いつかない。
北海道 札幌に本社を置く セイコーマートという今で言うコンビニエンスストアの創業者がモデルという事だが
フランチャイズ形式やその利益の分配(店舗との)が、今 現存するコンビニとは桁違いに善良らしい。
こういう形のコンビニが存続し続けて欲しいと思った。
んだけど、
そのあたりの事は映画では一切 伝わっては来ないし
そもそも そういう表現をしていない。
役者さんたちが 非常に豪華なのに
もったいない
それに尽きる。
この頃 フランチャイズ式の大手コンビニ各社の非道を報道で聞くにつけて
現在も北日本を中心に何店舗か 北海道ではかなりの数が存在するコンビニチェーンのようなので
大手に負けず生き残って欲しいと思う。映画に関係ないけれど。
そして最後に一つ。
ラストサムライで
桜の色があかすぎる!もっと白っぽく淡いほのかなピンクだ!と言ったけれど。
これ。日本人が作ってこんな商店街の街灯に刺さってる桜色にしてどーーーするのよー。
あれ?ソメイヨシノとは言ってないかな
八重の設定でしたかね。
吉永小百合による、吉永小百合のための映画
本作は、日本を代表する国民的女優・吉永小百合3年ぶりの新作にして映画出演120本目の作品です。数十年来のサユリストとしては見逃す訳にはいかず、東映本社お膝下の、年季を感じるややクラシカルな風情の丸の内東映で観賞して来ました。 何より特筆すべきなのは、撮影時点で72歳の、而も女優が主役を張り続けていることです。彼女が共演した際に、俳優として厳格に自らを律するその姿勢その生き方に強く啓蒙された故・高倉健も遺作『あなたへ』まで主役を続けましたが、男優ならともかく、また老女をクローズアップするような際物的企画で偶々主役に抜擢される訳でもなく、連綿と主役であり続け、而も悉く観客を映画館に呼び続けヒットさせているのは驚異的であり、世界的にも稀有な現象です。 本作も上映4週間を経て、興行収入は10億円超に達しており、正に国民的女優たるに相応しい快挙といえるでしょう。 ただ作品の出来は、"吉永小百合、北の三部作シリーズ最終章”と謳うほどには、ストーリー展開は散漫な印象を拭えず、主人公の心象を舞台劇で演じさせるという凝った演出も、私には奇を衒った感だけが残りました。 終戦直後、ソ連軍侵攻下の騒乱と混沌に晒される樺太から、瀕死の状態で家族と網走に流れ着いた「江蓮てつ」という女性の、貧困の中でも逞しくも毅然と生き抜き息子を烈々と育て上げた壮絶な半生を描く物語は、悲壮感と時代の激動感は醸し出しつつも、もう一つ感情移入しきれないもどかしさを感じたしだいです。 思うに、アカデミー外国語映画賞を『おくりびと』で受賞した名匠・滝田洋二郎監督にしてすら、吉永小百合を遇し切れなかったということでしょう。出演100作目以降の彼女の出演作は、市川崑、深作欣二、坂東玉三郎、舛田利雄、大林宣彦、深町幸男、行定勲、堤幸彦、阪本順治、成島出等々、錚々たる現代の巨匠・名匠の監督作揃いですが、山田洋次監督作の一部を除いて、率直にいって佳作とは言い難い出来栄えだったと思います。 その理由は、吉永小百合という女優を持余し自家薬籠のものと出来なかったことに尽きます。良くも悪くも、もはや一女優を解脱して、恰も神格化・聖母化した彼女の、あまりに神々しい高貴な存在感、その強烈なオーラを御しきれなかったということでしょうか。 彼女にとっても、国民的女優にして未だに代表作がないという不幸が付き纏う結果を齎しています。 ただ映画のクライマックス、ラストに近い場面で、彼女が総白髪で黙々と桜の手入れをするシーンがあります。やや仰望したアングルからのショットでしたが、その美しさに思わず息をするのを忘れ、スクリーンに惹きつけられました。息を呑み、鳥肌が立ち、目を瞠りました。夢幻にして幽玄、老女でありながら童女のような、芳醇にして清冽、奪衣婆のようにして菩薩の如き、そのこの世のものと思えぬ絶世の美に、暫く忘我の境を彷徨いました。 映画館で斯様な美しさに感動したのは、『羅生門』の京マチ子以来、数十年ぶりの経験です。 自称・長年来のサユリストとしては、作品全体はともかく、このシーンを観られたことのみに大満足し大いに堪能しています。
北の三部作みんな見たが
零年、カナリアたち、本作と全て見たがすべてつまらんという…なんでこんなの創った?レベルの作品。これ観て面白いとは思わん。狸小路のアメリカ資本のコンビニ(?)のシーンなんかほんとどうでもいい。 これで何を訴えたいのか私にはわからん。樺太引き上げの労苦か? サユリスト頼りの映画。なんとなく堺雅人すら浮いている。
