「スマホの画面が割れていた。これを、評価すべきか?」きみの鳥はうたえる 突貫小僧さんの映画レビュー(感想・評価)
スマホの画面が割れていた。これを、評価すべきか?
スマホの画面が割れていた。という所、監督のセンスを疑う。
やはり、佐藤氏の作品は難しい。作品名「きみの鳥は歌える」
という作品名の「鳥」という言葉に躓いてしまった。「鳥」は
出てきたっけ?主人公が120まで数えたら…。という「120」
という数字さえ「どうして?」と思ってしまった。
石橋の映画での作品を観てみたいという気持ちもあったが「佐知子」と
いう謎めいた女性を卒なく演じていたと思う。可でも不可でもなく。
染谷の演じた「静雄」は、なんか他の二人を遠目で見ている感じで良かった。
もう少しひねくれた癖のある少年役でもよかった。映画の後半と原作の後半の流れは、若干違っている気がした。静雄が母親の所へ帰る件がなさすぎると思った。
原作では、もう少し「静雄」の出番が多いような。映画は、「僕」と「佐知子」の
別れの所で終わっているが。これで良かったのだろうか。
突然にコメント差し挟むこと、お許し下さい。
多分、スマホの画面の破損は、単純にお金が無く修理若しくは買替えられないことを表現しているのだと思います。であるならば、なぜ主人公達があんなにお金が回って貧困さが滲み出ないのだろうということですが、そんな不可思議さが現実も今の若い人達では往々に存在しているらしいのです。貸し借りしてるかもしれないし、又は色々なところから工面してる場合もあり得るでしょう。コミュニティが違えば、そこで起こっている”当たり前”は理解しがたいものがあり、『当然』と言う言葉の弱さは、ここ最近の顕著だと勝手に思っております。それだけ分断化された世界が現実なのですから、映画作品一つ取ってみても、解釈が難しいですね。
マーティー様とのやり取り、実に参考になりました。私は原作未読なのでお二人のコメントで、改めて原作との比較の一端を感じることが出来ました。
原作モノがある映画作品というのは難しいですね。敢えて映画化するということは、プロデュース側、実際の制作側、スポンサー、そして観客と、それぞれの思惑が複雑に絡まります。そのベクトルは残念ながら同一方向には向きません。そんなアンビバレントさを含めての”映画”ということなんでしょうね。
でも、私は思います。やはり、映画は”監督”のものであろうと。結局、監督の解釈、表現方法で作品は具現化します。そして観客はその意図を読み解く他、映画を好きになれないと・・・。原作はあくまでも原作であり、インスパイアされたものがどれだけ化けてでてくるのかは監督次第。そのダイナミズムに観客は興味を持つということではないでしょうか・・・
長々とコメントしてしまい、大変失礼しました。