俳優陣が使い損されてる
考えてみると、吉永小百合の出演映画を観たのはこれが初めてかもしれないです。 日本アカデミー賞のノミネート作品。 この映画自体の存在は知っていたのですが、公開当時全然興味が惹かれなくて観ませんでした。 ですが、日本アカデミー賞の候補に上がった作品の中でこの映画以外全部観たので、この映画はどんなものかと思ってDVDを借りてみました。 まぁ…そんなには期待して観たわけではありませんが、そこまで好きになれませんでした。 ただ、物凄く退屈だった前半に比べると、最後まで観たら思ったより良かったです。 予告編では、この映画は吉永小百合と堺雅人演じる親子のロードムービーのように宣伝されていましたが、実際にロードムービー的な展開になるのは後半からで、前半は親子の過去と堺雅人の会社の話に吉永小百合が入り込むような内容でした。 キャストが豪華で、 吉永小百合、堺雅人、篠原涼子、阿部寛、佐藤浩市と、素晴らしい俳優達が出ているので、演技面は一部を除いて素晴らしかったです。 樺太からの引き揚げ時代と親子の交流、 堺雅人演じる息子の会社と家族、 吉永小百合と阿部寛演じる夫婦、 昔を記憶を思い起こすためのロードムービー、 いろいろなストーリー内容が組み込まれていますが、それを比較的短い時間に纏めてしまった結果、全てが中途半端で薄く感じてしまいました。 特に感じたのが、認知症になった原因を探るために親子で旅をするのですが、少し見辛かったです。 その原因はとある人物2人が絡んでくるのですが、正直そんなに描かれていません。 特に、直接の原因となった人物の方は物語の途中からフェードアウトしてしまうので、突然その人物の名前が出てきたときに「そういえば、いたな」となってしまいました。 何故フェードアウト状態になったかは後々明かされるのですが、うーん… やはり忘れさせない程度にもう少し出した方が良かったかなと思います。 また前述から触れてますが、 吉永小百合と阿部寛は夫婦という設定です。 けど全然夫婦には見えなかったし、寧ろ親子っぽく感じてしまいました。 確かに吉永小百合が非常に若く見えるのは僕も同感です。 演技も前述の通り、二人とも良いです。 ただ、吉永小百合が70歳を越えている事も知っているので、20歳ほど年下の阿部寛の奥さんという設定はどうしても違和感を感じてしまいます。 また、堺雅人演じる息子の会社も描かれるのですが、それが原因で堺雅人演じたキャラクターが全然好きになれませんでした。 コンビニの店長だったと思うのですが、店員に対しての扱いが最悪で、最早奴隷状態です。 当時の時代背景もそこまで詳しくないから否定的に見てしまったと思うのですが、自分自身ブラックに勤めていた経験もあって、こんなところには絶対働きたくないと僕みたいな20代には感じてしまいます。 また、篠原涼子はこの映画で堺雅人の妻を演じています。 同年公開の映画で「SUNNY」では良い演技をしてたのですが、この映画は去年の3作品のなかで一番ダメでした。 アメリカ育ちという割には英語の発音は酷いし、全体的に大袈裟にやってる気がしました。 これで日本アカデミー賞の助演女優賞にノミネートされたと思うと疑問でしかないです。 そして、所々舞台の演出が出てくるのですが、個人的に必要性が感じられなかったです。 何のための演出だったのでしょう? 映画の雰囲気からだいぶ違うし、結構気持ちが離れてしまいました。 ですが、終盤の阿部寛が出てくる所は感動しました。 また、終盤の方で吉永小百合が認知症になった原因が発覚した時は少し感情的になりました。 吉永小百合が罪深く感じる要素としては少し弱い気もしますが、二人の演技が良かったので、それが大きく感情的になりました。 主題歌である合唱曲も良かったでしすし、親子の二人も多く描かれていた事で絆が感じられたので、それらにだいぶ映画が持ち上がった気がします。 ただ、いかんせん好きじゃない所が多かったです。 感じ方は人それぞれではありますが、僕にはこれが日本アカデミー賞のノミネート作品だということが納得がいきません。
辛い‥
どこを取っても不幸。戦争への恨みは募る。アルツハイマーではなく、トラウマからくる精神疾患なんて、辛すぎる。どれだけ辛い人生を送ってきたのか。見ていて辛かった。若い頃の役の吉永小百合、綺麗だけど流石に無理あったなぁ。いい女ですね、やっちまいましょうよ って言われてるとこが一番違和感あった。
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